2007年11月28日

無原罪の御宿り(2)

ベルナールやアクィナスのような神学者が「無原罪の御宿り」の教義に反対した、という言い方は、この教義を批判する際、ほとんど機械的に成されている。とくにアクィナスの思想は、ほとんどカトリック教会と一体と見なされているだけに、「アクィナスも反対している」という事実は、もっともらしい大義名分であり、教会が無理やりこの教義を信徒に押しつけているかのように印象づけるのにもってこいなのだろう。
しかし、ベルナールやアクィナスなどの神学者が「無原罪の御宿り」に反対したというのは、厳密に言えば、正しくない
すでに述べたように、スコトゥスがこの教義の進展に貢献したのだが、もう少し言うと、スコトゥスによって確立した「無原罪の御宿り」教義は、それ以前のものとは別物である。つまり、「無原罪の御宿り」教義については、少なくともスコトゥス以前のそれと、以後のそれを区別する必要がある。ベルナールやアクィナスなどが反対したのは、スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義であり、少なくとも1854年の「イネファビリス・デウス」による教義宣言の形での「無原罪の御宿り」に反対した事実はない(1)。「イネファビリス・デウス」によって宣言されたのは、もちろんスコトゥス流のそれである。

至聖なる処女マリアは、その懐胎の最初の瞬間に、全能の神からの唯一無比の恩恵の賜物と特典によって、人類の救い主キリストの功績を考慮に入れて、原罪のすべての汚れから守られた。


Ineffabilis Deus(DZs2803(1641))
(2)


まず理解せねばならないのは、ここでいう「懐胎」とは「受動的懐胎」(passive conception)であるということだ。その意味は、「神によって創造された魂が両親によって準備された身体状の物質に注入された瞬間」である(3)。簡単に言えば、肉体と精神が結びついた瞬間である。両者が結びついてはじめて全人格的な「人間」となる。
カトリックの教義では、原罪は人間の自然な生殖活動を介して伝達されると考えられている(4)。つまりひとは、両親の生殖行為によって形成された身体から、魂の注入の瞬間、まったく自動的に原罪に感染することになる。そこでスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」の擁護者は、聖化の時期を、この受動的懐胎以前においたわけである。
カトリック百科事典(Catholic Encyclopedia)は、ダマスケヌスの例を挙げている(5)。ダマスケヌスは、マリアの両親の生殖行為そのものが聖霊によって守られ、情欲を免れていたとしている。その結果、両親によって準備されたマリアの肉体そのものが、すでに聖化され、純化されていたことになる。スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義は、このような「能動的懐胎」(active conception)における聖化を元に弁証されていた。
カトリック百科事典は、この頃の論争について、以下のように説明している。

13世紀において、異論が生じた原因は、大部分は議論の主題についての明るい見通しが欠けていたことにある。「懐胎」という語は様々な意味で使われており、注意深い定義によって区別されていなかった。もし聖トマスや聖ボナヴェントゥラや他の神学者たちが、1854年の定義の意味でこの教義を知っていたならば、彼らはその反対者になる代わりに、最も強力な擁護者になっていたであろう。

彼らによって議論された問題は二つの命題にまとめることができる。両方とも、1854年の教義の意味に反している。

・マリアの聖化は、魂の肉体への注入の前に生じた。その結果、魂の免罪は肉体の聖化の結果ということになり、原罪感染について、魂の側には責任がないことになる。これは、能動的懐胎の聖化に関するダマスケヌスの意見に接近することになるだろう。
・聖化は魂の注入の後に、聖化されていない肉体との結合によって魂が陥る「罪の奴隷状態」からの贖いによって、生じた。この形式の論理は「無原罪の御宿り」を排除している。

神学者たちは、注入前の聖化と注入後の聖化の間に中間があることを忘れていた。注入の瞬間の聖化だ。

Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception(6)

