2007年09月27日

Ludwig Ott "Fundamentals of Catholic Dogma"

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』は1952年にドイツ語で出版された神学入門者用の教義解説書である。カトリックの教義について最低限必要な、しかも正確な知識を一冊に圧縮している。
裏表紙より。



「ルードヴィッヒ・オットー博士によるこの本は、全教義神学の概要であり、私が出会ったこの種のものの中では最もすぐれた要約となっている。この本はとくに、教義の各々の箇所について、聖伝や聖書、そして理性的根拠からすばやく再確認しようとやきもきしている、忙しい司祭たちに気に入られることだろう。また、ことのほか学生に役立つだろうし、教養ある平信徒に、カトリックの教えの全領域についての詳細な科学的説明を与えている。最後に言っておくと、オットー博士のこの仕事は、カトリック教会の教えを、体系的なやり方で学生に提示する義務のある司祭たちが、教科書として使用するのにとても貴重なものとなるだろう」

ジェイムズ・カノン・バスティブル神学博士の序文より



カトリックの教えについて知りたい方は、CCC("Catechism of the Catolic Church")以外に、ぜひともこの本を持っておくべきだ。単なるおすすめではなく、必携である
正統教義について、聖書はもちろん、教父らや、公会議と教皇の公文書から豊富に引いて解説しているのが特色である。何が正統教義なのかだけでなく、歴史的・理論的に、なにゆえ正統なのかが分かる。ディンツィンガー資料集をまだ入手していない方は、込み入った教義に関する疑問点を調べるために、かわりにこの本で典拠を確認することができる。
アメリカの著名なカトリック護教家(プロテスタント福音派からの改宗者)であるデーブ・アームストロングの代表作『カトリックの聖書的擁護』("A Biblical Diffence of Catholicism"SOPHIA)をはじめとして、多くの英語カトリック護教書や文献において、さかんに引証されているのもこの本だ。引用回数は、その文献の価値基準の一つであるから、これだけでもこの本の価値がうかがえよう。
CCC同様辞書としても使えるが、通読にも向いている。ただ小さい文字でぎっしり詰まっており、活字欠けもちらほらある(TANにはありがち)のが難点ではある。

(文責・金田一輝)




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2007年09月25日

山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論』

独創的且つ世界的アクィナス研究者山田晶教授による、長崎純心大学三日間の連続講演をおさめたものである。もともとこなれた分かりやすい文章家であるが、話し言葉ゆえさらに近づきやすくなっている。裏表紙より。



イエス・キリストとは何か?「我は誰なりと思うや」とのイエスの問いに、弟子たちは「生ける神の子キリストです」と答えた。「イエス・キリストは真の人間であり神である」という使徒伝承はキリスト論の原点であり、その教義(ドグマ)は4世紀から6世紀にかけて異端論争を通して形成されてきた。トマス・アクィナスは「神学大全」第3部でキリスト論の全貌を語っているが、著者はその註解の仕事を通して、トマスが独自な存在論の観点からイエス・キリストを存在と働きの両面から総合的に捉えていることを解明し、その独創性を高く評価する。近世以降に盛んになった歴史的実証的なイエス伝研究の限界を明らかにして、新たなキリスト論を展望し、さらに信仰と理性のあり方を平易にといた講演。



ここで山田教授がまず念頭においているのは、いわゆる「人間イエス」「歴史的イエス」を強調することで、ドグマ的キリスト像を批判する勢力である。ドグマ的キリスト像とは、「二性一位格」のキリスト、すなわち「まことの神にしてまことの人」なるキリストのことである。歴史的イエスに焦点を当てることで、たしかにキリストの「人性」の側面はより明らかになってくるが、「神性」の側面はだんだん視野の外に放逐されていく。それが独断的な形で出てくると、現代的アリウス主義となって現れるわけである。最終的には、イエスが「神」とされたのは、初期教会が自己正当化のために成した作りごとであり、本当の(!)イエスは、そうした制度的宗教を批判し、民族を超えた愛を説いただけなのである、という話になる。これでは、どれほど多く見積もっても、イエス・キリストは「偉大なる道徳的教師」以上に出ない。
ところで、ドグマについて、巷間何か誤解があるのではないか。ドグマは形式化されたものであり、純粋な信仰とは相容れない、極端にいえば、表現しえざるもの、言語化できないものを信仰は含むが、ドグマはそれを無理やり言語表現化してしまっている。従って、どうしてもドグマは内容の乏しい形骸化に至らざるをえない。こうした誤解である。
しかし、信仰が信仰である以上、そこにはやはり信仰の対象があるはずで、何を信じるかが問題となる。信仰は単なる感情ではなく、認識の一形態であるからだ。さらに、それが個人の内部で自己完結して終わらず、共同的に信仰された場合、「何を」の部分が客観化される必要が生じる。「イエスは神の子である」という事実を信じることがクリスチャンの要件であるが、そこでも、「神の子」とは何であるかについての合意がなければ、それは同一の信仰を持っていることにはならない。信仰が共同的に行われる場合、つまり「教会」の下に行われる限り、信仰のドグマ化は避けられない道だ。

「従来のドグマを否定したルターでも、ドグマなしではありえない。やはりドイツ国教会のドグマができるわけです。それは必然的なんです。アンセルムスはfides quaerens intelectumつまり「理解を求める信仰」と言いましたけど、同じような事がドグマについて言えると思います。fides quaerens dogma(ドグマを求める信仰)。信仰が教会の信仰である限りは、ドグマは存在する。ドグマというのは本質的に「教会のドグマ」ですからね。ですから、このドグマは気にくわぬ、大事なのは信仰だけと言うことは、各人の勝手でありますが、ドグマなしの信仰というのは、教会の信仰であるかぎりはあり得ないのです」p120

それゆえ、山田教授によれば、ドグマが軽視されつつある今こそ、ドグマ的キリスト像に再び目を向け、その意義を探求する時節だということになる。そこで注目されるのは、まさにその「まことの神にしてまことの人」という様相を究明したトマス・アクィナスのキリスト論である。
キリストの二性一位格のドグマはカルケドン公会議で提示され、次の第二コンスタンチノープル公会議で確定したが、この二性の結合の仕方(いわゆるhypostatic union)については、そう述べるだけで、詳細な弁証は欠いていた。もちろん、二つの本性の結合などということは理性を超えた事柄ではあって、本質的に信仰によってのみ受け入れられることは改めて言うまでもない。しかし、信仰の光に照らされた理性は、神秘についてよりよく知ることを欲す。そこには深く豊かな神学的領域が広がっている。
この位格的結合は、肉となった言(ロゴス)の様相である。これは神性が人性を摂取(assumere)したことを意味するが、ともすれば、人性は神性に吸収同化され、一体となったという解釈(単性論誤謬)を生じやすい。山田教授はトマスの論を敷衍して説明している。

