2008年09月17日

後退なき典礼改革

 9月12日フランス訪問途上、飛行機の中でのジャーナリストの質問への回答において、教皇ベネディクト16世は、1962年版ミサ典礼書(旧典礼書)の使用条件を緩和した自発教令「スンモールム・ポンティフィクゥム」は第二バチカン公会議に始まる典礼改革からの退行ではないと明言している。この話題はCJC通信には取り上げられていない。ま・ここっとさんが触れているかと思ったら、ZENITの該当記事にリンクして、「B16が1962ミサを見直したことで「懐古主義」という箔を貼るのはどうやら早合点のようである」と正しくコメントしている。
http://malicieuse.exblog.jp/9492726/


 ここでは、肝心の部分を以下の記事を元に、ご紹介しよう。
http://www.zenit.org/article-23604?l=english
http://www.zenit.org/article-18792?l=french

質問 フランスでは、「スンモールム・ポンティフィクゥム」は第二バチカン公会議の意向からの後退を指図していると恐れる人たちがいますが?


ベネディクト16世 それは根拠のない恐れです。なぜなら、自発教令「スンモールム・ポンティフィクゥム」は単に、古い典礼において形成され、この典礼を愛し、熟知し、それと共に生きたいと思っている人々のための司牧的目的を持った、寛容の行為だからです。それは小さなグループです。というのも、ラテン語の形式、特定の文化における形式を前提にしているからです。しかし、これらの人々に愛を持ち、古い典礼と共に生きることを許す寛容性を持つことは、私たちの教会の司教たちの、信仰と司牧の当たり前の要求だと思います。第二バチカン公会議によって刷新された典礼とこの古い典礼との間にどんな対立もありません
 毎日、公会議の司教たちは古い司式に従ったミサを挙げました。と同時に、彼らは、今世紀における典礼の自然な発展を確信していました。というのも、典礼は生きた現実であり、自ら発展し、発展の中で自らの同一性を保持してきたからです。したがって、強調点の違いはありますが根本的な同一性があり、改革された典礼と以前の典礼との間の矛盾や対立を排除しています。両者は相互に強めあう可能性もあるでしょう。古い典礼を愛する側は、新しい聖性、典礼の新たな面を知りえますし、知らなければなりません。他方、新しい典礼は、共同の参加をより強調していますが、それは単に、一定の共同体の集まりなのではなく、全時代の全信徒との交わりの中にある、普遍的な教会の行為であり、礼拝行為なのです。
 この意味で、相互強化があるように思いますし、刷新された典礼が私たちの時代の通常の典礼であることは明白です

 一部のピオシンパのような伝統原理主義派の中には、典礼刷新そのもの、第二バチカン公会議そのものの否定を夢見て、自発教令「スンモールム・ポンティフィクゥム」を、公会議前への回帰の前哨と位置づける者もいる。しかし、それはまったく根拠のない主張であり、この記事に限らず教皇の常日頃の意向に反している。そもそも自発教令自体、第一項で「パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書はラテン典礼のカトリック教会の「祈りの法(Lex orandi)」の通常の表現」「これに対して、聖ピオ五世が発布し、福者ヨハネ二十三世があらためて発布したローマ・ミサ典礼書は、同じ「祈りの法」の特別な表現」と明確に規定している。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message243.htm
 自発教令とともに出された全世界の司教への手紙でも、同じことがより詳細に述べられている。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm

この文書は第二バチカン公会議の権威を損なうのではないか、すなわち、第二バチカン公会議の根本的な決定の一つである典礼改革を疑問視するものではないかという不安があります。この不安は根拠のないものです。この点に関して、第一にこういわなければなりません。すなわち、パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書が感謝の祭儀の「通常の形式(Forma ordinaria)」であり、今後もそうであり続けることは明らかです。これに対して、教皇ヨハネ二十三世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書の最終版は、典礼の「特別な形式(Forma extraordinaria)」として用いることが可能です。ローマ・ミサ典礼書のこの二種類の版があたかも「二つの典礼」であるかのようにいうのは適切ではありません。むしろそれは、唯一かつ同一の典礼の二通りの使用だというべきものです。

 これを読むと、上述の教皇の回答が、「スンモールム・ポンティフィクゥム」で提示した考えの延長上にあることが分かる。すなわち、旧典礼と新典礼は根本的に同一であり、後者は前者の自然な発展であり、それゆえ、新典礼はこんにちにおけるミサの「通常形式」である、という意向において、教皇ベネディクト16世にゆるぎはない。
 逸脱の見られる現行の典礼状況をどう正常化するかは、また別の問題である。ピオシンパのような一部の伝統原理主義者は、現実に存在する問題に対して、第二バチカン公会議と典礼改革の否定という、間違った処方箋を出しているに過ぎない。

(文責・金田一輝)