実は「無原罪の御宿り」教義の反対者たちさえ、何らかの意味でマリアが「汚れなき(immaculate)」存在であることは否定していない。ベルナールもアクィナスも懐胎後の子宮内での聖化は認めている(7)。聖化の時期が(受動的)懐胎以前か以後かで、立場が二分されていたわけである。
1854年の「イネファビリス・デウス」の定義を知った目で見ると、中世の神学者たちが聖化の時期を、以前でも以後でもなく、まさに丁度「懐胎の瞬間」にあったと(スコトゥスのように)考えなかったことは、不思議に映る。
もちろん、これには理由がある。そもそもスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義の欠点は、聖化を能動的懐胎の時点、すなわち受動的懐胎以前に置いたことで、「贖罪の普遍的必要性」という教義と齟齬が生じるということだった(8)。すべての人間は原罪を受け継いでいるということは、すべての人間は贖罪の必要性がある、ということだ。魂の注入以前に聖化されていたならば、原罪を受け継いでおらず、贖罪の必要性がそもそもなかったことになる。
また、贖罪は当然ながら原罪を前提にしているから、実際に贖罪が成り立つのは、魂が原罪に感染したのちにのみである。従って、子宮内で聖化された場合でも、魂の注入と贖罪(聖化)の間には、ごくわずかであっても一定の時間を要することになる。その場合はもちろん、カトリック百科事典の説明の通り、無原罪で「懐胎」したとは言えなくなってしまう。

「無原罪の御宿り」と「贖罪の普遍的必要性」が二律背反であるかぎりは、二つの立場しかありえない。

(正)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」の例外である
(反)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」に反するゆえに否定される

プロテスタントの方が「無原罪の御宿り」教義に反対するとき、上記の(正)をその内容だと誤解してしていることが非常に多い。しかし、それはまさに、歴史的にカトリック教会内で批判されてきた立場そのものなのである。スコトゥスの弁証は、この(正)と(反)を止揚したものである。

(合)「無原罪の御宿り」は最も完全な「贖罪」を意味する(9)

しかし、先に進む前にまず、トマス・アクィナスによる「無原罪の御宿り」批判を確認しておこう。

(この項つづく)

(1)スタックポール神学博士は次のように述べている。
「事実、聖トマスと聖ベルナールは、1854年教皇ピウス9世によって定義された最終形態とは実質的に異なる中世的形態の教義に反対したのである。(・・・)聖トマスと聖ベルナールが、のちになって教会によって定義された教義に反対したのだと言う権利は私たちにはない。なぜなら、この形態での教義については、聖トマスと聖ベルナールはまったく知らなかったのだから!」
(ibid,p.40)
(2)訳文はハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店)「無原罪の宿り」項からとった。
CCC(Catechism of the Catholic Church)491;FCD(Ludwig Ott"Fandamentals of Cathlic Dogma"TAN,1955)p.199参照
「イネファビリス・デウス」全文は以下で読める。
http://www.papalencyclicals.net/Pius09/p9ineff.htm
http://www.newadvent.org/library/docs_pi09id.htm
(3)Ott,FCD,p199
(4)CCC404;Ott,FCD,p.111参照
(5)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(6)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(7)Dr.Mark I.Miravalle,S.T.D."The Immaculate Conception and The Co-Redemptrix" in Calloway ed.,op.cit.,p.173;
Summa Theologica V,q27,a1
http://www.newadvent.org/summa/4027.htm#1
(8)「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)
(9)Ott,FCD,p.202;Jaroslav Pelikan"Mary through the Centuries",Yale Univ.,1996,pp.196-197

(文責・金田一輝)




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2007年11月27日

無原罪の御宿り(1)

聖母マリアについて書かれた本の中で、一般に非常によく読まれている『聖母マリア <異端>から<女王>へ』(講談社選書メチエ)の第五章「ドグマ狂騒曲」において、著者の竹下節子は「無原罪の御宿り」の教義について以下のように記述している。