「そこでトマスの独自な解釈が現れます。それは、言のペルソナが人間本性をassumereするというのは、言が人間本性を自分のうちに「取り込む」ことではなくて、かえって反対に、言が自分を人間本性に「伝える」communicareことであるというのです。では自分の何を伝えるのかというと、言は自分の有している「ペルソナ的存在」esse personaleを人間本性に伝えるのです。そこでキリストは、「本性」の次元においては神でありかつ人間でありながら、その「存在」esseにおいては一つであることなる。存在において一つとは、ヒポスタシスないしペルソナにおいて一つということです。(・・・)
ですから、トマスにとって、神が人間をassumereするとは、神が人間を自分に「取り入れ」てこれを自分の本性たらしめるという仕方で神化することではなくて、かえって反対に、自分の存在を人間本性に「与える」ことによって、人間本性を少しも変えることなくこれを神化することになります。すなわち神は受肉において、人間から人性をうばい取ることなく、かえって人間に御自分の存在を与えることによって、これを御自分のものとなさるのです。これは、トマスにおいてはじめてなされえた、受肉の存在論的説明であります」pp88-89

これぞまさしく「恩寵は自然を破壊せずかえって完成する」の受肉論版と呼ぶべきか。受肉は贖罪の前提であるから、キリストにおける人間神化という出来事は、決して独立的な、他と関連を持たない周縁的な事柄ではない。むしろ人間性の回復に直接的にかかわりを持つ。ここに神学が人間学へ寄与する一つの契機が見られる。
神とは何か、という問いは、実は、人間とは何か、という問いと不可分である。キリストを「ただの人」の次元に引き下ろすことは、人間への問いを、あらかじめ限られた空間に限定してしまうことになってしまう。ドグマを独断的と決めつけ拒否することが、かえって独断的人間論をまねく。ドグマ的キリスト論は、人間的地平から離れた雲の上の清談のごときものではない。それは人間性のもっとも核心的な部分を貫く鋼の矢のようなものだ。ドロシー・セイヤーズが言うように、「ドグマこそドラマ」なのである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月22日

Patrick Madrid and Pete Vere"More Catholic Than the Pope: An inside Look At Extreme Traditionalism"

(注・この記事は『金田一輝のWaby-Saby』2007年3月22日記事の再掲である。)


『教皇よりもカトリック』とはいかにも皮肉の効いたタイトルである。アメリカで有名な護教家と元SSPXerの教会法学者の共著。三部と余録から成る。
第一部では聖ピオ十世会の歴史を一瞥している。これはVereによるオンライン上のテクストA CANONICAL HISTORY OF THE LEFEBVRITE SCHISMとかぶっている。第二部では第二バチカン公会議という議題について、第三部ではその他の議題について、聖ピオ十世会の誤謬を扱っている。ただ、ひとつひとつが(特に第三部)コンパクトすぎる。伝統原理主義への共感者に対して読んで欲しいというのが著者の意図のようだが、その点ではあまり成功しているようには思えない。ただし、洗脳されきっているのではなく、迷いがあるひとならば有益な情報を得ることが出来よう。
個人的に面白いと思ったのは、第六章の「第二ヴァチカンは「単なる司牧的公会議」だったか?」である。というのも、私自身かようなテーゼを信じ込んでいた時期があるからだ。たまたま、畏敬するDave Armstrongがpastoral(司牧的)公会議/dogmatical(教義的)公会議というのは虚構の区別であると言っていることを知って、考え直しはじめた(例えばDialogue on Vatican II, Conciliar Infallibility, and the SSPX)。
この章を要すれば、pastoralとdogmaticalは相互に排他的なわけではなく、相互に関連している、ということに尽きる。

第二バチカン公会議の純粋に司牧的な教えでさえ、教会の教導権に属す。結局、教会の三つの機能とは、教化すること、統治すること、聖化することである。これらの機能はそれぞれ独自のものであるが、(・・・)それにもかかわらず、それらは相関している。同様に、教会の純粋に教義的教えは、いかにその教えを実施するかということと関係している。言いかえれば、教会の統治の機能は、決して教会の教化の機能と完全に切り離されるというわけではない。そしてそれゆえ、第二バチカン公会議の諸宣言は、同時に教義的でもあり司牧的でもある。


"More Catholic Than the Pope",p86

この第二バチカン=「司牧的」公会議説は、もともとは教皇パウロ6世自身が繰り返し公会議の「司牧」性を唱えたことによる。例えば1966年1月12日のスピーチで、「公会議の司牧的性格から、不可謬性の刻印を付与する特別な仕方で教義を宣言することは避けた」としている。

dato il carattere pastorale del Concilio, esso ha evitato di pronunciare in modo straordinario dogmi dotati della nota di infallibilità; ma esso ha tuttavia munito i suoi insegnamenti dell’autorità del supremo magistero ordinario il quale magistero ordinario e così palesemente autentico deve essere accolto docilmente e sinceramente da tutti i fedeli, secondo la mente del Concilio circa la natura e gli scopi dei singoli documenti.


UDIENZA GENERALE DI PAOLO VI(1966/01/12)

この前半部分を反公会議派は好んで引用しているが、後半も実は重要である。イタリア語については不案内であるが、ma(しかし)以下は、通常教導権の権威による教えなので、個々の文書の性質と視野についての第二バチカン公会議の意向(mente)に沿って、素直な真摯な気持で信者は公会議の決定に従わなければならない、という主旨だろう。当たり前のことながら、第二バチカン公会議が不可謬でないとしても、それらの宣言に対して信者に不同意の権利はない。要するに、この教皇パウロ6世のスピーチは、公会議の個々の文書、あるいは個々の箇所について、これは気に喰わないから採用しない、などと伝統原理主義者のように私的判断によって勝手きままに選別することを正当化していない。