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2008年09月11日

アクィナスの「わらくず(藁屑)」発言

 トマス・アクィナスは1273年12月6日、聖ニコラウス礼拝堂でのミサ中に何らかの体験をし、その後、執筆も口述も絶った。このため『神学大全』は第三部の聖体の秘跡の項から悔悛の秘跡の項に移ったところで中断され未完となる。兄弟僧レギナルドゥスがなぜ著作を続けないかと尋ねたところ、「私が見たものにくらべれば、私がこれまで書いたものはすべてわらくずのように見えるからだ」と答えたと伝えられている。
 以後、この発言に対して様々なことが言われてきた。それはまず、アクィナスが実際に何を「見た」のか、ミサ中に何があったのかという体験に関してのことである。稲垣良典はS=タグヴェルの節を敷衍して、パウロが「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(第一コリント 13:12)という言葉で指示しているような「神の直視」のことではないかと推測している(稲垣良典『トマス=アクィナス』、清水書院、1992年、p.191)。そうした神秘主義的解釈を認めたうえで、仕事のしすぎで生じた脳腫瘍のような何らかの疾患による物理身体的原因を示唆する人もいる(Thomas F.O'Meara,O.P.,Thomas Aquinas Theologian,Notre Dame,Notre Dame Press,1997,p.31)。
 かりに何らかの神秘体験をしたとしても、それが断筆の主原因とは考えがたい。なぜなら、同様の(あるいはそれ以上の)神秘体験をしたと見られる諸聖人がみな、アクィナスと同じ行動をとったわけではないからである。それゆえ、断筆の主原因は病気によるものではないかと思う。
 しかし、いずれにせよ体験そのものについては結局憶測の域を出ないのだから、問題として重要なのはむしろ、この言葉の解釈の方だ。非常によくあるのは、この言葉を「神学の限界」と見なすことである。もちろん、文字通りにはその通りなのだが、ここから神や信仰に対する言語による知的作業をすべて無意味と見なし、「神学無用論」まで行きつく者がいるが、それはあまりに極端過ぎる。神学、あるいは人間の知の営みが、神の神秘を把握し尽すことなどできない、というだけのことなら、アクィナスはこの発言以前に既に表明している(たとえば『神学大全』第一部第三問序文「われわれは神について、その「何であるか」を知りえず、ただ「何でないか」を知りうるのみである」(山田晶訳))。Josef Pieperなどは、こうした否定神学的態度を『神学大全』にもともと内在する断片的(非組織的)性質とし、件の発言をそれをはっきりとした形で言い表したものだと見なしている(Josef Pieper,Guide to Thomas Aquinas,San Francisco,Ignatius,1991,pp.158-160)。
 「わらくず」発言そのものは、たしかに神学に対する何らかの否定性の表明なのであるが、それを単純に「神学の否定」と見なすよりも、否定的な形での肯定性の表現だと見なす方が、アクィナスの全神学に対する評価としては相応しいのではないか。Pieperが言うように、アクィナスの神学に対する限界の意識は、決して「反知性主義」に結びつくわけではないのだから。
 現教皇ベネディクト16世がある説教(国際神学委員会総会閉会ミサ説教(2006/10/6))において、この「わらくず」発言について興味深い考察をしているので、見ておこう。
ttp://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/homilies/2006/documents/hf_ben-xvi_hom_20061006_commissione-teologica_en.html

 聖トマス・アクィナスは、長い伝統を踏まえて、神学において神は私たちの語る対象ではない、と言います。これは私たち自身の規範的考えです。
 事実、神は神学の対象なのではなく、神学の主体です。神学を通して語る主体、それは神でなくてはなりません。私たちの言葉と思想は常に、神の語ること、神の言葉が世界において聞かれ場所を持つことを保証することに役立つのでなければなりません。
 それゆえ、あらためて私たちは、自らの言葉を捨てること、純化の過程へと招かれていることを知ります。それによって私たちの言葉は神が語りうるための道具に過ぎなくなり、その結果、真に神が神学の客体でなく主体となるのです。
 この文脈から、聖ペトロの第一の手紙の美しいフレーズが心に浮かびます。第1章22節です。「あなたがたは真理への従順のうちにその魂を浄めています」(Castificantes animas nostras in oboedientia veritatis)。真理への従順はわたしたちの魂を必ず「浄め」、そうして、私たちを正しいことば、正しい行いへと導きます。
 別の言い方をすれば、一般に流通している意見の指示に従い、人びとが聞きたいと思っていることに支配されて、称賛を受けることを期待して語ることは、一種の、言葉と魂の売春と言えます。
 使徒ペトロがいう「浄め」は、このような基準に従うこと、称賛を求めることではなく、むしろ、真理への従順を求めることです。
(中略)
 神の偉大さの前で私たちは沈黙します。私たちの言葉が取るに足りないものだからです。このことは聖トマスの生涯の最晩年を想起させます。人生最期の時、彼はもはや何も書かず、何も語りません。友人が「先生、なぜもはや何も語らないのですか? なぜ何も書かないのですか?」と尋ねました。彼は言いました、「私が見たものに比べたら、今や私のすべての言葉はわらくずに思える」。
 偉大な聖トマス専門家、ジャン=ピエール・トレル神父は、この言葉を間違って理解しないようにと教えてます。藁とは無のことではありません。藁は麦の実をつけます。このことは藁にとって大変価値あることです。言葉の藁でさえ価値あるものです。麦を生むからです。
 しかしながら、私が言いたいのは次のことです。これは私たちの仕事を相対化するものです。しかし、同時にそれは私たちの仕事を評価するものです。それは、私たちの仕事のやり方、私たちの藁が真実に、神の言葉という麦をつけるための指示でもあるのです。
 
 教皇ベネディクト16世によれば、アクィナスの「わらくず」発言は、神学それ自体の否定というよりも、ある種の神学的姿勢の否定と理解できる。否定されるべきなのは、神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営みであって、神学そのものではない。アクィナスの「沈黙」は、神についての言葉による知的作業の全否定などではなく、むしろ、神学が神を前にして本当に価値ある言葉を紡ぎ出すために必要な条件なのである。

(文責・金田一輝)

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2008年09月01日

トマス・アクィナスですがなにか? article.2 針の先天使何人乗れるかな?