第三の教義は、一八五四年二月八日にピウス九世が宣言した「無原罪受胎」の教義で、マリアが原罪なくしてその母アンナの胎に宿ったとするものである。これは本来、「神の母」が普通の人間であってはおかしいという、初期教父たちによる神学的思弁から生まれた抽象的なものであった。
(・・・)
実は、この教義は最も無理があり、最も抽象的思弁的なものなので、古来しばしば論議の的になっていた。マリア好きだった聖ベルナルドゥスも、またトマス・アクィナスも、神学的正当性に欠けるとして退けている。はっきりと異端のカテゴリーに入れられた時代もあり、一六四四年のローマ異端審問条例は、「無原罪受胎=Immaculata Conceptio」という言葉の入ったすべての文書の没収を命じている。宗教改革をへてカトリックの脱迷信化がはかられたころだ。
このように大いに問題のある考え方だったのに、十九世紀も半ばになて、どうして突然、教義として取りあげられたのだろうか。それはヨーロッパのカトリックが、十九世紀に非宗教主義の攻撃の的になったからだ。反教会の傾向に脅威を感じるあまり、かえって反動的にマリア神格化の方向に傾いてしまったのだ。
(1)

事情を知らない読者が読んだ場合、この文章から「無原罪受胎」という教義について、どういう理解をするだろうか(予備知識のない人がマリアについて知ろうとした場合、この本を最初に手に取る可能性は非常に高い)。

●聖母の「無原罪受胎」という教義は、「抽象的・思弁的」で無理があり、古来から論議されつづけ、ベルナールやアクィナスなども神学的に否定し、1644年ローマから「異端」の扱いも受けた「大いに問題のある」考え方だったが、にもかかわらず、「非宗教主義」などの「反教会」の傾向への反動として、マリアを「神格化」するために、十九世紀にピウス九世によって、突然、宣言された。

こんな感じだろう(言うまでもなく、上記の文章は竹下節子の叙述をそのまま圧縮したものに過ぎない)。
多少ものの分かっている人なら、一読して不可解な印象を受けるはずだ。最も不思議なのは、神学者ドゥンス・スコトゥスの名がないことだろう。「無原罪の御宿り」という教義について、容易に入手できる事典なりなんなりを調べてみれば、十中八九その名が出る(2)。なぜなら、スコトゥスがこの教義の確立に大きな貢献をしているので、教義の歴史に踏み込んだ場合には絶対に欠かすことができないからだ。たんなる無知ならまだいいが、竹下は別の章(第三章「諸宗派とマリア」)では、スコトゥスの名をはっきり挙げており、「マリアが原罪なくして母アンナの胎に宿ったという神学を、初めて展開してみせた」と書いている(3)。それなのに、故意にかどうかは分からないが、なぜか教義史の叙述では、反対した神学者の名はぬかりなく採り上げていながら、擁護した側は、その名を知っているにもかかわらず、書き落としている。
また、教会文書について竹下節子は、「異端審問条例」という一つの反対例だけをクローズ・アップしているが、実は、その前後に「無原罪受胎」について肯定的な文書がたくさん出ている。その中には、教会会議、普遍公会議、教皇によるものも含まれる。これは、デンツィンガー資料集のような、カトリック教会文書を集めた本などを紐解けば、誰でもすぐに確認できる。
要するに、この竹下節子の文章は、「無原罪の御宿り」という教義について、反対意見だけを載せ、肯定的な神学者や肯定的な教会文書を無視することにより、著しくバランスの欠いたものになってしまっている。たしかに、この本は教義学の本でもなければ教義史の本でもないが、それでも、あまりに事実とかけ離れていると言わざるをえない(4)。
文章の論理もいささかおかしい。一方で、「無原罪受胎」の教義が1644年に異端とされたのは「脱迷信化」のためだとしながら、他方で、反教会の脅威への反動として、この教義が1854年突然(!!!)宣言されたのだと言う。なぜ1644年には「反動」がなかったのだろうか。なぜ1854年には「脱迷信化」がなかったのだろうか。(5)

