2007年12月29日

投稿ガイドライン・更新

投稿ガイドラインを更新しました。
http://defencecatho.seesaa.net/article/74890506.html


以下の文章を追加しました。

一般的注意。

・初めて投稿される方は、挨拶と簡単な自己紹介をお願いします。


当たり前のマナーだと思いますが、自由に意見を交わす掲示板と個人のブログの投稿欄を混同する人たちが若干いるようなので、このような指示を入れました。

また、「削除対象」文の一部を修正しました。


・住所や電話番号などの「個人情報」(本人によるものも許可しません)。公共団体など、問題ない場合は除きます。


赤字が修正部分です。
「本人によるものも」というのは、何かトラブルが生じた場合に、当方では責任が取れないからです。

ゲストのみなさん、よろしくお願いします。

(文責・金田一輝)
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2007年12月27日

投稿ガイドライン

コメントの投稿数が増えてきたので、「ガイドライン」を発表しておきます。この記事をアップした時点から有効となります。今後更新する可能性はあります。


一般的注意。

・初めて投稿される方は、挨拶と簡単な自己紹介をお願いします。


以下の内容を含むコメントの投稿は、投稿文全体が削除対象になります。

・明らかに公序良俗に反したもの、明らかに法律に反したもの
・住所や電話番号などの「個人情報」(本人によるものも許可しません)。公共団体など、問題ない場合は除きます。
・アダルトサイトなどの有害サイトへのリンク


以下の行為は削除対象ではありませんが、控えてください。

・同一人物による複数のハンドルネームの使用
・「通りすがり」のような、いわゆる捨てハンの使用
・当ブログの記事と、まったく関係のない話題
・自分のブログやホームページなどの宣伝を、もっぱらの目的としている投稿


なお、当ガイドラインにかかわらず、管理人である「金田一輝」が必要と判断したならば、注意、警告、予告なしの削除を行います。


*2007年12月29日更新

(文責・金田一輝)
posted by kanedaitsuki at 08:49| Comment(0) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月08日

無原罪の御宿り(4)

スコトゥスの弁証に移ろう。
著名な神学者たちによってこの「無原罪の御宿り」の教義が拒否されていたのは、アダムの子孫である全人類にとって原罪の伝達は不可避であると考えられていたことと、キリストの贖罪の普遍性に反すると考えられていたからであった(1)。
自然な生殖行為の結果形成された肉体に伝わった原罪は、注入の際、自動的に理性的魂に感染する。それを防ぐためには、肉体の懐胎(能動的懐胎)と魂の注入(受動的懐胎)の間に時間的な隔たりがあるとして、注入以前において肉体(胎児)に対する聖化が起こっていなくてはならない(2)。しかし、アクィナスが述べるように、魂なしの肉体は、罪の主体にもならないが、同時に、贖罪の対象にもならない(3)。
贖罪が理性的魂に対する普遍的な原罪の感染を前提にする限り、袋小路であり、解決手段はないように見える。しかし、無原罪で懐胎することが、それにもかかわらず一種の贖罪でもありうるのであれば、「無原罪の御宿り」論の難点二つは、ともに解消できる。

ここで考えなくてはならないのは、一般的に言って「救い」とは何かということだ。キリスト教的思考に慣れ親しんでいると、「救い」は常に罪からの解放と反射的に考えてしまう。つまり、いったん陥った罪のくび木から、人を自由にすることが「救い」であると思う。しかしこれは、言ってみれば「原罪」、すなわち、生まれながらに神の恩寵を失った人間の状態を当たり前のものと見なしているからこその、結論である。
古典的カトリック護教家ニューマン枢機卿は、マリアの無原罪受胎を信じることよりも、むしろすべての人間が原罪とともに生まれてくることの方が大いなる謎であると言っている(4)。これを踏まえて、現代の著名なカトリック護教家デーヴ・アームストロングは、堕落以前のアダムとイブ、天使達の例を挙げて被造物が無原罪で生まれることはあると指摘したうえで、つまるところ「堕落が人類にとって異常なのであり、マリアの無原罪懐胎は異常ではない。それは単に正常な状態への回帰なのだ」と述べている(5)。
「無原罪」という言い方は「原罪」の否定だから、何か「原罪」の方が積極的な概念であるかのように見える。しかし、本当はむしろ「無原罪」の方が積極的な概念であり、「原罪」こそ、その否定なのである。「原罪の本質は、アダムの堕罪の結果としての、聖化する恵みの欠如である」(6)。
こうした観点からすれば、「救い」とは人間の本来の状態への回復を意味する。そうであれば、確かにマリアにもまた、「救い」があったのだと言えるのである。
デーヴ・アームストロングは、非常にわかりやすくこのことを説明している。