チャオ!
アッキーナだよ。みんな元気してた? 「トマス・アクィナスですがなにか?」コーナーはじめるよ!
今日の質問はお手紙みたいだね、なになに。「はりのさきにてんしさんはなんにんのれますか ペンネーム・コサカーナ大好きっ子」。そっち? ねえ、そっち? えっとそれはともかく、こういう疑問、ちょっと馬鹿馬鹿しいように見えるよね。昔のエラい人もそう言ってたし。でも、実はそうでもないんだな。
まず、天使なんだけど、人間とは違ってリアルな身体がないの。身体なしの魂みたいなもん。分かりやすく言うと、天使はバーチャルアイドルなんだね。初音ミクとかね。
で、身体がないわけだから、リアル世界に物体としてあるってことはない。でもね、ここだけの話、天使ってイタズラ好きなのよ。だから、時々みんなも知らない内にリアル世界にちょっかいをかけていたりする。『スターオーシャン3』がたびたびフリーズするのも天使の仕業だし、アニメ映画の宣伝かと思ったら実はパチンコメーカーのCMだったりするのも天使の仕業だし、中川翔子がダミ声なのも残酷な天使のせいで。
天使はリアルな身体を持ってないバーチャルな存在だけど、リアル世界に働きかけるリアルな力は持っているわけ。
で、そんなイタズラ好きの天使なんだけど、なわばり意識というのかな、そういうのがあって、ある天使がイタズラをしている時には別の天使は見てるだけ。協力プレイなし。だって彼らに言わせれば、「ひとりでできるもん」てこと。だから、天使のイタズラ現場を見る人が見たら、「ミカエル参上」とか「ガブリエル参上」なんてカードが置いているようなもの。
そういうわけで、同じ針の先にイタズラする時も、同時に複数の天使がノッたりはしないんだ。天使のプライドが許さないみたいだね。でも、本当を言えば、実はあれって点じゃなくて一定の広さを持った面なわけだから、針の先に押し合いへし合い無数の天使たちがノッても別におかしくはない。というか、その方が綺麗じゃない?
これで答えになったかな。じゃ、時間が来たからまたね!
アリヴェデルチ!

*当記事はSumma Theologica T Q.52 AA.1-3を元に、私が編集・構成したものです。文章の責任はすべて私、金田一輝にあります。

(文責・金田一輝)



2008年08月27日

神学大全を日本語で読めるサイト

「存在論日記」の大黒学さんが、ネット上で『神学大全』の全訳を開始している。
http://theologia.jp/
最近まで気づかなかった不明を恥じる。
必要なのに誰もやらないことをするというのは大変なことで尊敬申し上げる。これを機会に研究者たちが、神学の古典の日本語訳をネット上にソースとして置いてくれると大変うれしい。

ところで『神学大全』、読みたいけれども、あんな大部の作品読み通すことなどできないとお思いの方は多いであろう。実はちょっとした裏ワザがあって、それはTimothy Mcdermott ed."SUMMA THEOLOGIAE"(Christian Classics)を読むことだ。これは異論―解答形式を解体して一連の文章のように通読できるものとして、『神学大全』を圧縮要約した本(およそ6分の1)。それでも600ページを超えるが、現物を読むよりはましだろう。
たまに一部分のみを拾い読みする人(私)がいるが、本来はご法度である。というのはアクィナス自身、「初心者がドツボにはまるのは、本が順序良く書かれてないから」と『神学大全』序文で述べている通り、最初から読まないとよく分からない仕組になっているからだ。もちろん、全体の構図が頭に入っていると、より細部を理解しやすくもなる。
通読したことのない私が言うのもなんだが、数ある哲学書の内で『神学大全』はとても読みやすい方だと思う。おそらく分からなさの多くは、キリスト教神学に対するなじみの薄さに原因がある。しかし、そういうとっつきの悪ささえクリアすれば、『形而上学』『純粋理性批判』『精神現象学』『存在と時間』といった難解哲学書よりは、はるかに分かりやすい。しかも哲学的に得るところも大なのだから、そういう方面に興味のある人が読まずにいるのはもったいないことなのだ。
もちろんカトリック教会の教えを包括的に学びたい方にとっても、最適な教科書である。古いから、と心配する必要はない。『神学大全』が呈示した思想は、今もカトリック教会の中に生きている。
そういうわけで、トマス・アクィナスを初めとする中世哲学をもっと身近なものに、と願う(願うだけ)私には、このWeb『神学大全』日本語訳は貴重な贈物なのであった。

(文責・金田一輝)



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2008年08月25日

マリア第五の教義覚書(1)

マリア第五の教義とは、聖処女マリアは「共贖者(Coredemptrix)、すべての恵みの仲介者(Mediatrix of all grace)、神の民の弁護者(Advocate for the People of God)」であるという教義で、仲介者マリアの民衆の声(Vox Populi Mariae Mediatrici)が、このことを教皇が教義決定し宣言するよう請願する運動を行っている。
(以下を参照。
http://www.ewtn.com/library/MARY/MEDIATRI.HTM
http://www.fifthmariandogma.com/index.php?option=com_form&Itemid=602
当初のヨハネ・パウロ2世への請願書とは違い、ベネディクト16世への請願書では「共贖者、全ての恵みの仲介者、弁護者という三つの主要な相の下において、すべての人々の霊的母(the Spiritual Mother of all peoples under its three principal aspects as Co-redemptrix, Mediatrix of all graces, and Advocate)」と、より包括的な表現に変更されていることに注意)
今の所、本格的な論考を書く準備ができていないので、メモ代わりに覚書を認めておく次第。