マリアに関する教義は、竹下が述べる通り「古来から論議の的」であり、今でもたしかにそうである。「無原罪の御宿り」はその最たるものである。教義の文字通りの意味それ自体は、それほど難しくない。しかしその意義についてはしばしば混乱が見られる。そして、そうした混乱の理由の一端は、竹下節子の文章に見られるように、教義の歴史についての確かな視点を持たないことにある。スタックポール神学博士が述べる通り、「無原罪の御宿りの教義は、教会が言うところの『教義の発展』の典型例」(6)だけに、なおさらそうなのである。

(この項つづく)

(1)竹下節子『聖母マリア <異端>から<女王>へ』、講談社選書メチエ、1998年、pp.125-126
「一八五四年二月八日」は原文ママである。少なくとも私の所有する版(2004年第3刷)では訂正されていない(12月8日(無原罪の御宿りの祝日)が正しい)。
(2)例えば『岩波 キリスト教事典』(岩波書店)、『カトリック小事典』(エンデルレ書店)など。
(3)同上、p.71
(4)竹下節子のマリア教義についての理解の程度は、同書の以下のような文章から判断できよう。
第一の教義(神の母)「キリスト教は結局、聖母マリアのイメージをアルテミスに置きかえることで何とか布教に成功した。すると、エフェソス人たちは、今度はマリアを絶対崇拝し始めた」(p.119)
第二の教義(永遠処女性)「初期キリスト教世界で、マリアが実際に超常的な処女受胎と出産をしたと考えられていたのかは確かではない」(p.123)
第四の教義(被昇天)「この教義のもとになった聖書外典が成立した背景には、二世紀のグノーシス主義があるといわれている。神が人を救うために送る賢者(智恵=ギリシア語で女性名詞ソフィア=SOPHIA)は、死後に神のもとにもどって他の魂を導く役割をはたす。このソフィアが、イエスにではなくマリアに結びついたわけだ」(p.127)
第五の教義(共同贖罪者)「マリアは、魔術世界をカトリックにかろうじて結びつけている貴重なキャラクターなのだ」「この大事なキャラクターに第五の教義を付与することによって、よりいっそうキリストに似た立場に近づけてしまうことが戦略的に有効だと考えられても、決しておかしくない」(p.131)
(5)そもそも「ドグマ狂騒曲」という章題からも推測できる通り、竹下節子はマリアに関する教義を一種の「迷信」と見なしている節がある。
「一九五〇年には、マリア被昇天の教義が宣言された。教義はだんだんとキリストの教えから離れてフォークロリックなものに近づいていく」(p.135)
(6)Robert A.Stackpole,S.T.D."The Immaculate Conception in Catholic Apologetics" in Fr.Donald H.Calloway,M.I.C ed."The Immaculate Conception in the Life of the Church",Marian Press,2004,p.13

(文責・金田一輝)




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2007年11月20日

Dave Armstrong"A Biblical Defense of Catholicism"

デーヴ・アームストロング『カトリックの聖書的擁護』。アマゾンでの紹介文から。



このエキサイティングな本が示すのは、カトリックは聖書から逸脱しているどころか、際立って、また徹底的に聖書的であるということだ。実の所カトリックは、聖書が明らかに教えていることに完全に合致している唯一のキリスト教である。これを論証するために、カトリックの著作家デーヴ・アームストロング(元プロテスタントの大学伝道師)は、カトリックとプロテスタントの間で最も合意が成り立っていない事柄に焦点を当てている。例えば、信仰の基準としての聖書の役割、信仰のみによって義とされるか、教義は発展するか、ほんとうの聖餐とは何か、マリア崇敬や聖人への祈り、煉獄の存在、救いにおける悔悛の役割、教皇不可謬権の本質などである。