聖ピオ十世会問題において、このような彼らの「第二バチカン公会議」に対する主張について、ことの是非を完全に見極めるのは実際にはそう簡単ではないことは確かである。教義や歴史についての広範で正確な知識を要するからだ。「聖伝ミサ」や「エキュメニズム」についてもそれは言えよう。
しかし、違法の司教聖別をはじめとした、教会法違反については、ごく普通の常識の範囲内でも聖ピオ十世会の行動や主張のおかしさはわかる。私はどちらかというと聖ピオ十世会に対して同情的な方だったと思うが、調べていくうちにスタンスがかなり変った。以前、会の聖職者や彼らのミサに与る信徒について、「離教者」ではないというホヨス枢機卿のインタビューを紹介したが、私は今では、会は(少なくとも質料的に)「離教状態」にあるのではないかと疑っている。たとえば、Is the SSPX in Schism? Four Reasons why the SSPX is in SchismWhat is Jurisdiction?(Does the SSPX have any Jurisdiction?)などの記事を見る限り、聖ピオ十世会による裁治権無視・教会法違反は現在進行形である。しかも、ルフェーブル逝去以後さらにひどくなっている(ちなみに、件の記事の筆者は違法聖別自体は「離教」ではないという説を採用している)。この件については、彼らの言っていること(プロパガンダ)ではなく、彼らの行っていることを見なければならない
そもそも、かりに完全に離教ではなかったとしても、聖ピオ十世会のミサにカトリック信徒は与らないようにということが、前教皇ヨハネ・パウロ2世による使徒書簡「エクレジア・デイ」(1988年)以来の聖座の明示的な意向であることは、はっきりしている(エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1995/9/29)エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1998/10/27)も参照)。

In the present circumstances I wish especially to make an appeal both solemn and heartfelt, paternal and fraternal, to all those who until now have been linked in various ways to the movement of Archbishop Lefebvre, that they may fulfil the grave duty of remaining united to the Vicar of Christ in the unity of the Catholic Church, and of ceasing their support in any way for that movement. Everyone should be aware that formal adherence to the schism is a grave offence against God and carries the penalty of excommunication decreed by the Church's law.(8)
(現今の状況において、今までルフェーブル大司教の運動にいろいろな仕方で結びついていたすべての人々に対して、厳かに心から、父として兄弟として私が特に訴えたいことがあります。カトリック教会と一体であるキリストの代理者との一致に留まるという重大な義務を果たし、どんな形でもこの運動への支持を止めるように。みな知っておくべきです。離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法(1382条)によって規定された破門という罰を生じさせるということを)


Ecclesia Dei 5c

聖ピオ十世会に対して心情的に共感するだけならまだしも、ネット上であれ実生活上であれ、はっきり会への支持を表明し、会のミサに与るならば、もはやカトリックではなくなる危険性がある。もちろん、そういう覚悟があってそうすることを止めるのは無駄であろう。しかし、カトリックの信者でありたいと願っている一方でそうしようと思うのならば、やめた方がよい。聖伝ミサに与りたいだけならば、聖座に認可された離教的でない団体のミサに行くことができる。「第二バチカン公会議」などの教義的問題は、とりえあえず括弧に入れておくことをお勧めする。素人が手を出す領域ではないからだ。
さて、1988年6月30日の「司教の違法聖別」について、「緊急状態」にあったから違法性は阻却されるという聖ピオ十世会の主張は、聖座自身がそのような解釈を認めなかったという事実からして無効であり無意味である(Archbishop Lefebvre and Canons 1323: 4and 1324 1:5(Pete Vere)参照)。しかし、いったん教会法を離れたうえで、なお「緊急状態」にあったのかどうかを問うことは可能である。少なくとも、聖座も含めて現在の教会に由々しき問題がぜんぜんないと考えるカトリック信徒はいない。聖ピオ十世会はこれを、聖伝、特に典礼の維持の危機と見る。彼らの申し立てによれば、いまや聖伝を保持することができるのは、聖ピオ十世会のルフェーブルとマイヤーくらいである(!!)。

Who are the bishops who have truly kept Tradition and the Sacraments such as the Church has conferred them for twenty centuries until Vatican II? They are Bishop de Castro Mayer and myself. I cannot change that.
(第二バチカン公会議まで20世紀間教会が伝えてきた聖伝と秘跡を真に守ってきた司教は誰でしょうか? それはカストロ・マイヤーと私です。これを変えることはできません。)


On the Occation of the Episcopal Consecrations(1988/6/30)

それゆえ、ルフェーブル大司教の老齢を鑑み、教皇の許可があってもなくても、司教聖別しなければならない「緊急性」があったということになる(!?)。
冷静にみて、かような主張は本人の思い込みとしかいえないが、無理に事実認定を争おうと思えば争えはしよう。ただ、聖座と和解するべく、ラッチンガー枢機卿とのプロトコルに署名したことからだけでも、彼の(悲壮な?)「覚悟」なるものは非常に疑わしいものだと思える。実際、「司教聖別」についてルフェーブルは一貫した考えを持っていなかったようである。

Michael Davies: It is alleged that you intend to consecrate one or more bishops to continue your work. Is this true?
Mgr. Lefebvre: It is totally untrue.
(マイケル・デイヴィス あなたの活動を続けるべく、ひとりかそれ以上の司教を聖別するつもりだといわれてますが、それは本当ですか?
ルフェーブル まったく間違いです。)


Apologia pro Marcel Lefebvre Vol.T Chap.16

これは1976年11月16日のインタビューから。また、本人の著作にも次のようにある。

It has also been said that after me, my work will disappear because there will be no bishop to replace me. I am certain of the contrary; I have no worries on that account. I may die tomorrow, but the good Lord answers all problems. Enough bishops will be found in the world to ordain our seminarians: this I know.
(私がいなくなった後、私の活動は消えてしまう、なぜなら私に代わる司教がいなくなるだろうから。こんな風に言う人もいます。私は反対のことを確信しています。ぜんぜん心配していません。私は明日にも死ぬかも知れませんが、善なる主はすべての問題に答えます。私の神学生たちを叙階する司教は世界中に見つかるでしょう。私にはわかってますよ。)

Open Letter to Confused Catholics Chap.23


序文によれば1986年出版である。つまり、ルフェーブル自身、1986年くらいまでは、教皇に逆らってまで違法に「司教聖別」せねばならない「緊急状態」にあったとは思っていなかったようなのである。それなのに、たった数年で、状況判断が大きく変わったらしい(!)。不可謬的でないルフェーブルの不可謬的でない言動に振り回されている方は、いまいちど自らの頭の中身を検討し直してみてはいかがであろうか。


(文責・金田一輝)




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2007年09月18日

沢田和夫『「神学大全」入門』

私のような凡人にはとうていあの難解で膨大な『神学大全』をきちんと読み通すことなどできない。ほんの少しの尻尾をつかむことさえ危ぶまれる。しかし、わずかなりともあのアッキーナの本心に近づきたいと願う人は少なくないはずだ。
あまたある入門書中、これほどそうした読者に寄り添い親身になって『神学大全』を解説してくれる本はない。果たしてアッキーナもこんなやさしいおじさんだったのではないかと錯覚させられかねない。まえがき冒頭から引こう。



