2007年08月31日

教会論についての教理省の発表

知り合いの神父の方のご教示を受けて知ったが、教会論について以下のような文書が発表されていた。

教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答
「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」解説

ちょうどたまたま「カトリシズムって、結局のところ、主が建てた教会を信じることなんだよなあ」と思いはじめていた矢先のことで、これも聖霊のお導きか。
目を引いたのが(主の教会はカトリック教会に)「subusistit in」(存在する)という表現について解説しているところ。第二バチカン公会議の「教会憲章」にあるこの語は、多くの誤解を生み、リベラリストも伝統主義者も、立場は真逆といえど、これをもってカトリックは古典的(?)教会論を捨てたのだと解釈して勢いづいた。
解説のハイライト部分を引用する。


実際、キリストが望んだ教会はまさにカトリック教会のうちに存在する(subsistit in)がゆえに、この存在の連続性はキリストの教会とカトリック教会の本質的な同一性を表します。公会議が教えようと望んだのは次のことです。すなわち、わたしたちはカトリック教会において具体的な歴史的存在としてイエス・キリストの教会と出会うということです。それゆえ、「存在する(subsistit)」ものが多数あるようになるという考えは、けっして「存在する(subsistit)」という用語を選択した際にいおうと意図したものではありません。「存在する(subsistit)」ということばを選ぶことによって、公会議は、キリストの教会の独自性をいおうとしたのであって、「多数性」をいおうとしたのではありません。教会は歴史的現実の中に唯一の主体として存在するのです。
  それゆえ、根拠のない多くの解釈とは反対に、「ある(est)」から「存在する(subsistit)」への変更は、カトリック教会が自らを唯一のまことのキリストの教会であるとみなすことをやめたことを意味しません。むしろそれは、カトリック教会が、カトリック教会と完全な交わりをもたないさまざまなキリスト教共同体のうちに真の教会的性格と次元を認めたいというエキュメニカルな望みへと大きく開かれていることを表すにすぎません。これらのキリスト教共同体のうちには「数多くの成聖と真理の要素」があるからです。したがって、教会は唯一であり、唯一の歴史的主体のうちに「存在する」としても、この目に見える主体の外にも、真の意味での教会的現実が存在します。


「教会憲章」における教会論は、過去の教会の教えを変更せず、そこにあらかじめ含意されていた意味を開示したに過ぎない。ニューマンの言い方に習うならば、これは「教義の発展」であって、「変更」でも「発明」でも「堕落」でもない。そしてこうした含蓄的教義の明示は、教会教導権にまかされた権能であり、それを信頼することは、カトリックの信仰の一部を成す。
よく知られている通り、「教会憲章」は「教会の外に救いなし」という古くからの教義を堅く保持しつづける一方、他方で、教会外での救いの可能性について言及している。これは何も第二バチカン公会議で突然飛び出したものではなく、「望みの洗礼」という思想として胚胎していたものを、改めて明示し直したものに過ぎない。ドナティスト論争の頃から、あたかも相反するような両極への動きを調停し中庸を進んできたのが教会の歴史である。


カトリックのエキュメニズムは、一見すると逆説的なものに見えるかもしれません。第二バチカン公会議が「のうちに存在する(subsistit in)」ということばを用いたのは、二つの教理的言明を調和させようとするためでした。一方で、キリスト者の分裂にもかかわらず、キリストの教会はカトリック教会のうちにのみ完全なしかたで存在し続けます。他方で、カトリック教会の目に見える組織の外にも、すなわち、カトリック教会と完全な交わりをもたない部分教会や、教会共同体の中にも、数多くの成聖と真理の要素が存在します。


実際、理解されねばならないのは、カトリックによる「エキュメニズム」とは、「教会」という概念を弱体化させたり、ましてや廃棄したりすることを意味するのではないということだ。それどころではなく、「エキュメニズム」は徹頭徹尾「教会」論との交わりの中で理解され、展開されねばならない。この意味で、「教会憲章」で採用した「subsistit in」という教会論的表現は、実に含蓄深いものだと思われる。