著者について
デーヴ・アームストロングは、二十年以上キリスト教信仰を証している、カトリックの護教家であり福音家である。アームストロングは以前はプロテスタントの大学伝道師であり、1991にカトリック教会に入信した。彼はカトリックについての複数の著書があり、多くのカトリック雑誌に記事も書いている。



プロテスタントは「聖書」のみ、カトリックは「聖書」と「聖伝」、と簡単に片づけられることが多い。これでは、カトリックが教義の源泉として「聖書」をそれほど重要視していないかのようであり、実際、幾つかの教義は「聖書に基づかない」としてプロテスタント側から批判を受けている。これに対して「聖伝」を持ち出しても平行線ではある。
プロテスタント福音派からの改宗者であるカトリック護教家デーヴ・アームストロングはこの本で、その聖書的知識を駆使して、カトリックの教義は「聖書」に反しないこと、従って、「聖書」に基礎づけられうることを論証している。一見聖書に基づかないように見える教義の理解に欠かせない「教義の発展」という概念についても紙幅をさいて説明している。
また、日本ではなじみの少ない、古典的なカトリック護教家の書から多く引用しているのもこの本の特徴であろう。聖書の理解とともに教義の理解も深められるコストパフォーマンスの高い一書である。

(文責・金田一輝)




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Pope Benedict XVI"Jesus of Nazareth: From the Baptism in the Jordan to the Transfiguration"

教皇ベネディクト16世『ナザレのイエス:ヨルダン川での洗礼から変容まで』。Amazonでの紹介文から。



イエスの生涯へのこの豊かで洗練された手引きで、イエスが世界にもたらしたのは世界の繁栄でも平和でもなく、神だと教皇は論じる。たしかに、イエスは「彼の人格の真の中心である」父なる神との関係抜きには理解できない。ラッチンガーは、イエスの誘惑、変容、そして山上の説教などの、福音書の鍵となる出来事の意味を探求し、イエスがパウロ神学を暗示している箇所を指示している。彼はイエスの存在が旧約に根づいていることを強調し、例えば真福八端が詩篇やエレミヤ書などに例示された祝福の祈りの長い伝統の中にあることを解き明かす。ラッチンガーは新約に対する歴史批判学を利用しているが、聖書の厳密な歴史的読解の有用性には限界があることを警告している。聖書を神学的に読むことも、聖書の各箇所を正典全体の一部として見ることも必要である。この学術的な本は気軽に読むことはできない。ラッチンガーはずらっと並ぶ研究成果を利用しているし、彼は「キリスト論」といった神学概念に通じていることを当然だと思っている。しかし、ゆっくりでもラッチンガーの文に取り組む用意のある人にとっては、ほとんどすべてのページから有益な洞察を得るだろう。



現教皇ベネディクト16世による「イエス伝」シリーズ第一巻。序文で、教皇の教導権によるものではなく、個人的著作とことわっている。教皇はここで、近代聖書学の否定面である「信仰」と「歴史」の分裂状態を、近代聖書学の肯定的成果によって、再び和解させようとしている。
福音書記者の語り、そしてまたイエスの言動を、深くヘブライズムの淵源から生い茂ってきたものとした上で(これは共感福音書のみならずヨハネ伝にも当てはまる)、旧約から新約へと連続する救済史の中でイエスを描いている。そこに浮かび上がってくるのは、モーセにならい山上に上り父なる神と友のように親しく会話するイエスであり、なにより(父との一致、神の国の到来を)「祈る」イエスだ。教皇の筆致は、極端に学術的でもなければ教理教育的でもなく、あわてずさわがず丁寧に聖書を読み解いている。そして若かりしころの作品『キリスト教入門』をなぞるかのように、形成された教義から溯って歴史の中に埋め込まれた信仰の根源的場へと下り立ち、あたかも見てきたかのように歴史を「現在」化している。
エキュメニズムや諸宗教との対話についての書、あるいは典礼関係の書などは、ある種マニアックで専門的ゆえに「変化球」ともいえようが、同じように力をこめて、しかし「直球」で勝負しようというのが、この本だろう。何しろ腐るほど世にある「イエス伝」の海に、あえてさらに一石投じようというのだから。続刊が楽しみである。