最近、学生といっしょに読みながら、皆で「案外」におもしろい本だといっているのは、トマス・アクィナス『神学大全』(高田三郎訳、創文社刊)です。真理とは? 事実とどう違うのか、一貫性とか、全体があってはじめて真理というのではないか、というようなことを第一行から考えて行くような本です。カトリック的とは何か。一面的でないこと、全面的にキリストの救いの現実を伝えているのがカトリックということ、それではカトリック的真理とはどういうことかな。



以下、『神学大全』の勘所を、順序にそってわかりやすく教えてくれる。もちろん、それぞれが簡潔なものなので、ただしく「摘要」と呼ぶべきであろう。しかし、だからこそ、『神学大全』から長たらしく引用して、あれこれ論じてかえって要点が分からなくなるということがない。もちろん、『神学大全』以外の諸著作にも目配りして、じゅうぶん噛み砕いておられるので、上っ面の理解で終わっていない。
これで安心して『神学大全』を斜め読みできる、そんな希望を抱かしてくれる元気の出る一冊である。

(文責・金田一輝)




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2007年09月17日

ルフェーブルによる違法聖別と破門

もともとを言えば、はじめはどちらかというと弁護するつもりで、聖ピオ十世会について調査しはじめたのである。しかし、調べていくうちに、1988年6月30日のルフェーブルとマイヤーによるエコンでの司教の違法聖別についての聖ピオ十世会による正当化は、まったく説得力がないということに気づくようになった。
周知の通り、度重なる警告(教皇のものも含む)を無視して挙行された、この教皇許可なしの司教聖別により、ルフェーブルとマイヤー(共同司式者)及び、その時聖別された司教たちは、破門されている。破門の事実については、司教省長官による破門宣告("Decree of Excomunication")と当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令("Ecclesia Dei")により確定している。いわば判決が下ったのだからこれで話は終わりそうなものなのだが(実際、ごく普通のカトリックなら疑問は生じまい)、この事実を否定してはばからない人々がいる。それが聖ピオ十世会とその支持者である(この離教グループの支持者である『護教の盾』のヨゼフ・ジェンマ氏のように、会は破門の事実は認めていると言ってはばからないひともいるが)。彼らは異義申し立てをするというよりも、破門という事実そのものを認めていないのである。
聖ピオ十世会が違法聖別などの正当化の際に使用する説のうちで、主要なものが二つある。一つは、新教会法1323条1324条に基づく必要性(緊急状態)による違法性阻却説である。これを便宜上、マレー・テーゼ(Murray's thesis)と呼ぶ。このテーゼを唱える教会法学者の一人がジェラルド・マレー(Gerald Murray)であり、実際聖ピオ十世会が利用しているからである。ただし、マレー本人はのちに、もともとの主張から立場を変えたことを明言しており、また、聖ピオ十世会に対して、会の立場の正当化のための誤用を撤回するよう求めている("Caught in The Lie")。もう一つは、違法聖別はそれ自体離教ではない(それゆえ違法聖別を離教行為としている『エクレジア・デイ』の論理は破綻している)という説である。これを便宜上、ララ・テーゼ(Lala's thesis)と呼ぶ。教会法テキストの解釈委員長であったララ枢機卿が言ったとされる説だからである。実際には、聖ピオ十世会はララ枢機卿が言ったことの一部分を文脈から切り離して、ララの意向とはまったく逆の解釈のために利用している("The Story of the Vanishing Schism: The Strange Case of Cardinal Lara","THE VANISHING SCHISM REVISITED: WILL THE REAL CARDINAL LARA PLEASE STAND UP (AGAIN)?" )。
さて、かように教会法学者や教会法の専門家の中にも異論があるのであれば、破門判決を評価する際、教会法を(例えば1323条1324条について)実際に詳しく調べてみる必要があると、あるいは思うひとがいるかも知れない。しかし心配はご無用である。そんな七面倒くさい手続きはぜんぜん必要ない。なぜならば、法学者個人個人の法に対する意見は様々でありえるが、それらはあくまで解釈でしかないからである。個人的な解釈をいくら積み上げたとしても、それは法そのものではなく、判決そのものでもなく、法的効果が生じるわけではない。
このあたりの機微を、Dave Armstrongは、「伝統主義者のシラバス(誤謬表)」で、以下のように述べている。


誤謬48 ルフェーブル大司教の行為の妥当性は教会法学者たちによって弁護された。

教会法学者への訴えはいつだってあるのではないか? しかし、それがすべて。それらは決まって互いに矛盾する。教会の権威は、教皇、公会議、司教たちの教導権にある。「伝統主義者たち」はこの点に同意しない。イエスに対する誤った証言(マルコ14:55-59)のように、それらはそれら自身で分裂し、互いに矛盾する―誤りであることの確かな印(そして分派と離教の印)。しかし、別の意味で、同様の離教精神が、すべての種類の「伝統主義」を支配し、多くの類似物を創りだしている。それらは、結局のところ、現実の教会(the actual Church)への軽蔑によって連合している。

Dave Armstrong"Syllabus of 60 "Traditionalist" Errors, Fallacies, and False Principles"




たとえば、首相の靖国神社参拝について、法学者の間には意見の相違がある。憲法違反と言う本もあれば、合憲だと言う本もある。しかし、現在までのところ、最高裁レベルで「違憲」という判決は下されていない。これに対して、ある法解釈上の立場から、「その判決は正しくない」と言うことは可能であろう。しかし、違憲であるという解釈をしている本や論文をいくら積み重ねたところで、「その判決は無効である」、あるいはすすんで「そんな判決はそもそも下らなかった」と言うことはできない(もちろん、純粋物理的には可能だが、法的には効力がなく無意味である)。そのできないことをしているのが、聖ピオ十世会とその支持者たちなのである。
では、判決に対して法的な(再審請求のような)異義申し立ては可能であろうかというと、どうも可能ではない。教会法学者ピート・ベーレ(Pete Vere)が次のように説明している通りである。


聖座の決定に対しては、教会法上の絶対性を心にとめておかなければならない。新教会法1629条は言う、「教皇自身の裁決、あるいは聖座の名による裁決に対しては、上訴できない」。同様に新教会法1404条は言う、「第一の座は誰によっても裁かれない」。手短に言えば、教会の中で教皇を超える可視的な権威は存在しない。教会での彼の裁決は最終的なものである。教皇は教会内の他の権威によって裁かれえないし、彼の裁決に対してより高位の権威に上訴することもできない。そのような権威は存在しないからである。