(文責・金田一輝)

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2007年08月24日

Dave Armstrong "Pansees on Catholic Traditionalism

オンラインで"Biblical Evidence for Catholicism"(現在"Cor ad cor loquitur"へ移行)も運営する、著名なカトリック護教家Dave Armstrongによる、伝統主義についての書。タイトル通り339の断片的考察を集めたものだが、テーマ別に幾つかのユニットに分けられているので、特に散漫というわけではない。
目次より。


T 「伝統主義」の一般的特性
U 信仰と楽観主義 vs 悲観主義
V 教会の完全性
W いわゆる「保守カトリック」 vs 「ネオカトリック」
X 教理の発展 vs 教義の進化
Y 私的判断と「カフェテリアのカトリック」
Z 原理主義者と不完全なカトリック改宗者
[ 「公会議前の」教会の「古き良き日々」
\ エキュメニズムと宗教の自由
] 進化論とカトリック
]T 第二ヴァチカンは「近代主義」の公会議か?
]U 第二ヴァチカン文書は「曖昧」か?
]V ヴァチカン後の「リベラルな」教皇たち
]W ノブス・オルド(新しい)ミサ
]X ヨハネ・パウロU世は「近代主義者」か?
]Y 離教、離教的精神、異端


Daveは教義や教会法の専門家ではないとことわっており、詳細で具体的な論評は避けている。いわゆる「伝統主義者」(通常extreme traditionalism とか integralistと称される立場)の思考の根を撃つという態度だ。従って、時に一般論的な言述ではあるが、核心に迫った洞察が見られる。

「私は常に主張してきた。こんにちよくある類のカトリック伝統主義とは、誤った思考の問題であり、おそらくまた第一には、(カトリック的意味で)超自然的信仰の喪失の問題でもあると」p12

「伝統主義者」は一見信仰深く、時に思考が足りないように思われることがある。Daveによれば逆だ。ごちゃごちゃ考えすぎて、信仰を失ってしまっているのだ。
彼の独創ではないが、伝統主義が、実はその対極にあるとされるプロテスタントと相似であるという指摘も面白い。右翼と左翼の例を考えても分かる通り、両極が一致してしまうのはありがちなことではある。

「『伝統主義者』は、教会の教導権や不可謬の教皇を超える究極の権威を持つのは良心だと主張する。これはプロテスタントよりプロテスタント的だし、初期ルター派より初期ルター派的だ。カトリックの立場(ただしい知識を有した良心というニューマンの見方)では、良心は教会の意向と指導の内で、表明され基礎づけられていなければならない。極端な状況においてのみそれに抗することができる。「伝統主義者」による不同意と不従順はこの正統な理解を踏みにじるものであり、権威に関するプロテスタントの原理(私的判断)や、さらには近代主義者の原理(恣意的選択)を採用しているのだ」p50

第二バチカン公会議の問題についても、新ミサについても、「自分たちこそが正統な解釈者である」と主張してしまう時点で、正統なカトリック的立場ではない。]U章で著者が解説している通り、第二バチカン公会議文書を解釈する権威も、究極的には教会教導権に属する。そうでないならば、聖書すら「曖昧」な、良心によってどうとでも解釈できるテキストに過ぎなくなる。それは信仰の基盤の破壊だ。
この本を読むと、伝統主義者は自らの基礎をこそ壊しつづけているのだということが分かる。Daveは教皇権を擁護したかどで、逆に伝統主義者によって「近代主義者」のレッテルを貼られたと苦笑している。教皇権の護持は狂信なのか? そうかも知れない。しかし、Daveによれば、それは神への楽観的な信頼なのである。なぜなら、カトリックの信仰によれば、教会は主が建てたものであり、世の終わりまで崩れないものだからだ。

(文責:金田一輝)




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