(文責・金田一輝)




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2007年11月15日

Jean-Pierre Torrell "Aquinas's Summa: Background, Structure, & Reception"

ジャン=ピエール・トレィユ『アクィナスの「神学大全」 その背景、構造、受容』。裏表紙より。



この簡明な新作において、聖トマス・アクィナスの伝記で評価の高い著者、ジャン=ピエール・トレィユはその専門的知識をもってアクィナスの「神学大全」にとりくんだ。その内容、歴史的、文献的、教義的背景、そして永続的な意義について書かれたこの本は、アクィナスの代表作への短くて大衆向きの入門書として、読者が繰り返し参照するものになるだろう。
トレィユはアクィナスの人生の専門的な解説から入り、それから「神学大全」の全体構成と個々の内容へと移る。彼は「神学大全」の文献的・教義的文脈を考慮し、天使的博士の文書全体の中にその仕事を据え、アクィナスの使ったキリスト教、ギリシャ、ユダヤ教、アラブの典拠史料を調査している。
本の後半は、1274年のアクィナスの死から二十世紀までの、「神学大全」の受容の歴史を概観する。トレィユはアクィナスの「神学大全」の運命を、そのゆっくりとした出発から、最終的なトミズムの興隆を経て、その広範な受容に至るまでを追跡している。十九世紀と二十世紀は、回勅「アエテルニス・パトリス」によるアクィナスの仕事の究極的勝利の時代であり、第二バチカン公会議ののち、その内容と方法に新たな関心が集まっている。
この本は簡潔にして完結している傑作である。「神学大全」の内容、方法、影響を理解し評価したいと思っている読者たちにとって、大変興味深いものとなるだろう。

ジャン=ピエール・トレィユはトゥルーズ県のドミニコ会の司祭であり、フライブル大学の教義神学の教授である。彼はCUA出版による、高い評価を受けている「聖トマス・アクィナス」シリーズの編集者である。



非常に薄い本(156ページ)であるが、重要な情報の詰まった凝縮された一冊。さすがプロの仕事だ。
肝心の「神学大全」の内容解説は、50ページにも満たないが、簡にして要を得ており、比較的新しい知見にもことかかず、アンチョコとして使える。下手な「入門書」に手を出すくらいなら、この本を熟読した方がよい。
また、常に神学大全の全体構造から細部を読み解いており、第三部にかかわる「キリストの生の奥義」についての解説などに特徴的に表れている。トレィユによれば、アクィナスは「イエスの人生」を、キリスト論的統合の中で扱った最初にして唯一の中世神学者ということになる。私は、父なる神との関係性に裏打ちされた「人間イエス」について叙述した、教皇ベネディクト16世の近刊『ナザレのイエス』(ダブルデイ)を想起しながら読んだ。
その他、アクィナスの小伝記、「神学大全」の文献的・教義的環境や、受容の歴史についても至れり尽くせりだが、終章の2005年までの最新のアクィナス研究についての書誌紹介が非常にありがたい。志あるひとにとって、さらに深く研究するための土台を提供している。
「神学大全」についてまず一冊という場合、文句なくこの本をすすめられる。体裁は「入門書」だが、「入門書」の格ではない。

(文責・金田一輝)




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2007年11月07日

Fergus Kerr"Twentieth-Century Catholic Theology: From Neoscholasticism to Nuptial Mysticism"