Peter John Vere"Archbishop Lefebvre and Canons 1323:4° and 1324 §1:5° A Canonical Study - Second Draft Edition"




ルフェーブルらへの破門判決は教皇による裁決であり、最終的なものである。また、教皇は教会法の制定者であり、究極的な解釈者である。かりに、ヨハネ・パウロ2世が個人的に傲慢な人間であり、ルフェーブルの破門について判断を誤ってしまったのだと仮定したとしても(もちろん私はそのような仮定は真実ではない、と思っているが)、彼が教皇という職分によって下した破門判決が法的に無効になるわけではない。人格的に問題のある裁判官が下した判決でも、法的には有効であるのと同様である。一端下りた教皇の名による有効な判決を認めず、その決定に従わないならば、それは教皇の教会法上の権威を認めないことであり、破門を認めないというその行為自体が離教を構成する。
聖ピオ十世会がするべきことは、教会法解釈上のアクロバットを繰り広げてルフェーブルの破門という事実を覆い隠すことではなく、破門という事実そのものを認めて、破門の撤回を嘆願し、聖座の惻隠の情に訴える以外にはないと思う。もちろん、そのためには、少なくとも1988年5月5日にルフェーブルが教皇の名代としてのラッチンガー枢機卿と交わした協定("PROTOCOL OF AGREEMENT BETWEEN THE HOLY SEE AND THE PRIESTLY SOCIETY OF SAINT PIUS X")に戻り、ここに書かれた内容に同意することが前提となる。とはいえ、現在の聖ピオ十世会が、この協定の求める第二バチカン公会議と新ミサの全面受け入れを認める可能性は99パーセントないであろう。それは会のアイデンティティにかかわるからだ。この点で私は、「ノムさんの時事短評」2006/10/17で紹介された手紙中の「SSPXがVCIIを認めたらSSPXの存在意義が無くなります」という意見に賛成である。

(文責・金田一輝)





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2007年09月15日

目録作成

今後のためと思って目録を作っておいた。

カトリックの擁護・記事目録

HP化する予定がないので、現在休業中の他のHPの空きスペースを使用。記事が増えたらもう少し分割するつもりである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月13日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」・補足

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性について、教会文書以外の記事について幾つか見てみよう。教会文書ではないので、教義の典拠にはならないが。

まず、現在最もポピュラーと思われる総合辞典『岩波 キリスト教辞典』。


【望みの洗礼】 実際に洗礼を受けることがなかった人も、キリストや洗礼について聞く事ことがあれば洗礼を望んだに違いないと思われる人々の場合、その状態は、神の救いの意志とキリストの救いの業を考えて、実質的に洗礼を受けたに等しいものとみなされる。これを「望みの洗礼」(baptism of desire)と呼ぶ。洗礼を準備している者が迫害や他の原因で受洗前に死亡した場合、その状態をどうみなすかという問いから成立した概念である。しかし、より根本的には、神がすべての人を救いへと招いている〔Tテモテ2:4、「現代世界憲章」22参照〕とするなら、キリストも教会も知らずに神を求めている人々はどのように位置づけられるのか、そのような人々にとって、洗礼の秘跡や教会への加入、また入信式そのものがどのような意味をもつのかを問いかけている。
〔石井祥裕〕


『岩波 キリスト教辞典』「洗礼」の項、岩波書店、2002年




神の普遍救済意志から見た場合の教理教育中の未受洗者の救いの問題という教義史的前提を踏まえた上で、さらに進んで新たな神学的地平を展望している。
つづいてアメリカの著名なカテキスト、ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』(Jhon.A.Hardon "Pocket Catholic Catechism"(doubleday))から。


洗礼は救いにとって必要であるという教会の教えは、その義務は例外なく全人類に適用されるということを意味する。洗礼の恵みを通して再生するのでなければ、至福直観に達することはできない。
この洗礼の普遍的な必要性についてのキリストの教えは、緊急の場合には、望みの洗礼ないし血の洗礼が水の洗礼の代用となりうると、教会によって解釈されている。望みの洗礼とは、明示的もしくは、少なくとも暗黙的な(implicit)洗礼の秘跡への望みのことであり、自らの罪に対する完全な悲嘆、すなわち、愛徳つまり神の愛に基づく悔恨に結びついている。

ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』、ダブルデイ、1989年、p130




「緊急の場合」という限定条件、「完全なる悔恨」という必要条件がついている。望みには「暗黙的な」ものも含めるというのもポイント。
同著者の『カトリックの教理』("Catholic Catechism"(doubleday))ではさらに詳細に解説してある。


「使徒行伝」のコルネリウスについての聖書の記述によれば、彼は洗礼していなかったが「正しく立ち、神を恐れる者」であった。それゆえ、キリスト教の囲いの外部に「神を恐れる者」がおり、なかには
自らの落度でなしにカトリックの遺産に欠く人たちがいるということが徐々に明らかになってきた。そこで、そのような人たちは、カトリックの告白をしていない、あるいは必要とされる洗礼を受けてさえいなかったとしても、救いに対して開かれていると考えるという伝統が生じた。
アンブロシウスやアウグスティヌスはそうした区別のための道をつけた。12世紀までには、洗礼や教会への参入に立ちふさがる「克服できない障害」(invincible obstacle)がある場合は、そのような人は救われる可能性があるという考えが、広く受け入れられるようになっていた。
トマス・アクィナスは、教会の一般的必要性について繰り返し教えている。しかし、彼は、特別の秘跡として望みの洗礼によって救われうるということも認めていた。つまり、教会に属したいという、少なくとも暗黙の望み(implicit desire)によって、実際上の成員であることなしに、ひとは救われうると。
しかしながら、これら二つの伝統(引用者註・教会の必要性と教会外での救いの可能性)を対立的にとらえるのは適切ではないだろう。これらは、救いの普遍的秘跡としての教会という単独の神秘を表現している。教会教導権は、一見矛盾に見えることが、実は両立する論理(paradox)であるという形で、それを表現してきた。
「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」と1215年の第四ラテラン公会議で教義決定されて以来、1302年教皇ボニファティウスによるものと、1442年のフロレンス公会議での二つの荘厳決定がある。カトリックの妥協の無さの象徴と一般に見なされているトリエント公会議で、こんにち慣れ親しんだ形での望みの洗礼の教義が荘厳に決定された。教会の実際的成員(actual membership)であることは永遠の運命に達するために必要ではない。その後のすべてのこうした認識は、このトリエントの教えによって支持されている。