数々のカトリック系の本を出版している竹下節子は、『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』第五章「ドグマ狂騒曲」でマリアの教義についてとりあげている。もちろん、ぬかりなく第五の教義にも言及している(というより、もっともおいしい話題なのだろう)が、至る所に首をかしげざるをえないような記述が見られる。竹下は新聞記事を元に(!!)「仲介者マリアの民衆の声」運動について記述したうえで、以下のように書いている。

第五の教義論争
 一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている。マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ないからだ。それでもマリア信仰が、聖書、初期教父文書、典礼の伝統に根ざしていることのみは確認されたが、他の議題に関しては常に九〇パーセント内外の圧倒的多数で裁決されていたこの公会議において、マリアの「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号は、二〇〇〇人の投票者のうち五二パーセント以下の同意を得たにとどまった。それを受けて一九六四年一一月二一日に発表された全体の憲章『民の光』の中では、「教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと宣言された。現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている。


『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』、講談社選書メチエ、1998年、p.128

なんとも非論理的(非説得的)な文章である。
まず確認しておくと、竹下は第五の教義を「処女マリアは、共同の贖い主で、すべての恩寵の仲介者で、神の民の弁護人である」(pp.116-117)という教義であると同じ章で明記している。にもかかわらず、まったく脈絡なく「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号の話が出てくる。関連があるとしても、その関連が語られておらず、何のために持ち出したのか、さっぱり分からない。
最後の文「現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている」はまったくチンプンカンプンだ。教会のどこの誰が「パラドクス」を「キリスト教徒の目指すシンボル」だなどと唱えているのか教えて欲しいものである。

「教会の母」云々についてだが、竹下節子は「(マリアは)教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと『民の光』で宣言されたと言っているが、こんな文章は「教会憲章」(Lumen Gentium=『民の光』)の中には存在しない。存在することを証明するのは簡単だが、存在しないことを証明するのは難しい。「教会憲章」のマリアに関する章(52-69)を読んでくれとしか言えないが、さしあたりヨハネ・パウロ2世の言葉を典拠としてあげておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「公会議文書においては、「教会の母」という称号を聖処女に明示的にあててはいない」(1997年9月17日一般謁見講話・1)
この言葉は公会議文書ではなく、第三総会閉会時のパウロ6世のスピーチに出てくる(こちらの30を見よ)。ここでも、前述のヨハネ・パウロ2世の言葉を状況証拠として提出しておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「教皇パウロ6世は第二バチカン公会議自体が、「マリア、教会の母すなわち、信徒であれ聖職者であれ、すべての神の民の母」と宣言することを望んでいたであろう。彼は、1964年11月21日の、公会議第三総会の終わりにおけるスピーチで、自らそれを宣言した。」(1997年9月17日一般謁見講話・5)
竹下節子はおそらく、一次文献である公会議文書を1ページも読むことなく二次文献をまる写ししてしまったのだろう。

さて、最も重要な第一文「一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている」という主張を検討してみよう。まず、そもそもこの文章には主語がなく、いったい何が「退けられている」のかがはっきりは分からないが、とりあえず文脈上「第五の教義」のことだとしておこう。このパラグラフ全体から、竹下節子はマリアの称号として「教会の母」だけが憲章から「退けられ」なかったと考えていることが推測される。この推測は、別の箇所で竹下が以下のように書いていることからも正しいものと裏づけられよう。
「第二ヴァチカン公会議でも、マリアへの言及について司教たちの意見が分かれたとき、パウロ6世の力で、何とか「教会の母」という比喩的で無難な称号を承認させた」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.135)
すでに確認した通り、実際には第二バチカン公会議公文書「教会憲章」では「教会の母」という称号は退けられている(使用されていない)。では逆に、第五の教義で用いられている「共贖者、仲介者、弁護者」はどうだろうか。
結論から言うと、「共贖者(Coredemptrix)」は「退けられている」が、他の二つは使用されている。

マリアは天にあげられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、かえって数々の取り次ぎによって、われわれに永遠の救いのたまものを得させるために続けている。マリアはその母性愛から、まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、危険や困難の中にある兄弟たちが、幸福な祖国に到達するまで、配慮し続ける、このために聖なる処女は、教会において、弁護者(Advocate)、扶助者(Auxiliatrix)、救援者(Adjutrix)、仲介者(Mediatrix)の称号をもって呼び求められている。


Lumen Gentium 62

したがって、第一文を第五の教義に関する「称号」が「退けられている」という意味に解する限り、竹下節子の主張は正しくない。三つのうち二つは第二バチカン公会議公文書「教会憲章」で採用されているからだ。ちなみに件の四つの称号は、『カトリック教会のカテキズム』969において、またヨハネ・パウロ2世の回勅『救い主の母(Redemptris Mater)』40において引用され再確認されており、公会議以降も、教会教導権によって決して退けられていない。
第五の教義の教義決定が退けられたという意味ならば間違いではない(第二バチカン公会議はマリア教義に限らず新たな不可謬宣言を避けていたのだから当たり前)が、パラグラフ全体から見て、竹下はそのような意味では書いていないと思われる。かりにそういう意図だったとしても、誰でもわかるように明示的に説明しておくべきで、いずれにせよ欠陥のある文章だと評価せざるをえない。