ファーガス・カー『二十世紀のカトリック神学:新スコラ主義から結婚の神秘主義へ』。裏表紙より。



この本は1900年から今日までのカトリック神学の、新鮮で簡潔な説明を提供している。フランスの労働者司祭運動の指導者であるシェヌの仕事で始め、現教皇ベネディクト16世のような現代の神学者の著作で締めくくっている。
彼自身英語圏での一流の神学者であるカーは、それぞれの人物と、彼らのカトリックの教えとの関係についての、神学上の発展を論じている。過去100年はカトリック教会における、巨大な刷新と改革の時代であり、カーは、特に第二バチカン公会議によって導入された広範囲に渡る変化について、それぞれの思想家がこの過程でいかに貢献したかを描いている。
その成果が、生き生きとして情報豊かなこの一冊であり、二十世紀において最も重要なカトリック神学者たちの、時折動乱に満ちた人生、仕事、遺産を探求している。この書は、現代のカトリシズムに興味のある学生、学者、一般読者によって広く読まれるだろう。

ファーガス・カーは、説教者修道会の一員であり、エジンバラ英国学士院の会員であり、エジンバラ大学の神学研究所の名誉会員である。また、英国ドミニコ会の会報誌『ニュー・ブラックフライアーズ』の編集者である。彼の本には、『アキナス以後:様々なトミズム』(ブラックウェル、2002年)がある。




知り合いのK神父に進められて読んだ。現代神学にうといので、大変蒙を啓かれ、見通しがよくなった思いがする。
序章と終章を除いて、主要な現代カトリック神学者を一人一章ごとに論じている。登場するのは、マリ=ドミニク・シェヌ、イブ・コンガール、エドワード・シュリベークス、アンリ・ド・リュバック、カール・ラーナー、バーナード・ロナーガン、ハンス・ウルス・フォン・バルサザール、ハンス・キュンク、カロル・ウォイティワ、ジョゼフ・ラッチンガーの十人である。一人一人まとまって取り上げているといっても、決して行き当たりばったりではなく、副題「新スコラ主義から結婚の神秘主義へ」とある通り、一つの筋が通っている。
二十世紀初頭は良くも悪くも新スコラ主義あるいはネオ・トミズム全盛の時代であった。ここに登場する現代神学者は、ほとんどが義務的に新スコラ主義の教育を受け、それに反発してきた人々だ。それはシェヌによるトマス・アクィナスの歴史文脈的再解釈から始まる。ガリグ・ラグランジュに代表されるネオ・トミストたちは、トマス哲学の永遠性を称揚するのに対し、歴史文脈的解釈は、トマスの時代性に焦点を当てる。同時代の中世の他の思想との関係性や、古代やギリシャ哲学などの歴史的水脈をたどり直すことで、新たなトマス像が出来してくる。それに応じて、理性と信仰、哲学と神学の新たな関係、とりわけアンリ・ド・リュバックに代表される、階層秩序的ではない両者の新たな総合が模索されていく。
これら「新スコラ主義の乗り越え」によって、ネオ・トミストによって排除され抑圧されてきた、忘れられてきたカトリックの豊かな精神的遺産が再発見されてきた。とりわけ、大胆にカール・バルトの思考を吸収したバルサザールなどにより、オリゲネスの「結婚の神秘主義」が練り直されている。その結果、現代カトリック神学のフロントに、神と教会、神と人との婚姻性(nuptiality)という古代的テーマが踊り出ている。婚姻性の射程は実際には非常に広く、神と世界、創造と贖罪との関係性、マリア論から、もちろん今日の男性と女性の関係性や、家族や性の問題にまで及んでいる。
この点でよく知られていないのは、ヨハネ・パウロ2世の功績だ。そのパーソナリティの強烈さに目がくらんで、彼の神学者としての仕事は軽視ないし無視されがちである。しかし、現代カトリック神学に対する彼の貢献は、いまだ正当に評価されてはいないものの、巷間考えられているよりもはるかに大きい。
彼はアクィナスを引きながら、しかしネオ・トミスムが捨ておいてきた、「身体」と「精神」の相互協同性という観念を強調した。そのことで、「身体」は精神と対立するものであるどころか、人間の「婚姻性」、すなわち自己譲与による愛を表現するものとなる。彼によれば、創世記の「神の像」という表現は、単に創造主である神の主権を継いだ人間の被造物への支配権を意味するだけではなく、神との親しい交わりの可能性、従って、隣人に対する神的愛の可能性の刻印として理解されねばならない。
パウロ6世の回勅『フマネ・ヴィタエ』による堕胎と避妊の禁止に対する彼の擁護は、ヨハネ・パウロ2世の「保守性」として非難されることがあるが、それは創世記の人間創造譚の再解釈による「身体」の婚姻性についての思考と関連づけて理解されねばならない事柄だ。逆に言えば、彼の「革新性」は単に教皇としての、エキュメニズムや諸宗教との対話に関する身振りに限定されるわけではなく、神学者としての、新たな次元の開発にも示されている。
この本で、あらためてカトリック神学の豊かさを確認することができた。現代の神学の動向を知りたい方、また、私のようにネオ・トミスムに郷愁を覚えるひとも、一度は目を通しておきたい一冊であろう。