ジョン・A・ハードン『カトリックの教理』、ダブルデイ、1981年、pp234-235




救いのためには必ずしも実際に教会に属する必要はない、と言い切っているところに目を引かれるが、これは「教会の普遍的必要性」と矛盾しない範囲で、慎重に理解されねばならないところでもあろう。
しかし、それにしても踏み込み過ぎではあり、これもまた第二バチカン公会議の悪影響であると勘ぐる向きもあるかと思うので、より古いルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』(Ludwig Ott "Fundamentals of the Catholic Dogma"(TAN))も見ておこう


カプ・フィルミエにおいて、第四ラテラン公会議(1215)は宣言している。「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」D430。この教えと同様のものは次の通り。フローレンス合同会議(D714)、教皇イノセント3世(D423)、ボニファティウス8世「ウナム・サンクトゥム」(D468)、クレメント6世(D570b)、ベネディクト14世(D1473)、ピウス9世(D1647,1677)、レオ13世(D1955)、ピウス12世「ミスティチ・コルポリス」(D2286,2288)。近代の宗教無差別主義に対するものとして、教皇ピオ九世は次のように宣している。「使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは洪水により滅びる。にもかかわらず、等しく確かに信じられねばならないことがある。真の宗教に対する不可抗的無知(invincible ignorance)に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない、ということである。」(D1647)。後半の命題は事実として(in point of fact)教会に属していない者の救いの可能性を述べている(D1677;796参照)。
教会への所属の必要性は、単に教えの必要性であるだけでなく、手段の必要性でもある。聖書の洪水からの救いの手段である箱舟との比較で明らかなように。しかしながら、手段の必要性は絶対的な必要性ではなく、仮定的な(hypothetical)必要性である。特定の状況、すなわち、不可抗的無知や不能性の場合、実際上の教会の成員であることは、望みのそれに代えられうる。この必要性が明示的に現れておらず、神の意志を実現しようという忠実な道徳的意向の中に含まれていることもありうる。このような仕方で、事実上教会の外側にいる人々も救いに達しうる

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、p312




ここでもまた、救いにとって実質的な教会の所属は絶対的に必要なことではないことがはっきり述べられている(もちろん、ハードンがこの書を参照しているのだ)。
同著の「望みの洗礼」も念の為に見ておく。


緊急の場合、望みの洗礼、あるいは血の洗礼は、水の洗礼に代わりうる

a) 望みの洗礼
望みの洗礼とは、(愛徳に基づく)完全なる悔恨をともなった、明示的ないし暗黙的な洗礼の秘跡への望みである
トリエント公会議は、原罪からの義化が「再生の洗礼、もしくはその望みなしには」可能ではないということを教えている(D769、D847,388,413参照)。
聖書の教えによれば、完全な愛は義化の力を持つ。ルカ7:47「彼女の多くの罪は許された。彼女が多く愛したからである」。ヨハネ14:21「私を愛する者は、私の父に愛される。私も彼を愛し、彼に私を示すだろう」。ルカ23:43「今日、あなたは私とともに天国にいるだろう」。
伝統における主要な証人は、聖アンブロシウスと聖アウグスティヌスである。洗礼なしに亡くなったヴァレンチヌス2世の葬儀の式辞で、
聖アンブロシウスは述べている。「彼は待ち望んだ恵みを得なかったのだろうか? 望んだのだから、確かに彼はそれを得たのだ。彼の敬虔な望みは彼を赦した」(De obitu Valent.51,53)。聖アウグスティヌスは言う。「もし時間的な不足により洗礼の秘儀の儀式が許されなかったとしても、キリストの功徳によって、殉難死だけでなく、心からの信仰と回心もまた、洗礼の欠如を補いうる」(De bapt.W 22,29)。初期スコラ学の時代には、クレルヴォーの聖ベルナール(Ep.77 c.2 n 6-9)、聖ヴィクトルのフーゴー(De sacr.U 6,7)、そして命題論集(V5)が、ピーター・アベラールに反対して望みの洗礼の可能性を擁護している(神学大全V68,2参照)。

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、pp356-357




さらにさかのぼって、ドナルド・アットウォーター編『カトリック辞典』(Donald Attwater ed."A Catholic Dictionary"(TAN))でも、「望みの洗礼」(Baptism of desire)の項に次のように書いてある。


望みの洗礼

水の洗礼に代わりうるもののうちの一つ。洗礼が不可能である場合、完全な悔悛と純粋な神への愛によって洗礼の省略が認められるだろう。そのような行為は、聖化する恵みの注入を求める完全で究極的な意向であり、もしその機会が提供されたなら水の洗礼を受けたいという望みと意図を、少なくとも暗黙的に(implicitly)含む。幼児には望みの洗礼はありえない。異教徒については、混乱した仕方であったとしても、何であれ神の意志はなされるべきであり、なそうと望んでいるという仕方で、神を信じているならば、おそらく望みの洗礼を受けている。そのような仕方で、水の洗礼を受けていない多くの人々が至福直観を得ることができるようになったと想定するのは理にかなったことだろう

ドナルド・アットウォーター『カトリック辞典』、タン、1931年(オリジナル版)




最後に、ハードンとオットーがともに挙げている、真打トマス・アクィナスの『神学大全』も確認しておこう。


洗礼なしに救われることはありうるか?

(・・・)

答えて言う。洗礼の秘跡が誰かに欠けている場合には、二通りある。一つ目は、事実上も望みの上でも欠けている場合である。洗礼を受けておらず、その望みも無い人物の場合。これは自由意志を使用しうる人間とすれば、この秘跡に対する侮蔑を明らかに示している。従って、救いを得ることはできない。なぜなら彼らは、救いに至る唯一の道であるキリストに、秘跡的にも霊的にも組み込まれていないからだ。
二つ目は、実際上には欠けているが望みにおいては欠けていない場合である。例えば、洗礼を受けたいと望んでいたのに、機会なく洗礼以前に死んでしまった人の場合。そのような人物は、洗礼への望みのゆえに、実際の洗礼なしに救いを得ることができる。そのような望みは、愛の力によって動かされた信仰の果実である。神の力は可視的な秘跡に拘束されない。この場合、神は人を内的に聖化している。それゆえに、アンブロシウスは、教理教育中の未洗礼者のまま亡くなったヴァレンチヌスについてこう言っている。「再生すべき人を私は失った。しかし、彼が祈り求めた恵みを彼が失うことはなかった」と。

(・・・)