中世の神学者たちは、マリアはすべての人間と同じく救われた(イエスはすべての救済と贖罪の源として彼女のためにも死んだ)と論じた。他の人間とは別の仕方ではあるが。彼らは森にある穴にたとえた。もし、誰かが穴に落ちたとして、他の誰かがロープをたらして上に引き上げて助けたとしたら、彼は「救われた」と言える。しかし、落ちてしまう前に、誰かが引き止めて救助したとしても、やはり彼は「救われた」と言える。穴は罪(と原罪)を意味し、救助は神とその恩寵である。マリアは決して穴に落ちなかった。だがだからといって、彼女が救われなかったとか、そこから救助されなかったとは結論できない。彼女は確かに救われた。それが起きたのは、彼女の存在の最初の瞬間であったわけだから、その救いは徹頭徹尾神の恩寵によるものであるし、またそうでなくてはならない。

"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"(7)

数多くの神学者たちが行き詰ってしまったのは、「浄化の贖罪」の場合、魂の注入と聖化との間には、ごくわずかであっても時間的隔たりがなくてはならないからであった。スコトゥスはこの時間的隔たりを、まるで極限のように限りなくゼロに近づけ、最終的にはゼロであっても贖罪が成り立つことを示したのだ。いわば、ゼロも数字であることを、はじめて証明したようなものである。
神学者たちが上記の時間的隔たりを想定せざるをえなかったのは、原罪と贖罪の先後関係を実際の時間軸上に置いていたからである。それゆえ、原罪(穴)に落ちてからしか、救いはないと思い込んでいた。しかし、ほっておけば原罪に落ちるにしても、原罪(穴)に落ちる前に救うことができるとすれば、この先後関係は、実際の時間軸上にある必要がなくなる。たとえば仮定法過去完了時制で考えれば、想像上の先後性でしかなくなるわけである。これを文章の形で述べれば、次の通りである。

「人類共通の生殖の結果として、マリアは原罪に陥っていたはずであった、もし仲介者の恵みによってあらかじめ保護されていなかったらならば。」(8)

この原罪からのあらかじめの救いを「先―贖罪」(praeredemptio)と呼ぶ。そしてこれは、既にアクィナスの念頭にあった「保護の聖化」という考え方の、まさに受動的懐胎の瞬間への適用であった。このようにしてスコトゥスは、「無原罪の御宿り」の教義を弁証することができた。(9)
ルードヴィヒ・オット博士の簡明な要約を引こう。

この問題の最終的な解決への正しいアプローチは、まずフランシスコ会の神学者ウェアのウィリアムによって手がつけられ、彼の偉大な弟子ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによって完成された。スコトゥスは、生命活動の聖化への先行は、時間上である必要はなく、概念上であればよいと教えた。先―贖罪というこの考え方を導入することで、マリアの原罪からの免除と贖罪の必要性とを調和させることに、彼は成功した。スコトゥスによれば、原罪からの保護は、最も完全な種類の贖罪である。それゆえ、キリストがこの仕方で彼の母を贖ったのは相応しいことだった。スコトゥスと一体となったフランシスコ会は、ドミニコ会とは対照的に、マリアの無原罪の御宿りの祝日を断固として擁護した。

Fundamentals of Catholic Dogma(10)