(文責・金田一輝)




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2007年11月04日

Allyne Smith,etc"The Philokalia: The Eastern Christian Spiritual Texts--selections Annotated & Explained"

裏表紙より。


四世紀から十五世紀までの修道僧の著述を集めた「フィロカリア」は、東方教会の聖書の解釈を他のものよりよく写し出している。簡単に訳せば、このタイトルの意味は「美への愛」であり、私たちのすべての感覚を総動員した礼拝と祈りのための神秘的かつ観想的実践を反映している。
この「フィロカリア」の知恵への入門書は、今までギリシャ語やロシア語からの学術的訳で一般の読者に敬遠されてきた文書を明るみに出している。アライン・スミスは五巻を通して浮かび上がってくる七つのテーマ(悔悛、心、祈り、イエスの祈り、熱情、静寂、神化)に絞って練りに練った選別をしている。スミスの啓蒙的で、ページごとにあって把握しやすい註釈は、歴史的・精神的文脈に満ち、救いについての東方的理解を含む枢要な教えを明かしており、観想的祈りのような現代的実践に結びつけている。
今、あなたは「フィロカリア」の霊的知恵を経験することができる、たとえあなたが東方キリスト教についてこれまで知らなかったとしても。このスカイライト・イルミネーション版は、この愛すべき書物を通した旅にあなたを連れて行き、東方の修道僧の教えが、本質において神であるところのものに、恵みによってあなたがなることに資するだろう。


「フィロカリア」は、カトリックで言えば、十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレサ、あるいは『キリストにならいて』などのような、神秘家による霊的修養書を、ひとつにまとめたものであると言える。もともとは、正教会の霊的中心地であるアトス山の修道僧、ニコディモスとマカリオスが、観想的伝統の復興を願って十七世紀に編纂したものである。以後、各国語に訳され、正教会教徒のみならず、他のキリスト教徒や異教徒にまで精神的影響を及ぼしている。
このスミス版は、五巻にものぼる「フィロカリア」から重要箇所を、七つのテーマに従って200ページほどの本に抄録したものであり、見開きごとに右に本文、左に註釈を入れたスタイルで、非常に読みやすくなっており、かっこうの入門書と言えよう。さらに進んで学びたい方は、Faber & Faberによる完訳版がある(現在4巻まで出版されている)。
月並な感想ではあるが、ここで説かれている観想法は、仏教などの東洋的瞑想法に驚くほど似ている。頭を垂れて臍のあたりに目を向けよ、などというヨーガのような指示まである。身体を使った修行を強調したり、精神を落ち着けて、概念やイメージを取り払うことを奨めるところなど、まるで座禅である。これらの修行の究極目標は「神化」(テオーシス)であるが、仏教ならば「成仏」と呼ぶ所だ。
とはいえ、安易に宗教的類似性を持ち出す必要はないだろう。それは理解の助けになることもあれば、妨げになることもあるからだ。あまり知られていない東方の霊性の豊かさをここに確認できれば、おそらく十分なのである。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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