洗礼の秘跡が必要であると言われているのは、少なくとも望みの洗礼なしには人は救われえないという限りでのことである

『神学大全』第三部第68問第2項




こうして「望みの洗礼」という教義についてさぐっていくと、たしかに疑問はわく。事実上の教会の成員と望みのそれが区別されているとしても、では、厳密に言って「教会」とは何か。目に見える教会の外にも、何かしら教会があるということなのか。しかし、それは「教会の可視性」という教義と矛盾しないか。
こうした疑問を解く鍵は、おそらくハードンが述べている「救いの普遍的秘跡としての教会という神秘」という表現にかかっている。これこそまさに第二バチカン公会議が改めて明示した教会の姿だ。そのほんとうの理解はまだ端緒についたばかりである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月12日

Richard Peddicord "The Sacred Monster of Thomism"

フランスのドミニコ会士にして神学者であるレジナルド・ガリグ=ラグランジュの生涯と思想についての本である。
裏表紙より。



『トミズムの聖なる怪物』(フランソワ・モーリヤックによるあだ名からとられた)は、二十世紀前半で最も影響力のあったドミニコ会の神学者であり、自由神学者にとってはどこにおいても災いの種であった人物の、生涯と思想についての初めての本格的な研究である。
レジナルド・ガリグ=ラグランジュは50年間アンゲリクム(教皇立聖トマス大学)で教え、教会の歴史において最初の霊性哲学の教授職をもち、二十八の著作と六百以上の記事を書いた。彼は教皇ヨハネ・パウロ2世の博士論文の指導教授でもあった。
『トミズムの聖なる怪物』は 彼の生涯とその一般的な背景を素描し、彼の生涯における最も重要な要素―説教修道会(ドミニコ会)への入会―を詳細に論じ、アンリ・ベルグソンとモーリス・ブロンデルとの哲学的議論や、ジャック・マリタンやM・ドミニク・シェヌとの神学的(かつ政治的)議論を検討し、ガリグのトミズムと彼の神学と霊性へのアプローチを吟味して章を終える。

リチャード・ペッディコードは聖ルイ大学のアクィナス神学研究所の組織神学準教授である。



ドミニコ会の学風さながら、真理の探究を通して信仰を深めたラグランジュは無類の論争好きでもあった。その最大の敵の一つがベルグソニズムだ。
二十世紀初頭のフランスで隆盛を極めたベルグソンの哲学は、いわば当時最も流行した「現代思想」であったといえる。実際、今日からは想像することも難しいが、実証主義が席巻する中で新たな思想潮流を渇望していた青年哲学徒らは、そこにながらく待ち望んでいた精神性の回復を見たのだった。ベルグソンは、ひからびた存在概念を打破し、固定的な思考法ではとらえられない生き生きとした精神の流れ(純粋持続)こそが真実在であると主張した。簡単にまとめれば「存在に対する生成の優位」を唱えた。
厳格なトミストであったラグランジュは、神学者間にも浸透しはじめたベルグソニズムを、信仰の基礎を破壊するものとして攻撃した。こうした動きは、単なる護教的な、それゆえまさしく反動的な態度にも見えよう。実際、今に至るもトミズムは、そういう中世の遺物として見られがちである。しかし、ラグランジュからすれば、カトリック信仰の基礎の破壊は、人間の真理への意志を弱めるもの、したがって人間性を破壊するものだった。ラグランジュは勇気をもって、ベルグソニズムに対して、「生成に対する存在の優位」を対置する。

「この(実念論と名目論の)ジレンマを説く鍵は、人間の能力としての知性は感覚や意識よりも優位にあるのか劣位にあるのか、という問いにあるとガリグは論じた。つまり「哲学とは感覚的の下にある知性的なものの探求なのか、それを覆い隠す誤った知性的なものの下にある感覚的なものの探求なのか」という問いだ。
単純に言えば、後者、したがってベルグソンの側を選ぶということは、人間に固有なものを否定することになる。知性の働きの理解なしには、人間と他の動物の世界を区別するものは何もなくなる。ガリグは問いかける。「人間と動物を分けるものは何だろうか? 判断力、判断する精神、「ある」という語について、いかにひとは説明するのだろうか?」」 p59

さらに、モダニズムの危機に呼応して、カトリック神学の形而上学的基礎を保守するものとして、アリストテレス哲学によって信仰と理性を総合したトミズムの姿が浮かびあがる。モダニズムの立場では、教義は時と場合に応じて人間の宗教的欲求に合わせた象徴・記号に過ぎなくなる(例えばシュライエルマッハー)。しかし、厳格トミズムすなわちラグランジュによれば、「キリスト教信仰の真理は人間の宗教的渇望を超越した現実の表現である」 p121
こうした真理の客観性の主張はもの笑いの種にされて久しいが(例えば小田垣雅也『キリスト教の歴史』はトミズムを「客観主義」と要約している!)、そもそも真理への到達の可能性を一切否定するならば、信仰と迷信の区別はもはやつかなくなってしまうし、真理の相対主義(もし、そんなものが本当にありうるとしての話)は、容易にニヒリズムにいきつく。
実際、モダニズム、それに続くポストモダニズムに、ゆり戻しが生じ初めているのではないか。ヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、そうした相対主義的現状をふまえて、なお「哲学」への誘いを呼びかけている点で、一種の皮肉になりえている。というのは、通常「哲学は神学の碑女」と哲学を賤下しているとのしられ、哲学の抑圧者と世間的に見なされているキリスト教、しかも伝統保守的と思われているカトリックが率先して、哲学の価値を再認し、その再興をうながしているのだから。
「ファシズム」とすら罵倒された(事実ヴィシー政権やフランコを支持したのだが)、ラグランジュのトミズムは、実際、その特殊性を超えて、カトリシズムにおける哲学的思考の擁護を象徴してもいるのだ。

「ガリグ・ラグランジュの厳格トミズムの核心は、教皇(ヨハネ・パウロ2世)によって「人間の精神的遺産の一つ」―「正しき理性」それ自体と同一視された。このことが彼をして、教会はそれ固有の哲学を持たないし、特に決まった哲学を主張しているのでもないと言わしめた。しかし、「正しき理性」を拒否する哲学は、その場合はもちろん、ひどく不完全なおのれの姿をさらすことになるだろう」 p220

それにしても、真理への意志とは、ある特定の宗教への信仰ではあるまい、という疑問は起こる。しかし、岩下壮一が『カトリックの信仰』冒頭で述べたように、もし、カトリックの信仰こそが真理の実現そのものだとしたら? 

(文責・金田一輝)






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2007年09月10日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性についてまとめてみる。
問題となるのは、教会の必要性という救済の特殊性と、万人に対する神の救済意志の普遍性とのバランスであろう。この点で、2005年に教皇ベネディクト16世によって認可され公布された『カトリック教会の教理:大要』("Compendium:Catechism of the Catholic Church")は簡潔な要約をしている。

171 「教会の外に救いなし」の意味は?