総じて竹下節子の記述には、カトリックのマリア論に対する一般的な偏見が反映しているように思われる。第二バチカン公会議が第五の教義を退けた理由として挙げられている「マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ない」という第二文の文言は、その最たるものだろう。
確認した通り、第五の教義に関する称号についてすら、公会議文書に採用されている。そればかりではない。この称号が表す教義内容については、第二バチカン公会議のみならず、教会が繰り返し教えてきたことにほかならないのだ。上述の「教会憲章」の続きを引こう。

しかし、このことは、唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない。
 事実、いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主とけっして同列に置かれてはならない。しかし、キリストの司祭職に聖職者も信者の民も種々の儀式で参与するように、また、神の唯一の善性が被造物に種々の様式で現実に広げられているように、あがない主の唯一の仲介は造られた者が唯一の泉に参与しながら行なう種々の協力を拒絶するものではなく、かえってこれを引き起こすのである。
 教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護にささえられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。


Lumen Gentium 62

この憲章は、一方で、キリストが唯一の神と人との仲介者であり、(マリアも含む)他の被造物はそれと同列に置かれないこと、他方で、この唯一の仲介は、被造物による協力を妨げないことを確認している。このことから分かるのは、マリアは、たしかにキリストと同じ意味で、同じ仕方で「神と人との仲介者」であることはありえないが、救いのわざに従属的に「協力」することで「仲介者」となることはありえるということだ。実際、マリアの仲介なしには、受肉の秘儀はありえなかった。
マリア第五の教義宣言請願運動の支持者も、決してこのような第二バチカン公会議の抑制されたマリア論を逸脱して、マリアを「よりいっそうキリストに似た立場に近づけてしまう」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.131)ことなど意図していない。しかし、そうした事実は、一次文献の確認を怠って書きなぐった、好奇心を満たすだけのスキャンダラスな文章からは決して見えてこないのである。

(文責・金田一輝)



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2008年08月20日

井上洋治『キリスト教がよくわかる本』

「キリスト教がこの一冊でよくわかる、というような本」(まえがき)をという要望を受けて書いたとあるが、到底その任を果たしていない。
キリスト教の信仰に関して言うと、キリスト教徒が共同で信ずべきものとして伝えてきた信仰箇条があり、例えば三派が共通して信仰の基準と見なしている「二ケア・コンスタンチノープル信条」に集約されている。こうした信条(クレド)を元にして公的な信仰内容を説明し、その上で必要なら私的意見をそうことわって書くなら問題ないだろう。しかるに井上は「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(同上)と豪語するすぐそばから「やはり私の考え方が、いたるところににじみでてしまっている」(同上)とあらかじめ言い訳めいたことを平気で言う。
「まえがき」から前途多難だが、中身は予想通り、客観的なキリスト教などではぜんぜんなくて、単に井上が個人的に信じたいキリスト教像が描かれているだけである。
まず、井上は信仰内容をいちいち矮小化している。「創造」について、「神さまが天地を創造したというのは、天地自然は、一瞬一瞬神さまの力にささえられて存在しているということ」(p.111)だと記述している。まったくの間違いとは言えないが、これでは肝心要の「神の全能性」「無からの創造」が説明されていない。「聖霊」は「神さまの慈愛の息吹」(p.114)とされ、なぜか芭蕉や西行を持ち出して、「私たち(註・日本人)が「大自然の生命の風」としてとらえた風を、キリスト教では「聖霊」と呼んでいるのだと言ってもよい」(p.117)と説く。言ってもよいかも知れないが、これでは聖霊の神性(非被造性)がまったく分からない。いちおう三一性についての解説もあるが、「三つの存在様態において自己を示される」(p.119)という、よくあるサベリウス的理解(様態論的モナルキア主義)に傾いており、正確ではない(「「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称では」ない(CCC 254))。
キリスト論に至っては矮小化どころではなく、まったくの歪曲である。キリストの復活の客観的事実性はきっぱり否定されている(井上は同様の調子で「処女懐胎」(p.34)、「奇跡」(p.101)、「死者の復活」(p.205)の客観的事実性も否定している)。

「イエスが復活したということは、墓からでてきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界を歩きまわったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、永遠の生命に復活した、よみがえったということなのです」(p.66)

キリストの復活の客観的事実性がキリスト教の信仰箇条であることは、いちいち言うまでもない(例えばCCC 639-646を見よ)。復活の客観的事実性の否定自体も問題だが、その私的見解の立証のために、とんでもなく無理気味の聖書読解をしていることに、非常な知的不誠実を感じる。

「いま『ルカによる福音書』の表現を追ってみましょう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスがあらわれたとき、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちはそんなに恐怖にふるえあがったのでしょうか」(p.67)