「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」と矛盾しない。なぜなら、それは、通常とは違う仕方ではあるが、やはりある種の「贖罪」(先贖罪、保護の贖罪)であるからだ。スコトゥスの偉大さは、「無原罪の御宿りの」を、単に別の「贖罪」であるとしただけでなく、さらに進んで、むしろ「最も完全な種類の贖罪」であるとしたことだった。スコトゥスはいわば次の公式を生み出した。

無原罪の御宿り=最も完全な贖罪(IC=MPR)

この一見平凡な公式の背後に、それまでの様々な教義の歴史が横たわっている。オイラーの公式のように、まったく別々に発見された重要な概念が、一つにまとめられている。結果的には単純に見えるものにおいてこそ、天才の叡智が秘められている。
「無原罪の御宿りの祝日」は、神の救いの経綸の神秘とともに、天才神学者の思想の神秘の記念でもあるのだ。

(この項つづく)

(1)Gambero,op.cit,p.249
(2)『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)「聖母マリアの無原罪の宿り」項によれば、「生命の付与、または胎児(embryo)に魂の注入されるのは、女児の場合には受胎の瞬間ではなく、約3ヶ月後であるとされていた」。
(3)Gambero,op.cit,p.238
(4)「無原罪の教義よりも難解な教義はいくらでもある。原罪がそうだ。マリアには難解なところはない。原罪なしに魂が身体と結びつくということを信じるのは困難ではない。幾百万もの人間が原罪とともに生まれるということこそ、大いなる謎である。われわれのマリアについての教えは、一般的な人類の状態についての教えに比べればまったく理解するにたやすい。」
(Dave Armstrong"A Biblical Defence of Catholicism",Sophia Institute Press,2003,pp.186-187)
Dave Armstrong"More Biblical Defence of Catholicism",1stBooks,2002,p.121も参照
また、フルトン・J・シーンも次のように述べている。
「この時代の何者であれ、「無原罪の御宿り」に反対するのを、私は決して理解できない。現代のすべての非キリスト者は、彼らが無原罪で受胎したことを信じている。もし原罪が存在しないのであれば、その場合人類全員が無原罪で受胎したことになる。なぜ彼らは、自らに帰するものをマリアに許すことにしり込みするのだろう?」
(Fulton J.Sheen"The World's First Love",Ignatius,1952,p.17)
(5)"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"
ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(6)Ott,FCD,p.199
(7)ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(8)Gambero,op.cit,p.249
参考のため英語原文を載せておく。拙訳はわかりやすさのために、語を補っている。
"As a consequence of common generation, Mary would have had to contract original sin had she not been preserved by the grace of the Mediator."
(9)ジョン・ハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店、1986年)「無原罪の宿り」項は次のように説明しているが、「保護」の観点が欠けているため、非常にわかりにくい。
「スコトゥスは、マリアに原罪がなかったことと、マリアがキリスト降誕前に懐胎したことを調和させるために、キリストの功績を先取りして事前に救われたという考えをとり入れた」
『岩波 キリスト教事典』(岩波書店、2002年)「無原罪の宿り」項にいたっては、ほとんどあさっての方向に行っているように見える。
「ドゥンス・スコトゥスは「キリストの功徳の予見」という概念を導入し、神の選びによってマリアがキリストによる救いにあらかじめ参与させられたと説明した」
(10)Ott,FCD,p.202

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 20:24| Comment(12) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月06日

無原罪の御宿り(3)

アクィナスは『神学大全』第三部第27問で「マリアの聖化」について取り上げている。第一項で子宮内聖別を肯定したあと、第二項主文でスコトゥス以前の「無原罪懐胎」論を否定している。