これは、すべての救いは、頭であるキリストから、その体である教会を通して来るということを意味する。したがって、教会はキリストによって建てられ、救いのために必要であると知りながら、そこに入ることを拒んだり、そこにとどまることを拒むひとは救われえない。同時に、キリストと彼の教会のおかげで、自らの落ち度によらずキリストの福音や教会について無知であるが、真摯に神を求め、恵みに動かされ、良心の命令を通して知られる神の意志を行おうとする者は、永遠の救いに達することができる

『カトリック教会の教理:大要』




262 洗礼なしに救われることは可能か?

キリストはすべてのひとの救いのために死んだのだから、信仰のために死んだ者は洗礼なしにも救われうる(血の洗礼)。教理教育中の未洗礼者や、キリストと教会を知ってさえいないが、なお(恵みにうながされて)神を真摯に求め、神の意志を行おうと奮闘する者も、洗礼なしで救われうる望みの洗礼)。教会は典礼において、洗礼なしに死んだ子供たちを神の憐れみに託している。

『カトリック教会の教理:大要』




つづいて1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可され公布された『カトリック教会の教理』("Catechism of the Catholic Church")を見てみる(文中「教会憲章」は『第二バチカン公会議公文書全集』(中央出版社)の訳文を使用している。以下第二バチカン公会議公文書関係は同様)。


「教会の外に救いなし」
846 教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう」(「教会憲章」14節("Lumen Gentium"14))

847 この言葉は自らの落度でなくキリストや彼の教会を知らない人々には向けられていない。

本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(「教会憲章」16節("Lumen Gentium"16)

『カトリック教会の教理』




1260 「キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(「現代世界憲章」22節("Gaudium et spes"22)。キリストの福音および教会を知らないが、その理解に応じて真理を探究し神の意志を行っているすべての人は、救われうる。そのような人はその必要性を知っていたならば明示的に洗礼を望んでいたであろうと想定されよう。

『カトリック教会の教理』




1281 信仰のために死んだ者、教理教育中の未洗礼者、ならびに、教会を知らないが、恩恵の息吹のもとで、神を真摯に探し求め、神の意志を実行しようと努める者は、たとえ洗礼されていないとしても、救われうる(教会憲章16節参照)。

『カトリック教会の教理』



すでに部分的には引用されているので繰り返しになるが、1964年教皇パウロ6世によって認可され公布された「教会憲章」から引く。第二バチカン公会議に基づく教義宣言であり、数々の論争や誤解・曲解を引き起こした文書でもある。


16 なお、神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え(使徒行録17・25〜28参照)、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから(1テモテ2・4参照)、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認めれられる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また本人のがわに落ち度がないままに、まだ神をはっきりと認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。事実、教会は、かれらのもとに見いだされるよいもの、真実なものはすべて福音の準備であって、ついには生命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。

「教会憲章」




非常に簡単に言ってしまえば、カトリック教会は、カトリック教徒でなくても「良心に従って生きる人は救われうる」と説いている。すなわち、教会の外にも救いがありうる、と言っている。
こういう考えは、あるいは第二バチカン公会議によって初めて発せられた、従って、カトリック教会は第二バチカン公会議を境に教義を変更したのだと思われる方もおられるかも知れない。しかし、そうではない。この教えは既に公会議前からあるのだ。
カトリックの信仰と道徳に関する重要な定義、教令、書簡などをまとめた『デンツィンガー・シェーンメッツァー カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)で、公会議前の教えを確認してみよう。


3866 ・・・教会が常に教え続けてきたことの中に、「教会の外に救いは絶対にない」という不可謬の格言が含まれている。しかし、この教義は、教会自身が解釈している意味に解釈されるべきである。なぜなら、われわれの救い主は、信仰の遺産に含まれていることを、個人の判断によってではなく、教会の教導職によって説明するように定めたからである。

3869 神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。トレント公会議は、再生の秘跡と告解の秘跡に関連して、この点を明らかに決議している。

3870 同じことが教会についても言われなければならない。教会は救いのための一般的な助けである。永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者の場合のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

「ボストンの大司教にあてた検邪聖省の書簡」(1949年8月8日)『デンツィンガー資料集』



これは「教会の外には救いは絶対にない」を厳格に解して、非カトリック者を永遠の救いから除外した、フィーニー派(厳格主義者)に反対して出された書簡である。


2866 私も、あなたたちも次のことを良く知っている。すなわち、やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者が、神がすべての人の心に刻みつけた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵との働きによって、永遠の生命に達することができる。すべての人の心と魂、考えと習性を知っている神は、その大きな好意と憐みによって、意識して罪を犯さない人を永遠の苦しみによって罰することはない。

「イタリアの司教にあてた回勅」(1863年8月10日)『デンツィンガー資料集』




使徒伝来のローマ教会の外においては、誰も救われないということは信仰箇条であるが、・・・やむを得ない事情によって、真の宗教を知らないでいる者は、神の前に罪を犯していないことも、同じように確かなことである

「シングラーリ・クワダム」(1854年12月9日)『デンツィンガー資料集』 p437



上掲二編は教皇ピウス9世によるもので、「不可抗的無知」(やむをえない事情による無知)という考えを導入し、教会外の救いの可能性について明確な表現を初めて成し、以後の教会文書に大きな影響を与えた。
3869で言及されたトリエント公会議の決議文も参照しておこう。


1524(796) 以上の言葉によって罪人の義化の概略が述べられている。すなわち、義化とは、人間が第2のアダムの子として生まれた状態から、第2のアダムであるわれわれの救い主イエズス・キリストによる恩恵の状態、「神の養子」(ローマ8・15)としての状態への移行である。しかし、この移行は福音がのべ伝えられた後は「再生の水洗い」なしに、あるいはそれについての望みなしにはありえないのである(第5条、洗礼について)。聖書にも、「水と聖霊とによって新しく生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3・5)と書いてある。

「トリエント公会議 第6総会:義化についての教令(1547年1月13日)『デンツィンガー資料集』



「望みの洗礼」についての明示的言及は、神学的問題(すなわち神学者の個人的見解)としてはこれより前にまで遡りうるが、教会教導権によるものではこれが最初のようである。それゆえ、通常「望みの洗礼」という教義は、第一バチカン公会議とともにカトリックの伝統教義にとって最重要とされる公会議の一つである、このトリエント公会議の決議文が典拠になっている。
実際、過去の(あるいは現在でも)神学者の間では、厳格主義(教会至上説)と普遍主義(万人救済説)という両極端が見られる。しかし、教会はいつものように中庸の判断を下したのである。

(文責:金田一輝)




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