この疑問に対する井上洋治先生の解答がすこぶるふるっている。

「弟子たちはイエスの怨霊があらわれたのだと思ったのではないでしょうか。
「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません、一緒に死にます」などと言っていた弟子たちは、いざとなると命が惜しくて完全に師イエスを見殺しにしてしまいました。イエスが十字架を背負って倒れたときも、ただ何処からか見ているだけで手伝いにはでていきませんでした。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死をとげてしまったのでした。さぞかし先生は我々のことを怨みながら死んでいかれたにちがいない、そのような意識にさいなまれて、弟子たちは嫌悪と恐怖の時間をすごしていたにちがいないのです。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していたでしょう。
ところが、この物語の表現によれば、そこにあらわれた師イエスは弟子たちを罰したり怨んだりせず、魚をとって一緒に食事をしたというのです。これは弟子たちを裁かずにゆるしているということです」(p.67)

ここから井上は「裏切った私たちをゆるし、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなす」(p.68)と断言する。
井上によれば「宗教の世界における真実は」「主体的真実を求める」(同上)ものだそうな。それにしてもなんとも胡乱な「主体的真実」であることか。そもそも、井上の記述する弟子たちの心理なるものは全くの憶測でしかない。ルカ伝該当箇所を引こう(フランシスコ会訳)。

「二人が、こう話していると、イエズスご自身が皆のまん中に立ち、「あなたたちに平安があるように」と仰せになった。弟子たちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思った。「なぜおびえているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私自身である。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなたたちが見ているように、わたしにはそれがある」。こう言って、イエズスは手と足をお見せになった。弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っていると、イエズスは、「ここに何か食べる物があるか」と仰せになった。それで焼いた魚の一切れをさしあげると、イエズスはそれを受け取って、皆の前で召し上がった」(ルカ24:36-43)

実際に聖書のこの箇所を読んだ者であれば十中八九「事実として信じるか信じないかはともかく、井上のようには解釈できない」と思うだろう。というのもここでイエスは、弟子の裏切りをゆるしているのではなく、まさに物理的な「復活」を信じないことをとがめているのだからである。マルコ伝にも「その後、イエズスは彼ら十一人が食卓についているところに現われ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活したイエズスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)とある。弟子たちが幽霊を見たと思ったのは、それを「怨霊」(!)と考えたからではなく、イエスの物理的な復活が信じられなかったからだ。それゆえ、明らかにキリスト教信仰の「復活体験の核」は「カメラの写真にそのままうつるかのような」(p.68)復活の客観的な事実性にある。井上はそれを否定するだけでなく、聖書の記述を我流に解釈してそうするのだから始末が悪いというしかない。
おそらくこの本の根本的欠陥は、人類の罪の贖いとしての十字架上の死というキリスト教の中心思想を明確に述べてないことだろう。たしかに井上も原罪の解説の中で「破壊された平和と連帯の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだとパウロはその手紙の中で述べています」(p.145)と、この中心思想に軽く触れてはいるが、まさしく軽く触れているだけなので、不案内な読者なら単にパウロの個人的見解と受け取ってさっさと通り過ぎてしまうだろう。
しかしながら、この「キリストの受難による贖い」という教えが説明されていなければ、受肉の意味も復活の意味も、救いの経綸の中でのそれらの連関も、さっぱり分からなくなる。この本を読んでも、キリスト教は漠然と「隣人愛」を説いた宗教だとしか理解できまい。あるいは「「裁き」ではなく「許し」を」、といった平板極まりない心理カウンセリング本にでもありそうなスローガンしか出てこない。しかし、そうしたものはせいぜい「井上教」とは言えても、決して「キリスト教」ではない。まったく、「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(まえがき)という言葉が泣いている。
余談になるが、「エホバの証人」を正統キリスト教ではないとするのは良しとして、輸血を拒否して死ぬことを個人の信念であり自殺ではないなどとまで述べている(p.190)のは完全に余計である。本の主旨を逸脱している。また、「無教会主義」をご熱心に説明(pp.187-189)する一方、肝心の「教会」についての説明はこれぽちもない。どう考えてもバランスを失している。
そういう次第で、これは「キリスト教がよくわかる本」ではない。むしろ「キリスト教がよくわからなくなる本」と改名すべきである。

(文責・金田一輝)



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2008年08月19日

Donald H. Calloway ed."Immaculate Conception In The Life Of The Church"

(注・この記事は『金田一輝のWaby-Saby』2006年11月27日記事の再掲である。)

「マリア無原罪の御宿り」教義宣言150周年を記念して編まれた論文集。六編収録してある。

1.The Immaculate Conception in Catholic Apologetics(Robert Stackpole)
2.How dose the Immaculate Conception Relate to Every Human Conception?(Sr.M.Timothy Prokes)
3.Virgo Ecclesia Facta:The Immaculate Conception,St.Francis of Assisi and the Renewal of the Church(Fr.Peter Damian M.Fehlner)
4.The Immaculate Conception and Theological Anthoropology(Mary Shivanandan)
5.The Immaculate Conception in the Thought of Adrienne von Speyr(Fr.Donald H.Calloway)
6.The Immaculate Conception and The Co-Redemptrix(Dr.Mark I.Miravalle)

巻頭の1.はこの教義の概説。よくまとまっており、とりあえずABCを知っておきたい方はこれだけを読めば足りる。巻末の6.は第五の教義宣言請願運動「仲介者マリアの民衆の声」代表Miravalleによる、ICと「共同贖罪者」の連関を論じたもの。「無原罪であるがゆえに共同贖罪者」というのは、これら教義の絡み合いからいえば正当。逆に言えば各教義から切り離して独立させてしまう時にこそ「論争的」に思えるのだ。2.と4.はこの教義から、現代的課題、特に結婚や性的関係の問題を見ようという試み。非キリスト者にはこのあたりから入るのがよろしかろう。3.と5.は個別の思想家をとりあげた意欲作。特に5.で取り上げられたAdrienne von Speyerは、忘れられたというよりも、いまだ覚えられてさえいないが、IC教義宣言以後において、マリア教義を極限まで深化させた思想家である。マリア幻視者で私的啓示も受けているということがかえって災いして、そのSpeyrの著作の神学的評価はかなりなおざりにされてきたようだ(彼女の助力者でもある現代カトリックを代表する神学者Hans Urs von Balthasarはまれな例外)。 event且つpersonとしてのIC(これは現代マリア神学の開拓者・コルベ神父のマリア理解でもあり、Co-Redemptrixとの絡みでも重要)や、キリスト類型的マリアと教会類型的マリアの総合といったあたりがSpeyrのマリア神学の特徴か。今後のより広い研究が待たれる。
当たり前のことながら論者全員マリア萌えなところは気になるが、充実した一冊である。

(文責・金田一輝)



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2008年08月18日

『カトリックの擁護』1周年

構想10年、準備期間1年を経て立ち上げた(実話)このブログ『カトリックの擁護』であるが、めでたく1周年を迎えるに至った。これもみなさまのご支持と私の努力(笑)の賜物である。
立ち上げた直近のきっかけは、伝統原理主義(聖ピオ十世会)の問題で、準備期間1年のほとんどはその調査・研究に充てていた。本当は2年を目処にしていたが、勉強にするにつれ「これは2年では足りない」と思うようになり、とりあえずスペースを確保する意味も込めてブログをスタートした。
世に反ピオ言説を誇る人はいくらでもいるから、すぐに私に刺激されて陸続と同類サイトが生まれるものと期待したが、いまだにうんともすんとも言わない状況だ。それどころか、反ピオ派から「金田はピオ擁護者」などという意味不明の批判まで浴びる始末である。そういうわけで今の所、個人的な意志では伝統原理主義への対抗言論をやめることはできないが、決してそれは私のメインテーマというわけでもない。
さかのぼればネットを始めた時から、キリスト教に特化したサイトを作ることは夢だった。というのは、巷間よくあるキリスト教徒同士の議論に、徐々に不満が溜まってきたからだ。特にカトリックに関していえば、かつては『カトリック教会のカテキズム』を開けば一発で解決するような無駄話を延々している光景をネット上でよく目にしたものである。カテキズムを持ち出そうものなら、「信仰は書物の中にはない」という情緒的な大反発をくらい、それ以上進展がなく平行線で終っていた。
さすがに現在ではこうしたカテキズム・アレルギーは減っているように思われるが、実際には、カテキズムに明白に書かれていることを否定してはばからない猛者たちが、信者であることだけを頼りに、未信者の私に意見する例があとを絶たない。そうであれば、カテキズムレベルの基本的な事柄についても、参照できるデータベースがあった方がよい。『カトリックの擁護』はそういうニーズにも応える用意があるが、これは今後の大きな課題だろう。
私の個人的関心のコアは「カトリック神秘思想」なのであるが、これは正確に説明するのは難しく、誤解される可能性120%なので詳しい内容は秘密(笑)。スローガンは「神秘主義は反知性主義ではない」である。あとはご想像におまかせする。
個別テーマではマリア論、今は特に「無原罪の御宿り」を探求しているが、次から次に課題が増え、インプットする時間がなかなか確保できないのが現状である。他にもいろいろ準備しているが、これはあとからのお楽しみということで。
では、読者のみなみなさま、今後もご愛顧のほどを。

(文責・金田一輝)





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2008年08月12日

Tracey Rowland"Ratzinger's Faith: The Theology of Pope Benedict XVI"

トレーシー・ローランド『ラッチンガーの信仰:教皇ベネディクト16世の神学』。紹介文から。


『ラッチンガーの信仰』は神学者であり霊的指導者であるベネディクトへと私たちを誘う。彼の思想は啓示と伝統の間、熱情と知性の間でバランスをとっている。
トレーシー・ローランドは、道徳神学や政治神学、西洋文化、そして典礼やカトリック教会の構造、また第二バチカン公会議の解釈への教皇のアプローチを評定している。他の学者たちとの関係が詳細に吟味され、とりわけ教皇ベネディクトにとってのアウグスティヌスの重要性と先任者への聖トマス・アクィナスの強い影響との間の相違を探求している。この展望の顕著な差異が来るべき時代にどのような形で現れるかについてローランドは考えている。
鍵となる考えや概念は至る所ではっきり説明されており、また、教皇ベネディクト16世の思想をさらに探求したいと願う人々にためになる、様々なテーマを扱った文献目録が附されている。


トレーシー・ローランドは、ヨハネ・パウロ2世協会(メルボルン)の、政治哲学ならびに大陸神学の学部長にして準教授である。他数名とともにジョゼフ・ラッチンガーとハンス・ウルス・フォン・バルサザールが設立した機関紙「コムニオ」の英語版編集局メンバーでもある。彼女の初めての書『文化とトミストの伝統:第二バチカン以後』は、ラディカル・オーソドクシーシリーズから出版された。


20世紀のカトリック神学は、世紀初頭に支配的だったネオトミズムに対する様々な抵抗や批判によって形成されてきた。ラッチンガーもそうした潮流の中で成長した神学者の一人だ。
ネオトミズムの特徴は、信仰と理性、恩寵と自然、教会と世界といった、二分法に見られる。これ自体は一見害がないように思えるし、方法論的な妥当性もあるのだが、場合によっては極めて硬直的な態度に堕しかねない。実際、第二バチカン公会議の議題の一つになった世界と教会との関係性に関しても、ネオトミズム流の見方からすれば、聖なる教会と俗なる世界という二分法から、いかに教会を世界という泥海から守るかといった退嬰的な問題意識しか出てこない。これは「世界」を「近代社会」と置き換えても同じことだ。
こうした反動的な構えから抜け出すことが、第二バチカン公会議の意義の一つだったと言える。しかし、こうした態度変更は、教会の俗世間への妥協であるという、伝統主義者たちからの痛烈な批判を浴びる。しかし、ラッチンガーは、伝統の保守のためにこそ、教会は刷新されねばならないと考えていた。
ネオトミズム的「伝統」をいささか戯画的に述べれば、それは外界にさらされることなくそっくりそのまま真空パックで冷凍保存され、世代から世代へと抗菌手袋で受け渡されていくものだ。ネオトミズムは伝統を没歴史的没文化的にとらえている。
対して、ラッチンガーによれば「伝統」とは、歴史を通して、文化的土壌の中で展開し生きられるものだ。決して真空で氷結しているものではない。そもそもキリスト教信仰の基礎である「啓示」自体、歴史的出来事であり、ヘブライの歴史(旧約)なしにはありえない。その後の教会の発展も、ヘレニズム文化との交流の元にあった。教会が世界と没交渉であることなど、そもそもできはしない。かように伝統は生きているものであり、教会こそが生きた伝統なのである。これはネオトミズムの影響を受けた昨今の伝統主義者の自称「伝統」(死んだ伝統)とは、まっこうから対立する見解である。
ラッチンガーの生涯を貫いている歴史性への関心は、主にアウグスティヌスとボナヴェントゥラから培ったといえるが、彼らからはまた「愛」の優位性の考えも受け継いでいる。これは単に、真理の伝達ではなく道徳の実践を、といった話ではない。「裁き」から「許し」へ、といった話でもない。ラッチンガーにとって愛とは、神の三一性(三位の交わり)に基礎づけられており、自己のためではなく他のためにあるあり方だ。重要なのは、こうした利他的在り方は、単なる法的規制によっても、単なる理性の自己規律によっても達成できないということである。それには神の三一性への参与にともなう根本的な自己変容を要する。これはジャンセニズム的な厳格主義と違うのはもちろん、世俗の道徳主義ともまったく異なるアプローチだ。
こうした愛の優位性に基づくラッチンガーの構えは、公会議後のカトリック教会のそれでもある。あらかじめ真理の側と誤謬の側を二分するのではなく、カトリック教会がすべての信仰の真理を保有することを認めた上で、その外部にも真理は存在し、その意義を尊重するという態度である。したがって、真なる命題の塊を無理矢理押しつけるのではなく、カトリック教会という豊かな愛の交わりへと招き入れることが、現在の宣教の根本方針となっている。
現教皇ベネディクト16世が、現代のカトリック教会とカトリック神学の大きな変化を体現している偉大な神学者でもあることを力強く承認させる一書である。

(文責・金田一輝)



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2008年08月07日

Jean Borella"The Secret of the Christian Way"

(注・この記事は『金田一輝のWaby-Saby』2007年4月25日記事の再掲である。)

真のリアリズムとしての神秘主義を地でいくフランスの現代神学者Borellaの論考を、聖ボナヴェントゥラの『魂の神への道程』の七階梯に従ってまとめた小著。まったく無名ながら、数々の卓見に満ち、中身が濃い。いわゆる「グノーシズム」は近代の「発明」であって、キリスト教こそ、真の知(グノーシス)であることを明かしていく。
神秘主義というと、現実世界を仮想のものと見なし、その背後にあるイデア的世界をこそ「リアル」とする態度を思い浮かべる。たしかにそれは一面正しい。そしてそのゆえに、そのような態度は現実世界の否定であり、貶下である、というのが、おおざっぱに言ってニーチェを頂点とする、形而上学・キリスト教批判の骨子でもある。しかし、問題は現実界がイデア界の「影」であったとして、その「影」の様相・意味の方だ。実際の所、「影」であることが単なる否定でも貶下でもないとしたら?
逆に、この現実世界をこそ「神」とする汎神論は、本当にその世界を肯定していることになるのか? むしろそれは「神」という超越的価値の貶下になるのではないか。「神」という名によって、神ではないものを名指してしまっているとしたら、それもまた転倒である。まさに、この名指しこそ、不可視のものの方へと魂を動かせるものであり、「象徴」と呼ばれる。現実世界はリアルな象徴に満ちている
もちろん名指しといっても、象徴は背後の何かを単に指示する記号ではない。象徴においては霊的運動と知的認識は不可分離的である。わたしたちは、象徴を介して神秘の世界を、つまり可視的なものによって不可視のものを実体験する。その意味ですべての象徴は秘跡的である。この書ではBorellaの象徴的リアリズムは、当然ながら十字架やキリストの身体の傷の問題などへと収斂していく。
単なるノスタルジーでもなければ、現実の異化効果の類でもない、真に知的な神秘主義がここに開示されている。同時代にこのような知性が存在すること自体奇蹟だ。

(文責・金田一輝)



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