聖処女の聖化は生命活動(animatio)以前に生じたとは考えられない。理由は二つある。
一つ目は、わたしたちが言っている聖化とは原罪からの浄化を意味するからだ。デュオニシウスが言うように(『神名論』12)、聖化とは完全なる浄化である。さて、罪は恩寵によってのみ取り除かれ、恩寵の対象とは理性的被造物のみである。それゆえ、魂の注入以前において、聖処女は聖化されていない。
二つ目は、理性的被造物のみが罪の対象であるので、魂の注入以前の懐胎した胎児は罪と関係しないからだ。そしてそれゆえ、どういう仕方であれ聖処女が生命活動以前に聖化されたとしたならば、聖処女は原罪の汚れを招かなかったことになる。そうすると、聖処女はキリストによる贖罪も救済も必要としなかったことになる。しかしキリストについては「彼は人々を罪から救う」(マタイ1:21)と書かれているのだ。もし聖処女が生命活動以前に聖化されていたなら、それは「キリストはすべての人間の救世主」(第1テモテ4:10)ではないということを意味する。(しかし、それはおかしい)それゆえ、聖処女はあくまで生命活動の後に聖化されたのである。

Summa Theologica V,q27,a2(1)

ここでアクィナスは、はっきり問題の焦点を肉体への魂の注入の瞬間、のちに言うところの受動的懐胎(生命活動)の時点に絞り込んでいる。そして第一に、原罪・無原罪を云々できるのは、少なくとも理性的被造物と言いうる受動的懐胎以後であると説き、第二に、かりにダマスケヌス流の「肉体の聖化」があって、その結果魂への原罪の感染がなかったとしたら、それは「贖罪の普遍的必要性」と調和しないと説いている。
再三述べた通り、アクィナスはここで、単に原罪の浄化は受動的懐胎より以前には起こらなかった、と言っているだけだから、実は「イネファビリス・デウス」の定義の意味での「無原罪懐胎」を否定してはいない(2)。
ところでアクィナスは、「無原罪の御宿り」という教義に一貫して反対していたわけではない。二十世紀を代表する厳格トミスト・ガリグ=ラグランジュは、この教義に対するアクィナスの思想遍歴は三段階あると言う。
第一段階はこの教義に肯定的で、『命題論集註解』Tに表れている。
「純粋性はその反対物からの離脱によって増加する。それゆえ、すべての罪の感染から免れていたならば、創造上可能なかぎり最も純粋な被造物があることになる。原罪と自罪から免除された聖処女はそうした例である」(3)
第二段階は上述した『神学大全』にある通り否定的。第三段階は再び肯定的で、生涯の最後の時期に書いた「天使の挨拶について」で、「彼女(聖処女)は最も純粋で欠陥がなく、原罪も道徳的罪も自罪も招かなかった」とあるらしい(4)。
アクィナスにこうした思想の「ふらつき」があることに多少驚かれる方もいるかも知れない。ガリグ=ラグランジュはアクィナスの思考の軌跡を次のように語っている。

このような教義の進展は神学者では稀なことではない。まず彼らはその難しさを知ることなしに、伝統から受け入れた理論を提示する。その後、省察によって、より慎重な態度を採用することになる。最後に彼らは最初の立場に戻る。神の贈与の豊かさは私たちが理解できるよりはるかに大きく、大した理由もなく神に制限をかけるべきではないということに気づくからだ。

The Mother of the Savior and our Interior Life(5)

先取りして言えば、スコトゥスが「無原罪の御宿り」を弁証する時に使用した重要な概念は、「概念上(本性上)の先後性」と「保護する贖罪(聖化)」であるが(6)、実は両者ともアクィナス自身がすでに使っていた考え方だった(7)。つまり、アクィナスは弁証のための道具を自ら手にしておきながら、ついにそれを使用して「無原罪の御宿り」を論証することはなかった。大神学者にしては、これはこれで不思議に見える。
しかし、アクィナスも「時代の子」である。「無原罪の御宿り」は当時はまだ不可謬の信仰箇条ではなく、名だたる神学者たちは皆反対していた(聖ベルナール、ペトロス・ロンバルドゥス、ヘールズのアレクサンドル、大アルベルトゥス、聖ボナベントゥラ)。さらに、主にイギリスで繰り広げられていた、この教義発展の新しい動きについての、たよりになる情報を得ていなかった。(8)
何よりカトリック神学者としてアクィナスもまた、当然のことながら教会の伝統に忠実だった、ということは特記されていいだろう。第一段階の、きちんとした論証抜きにこの教義を肯定する態度もある意味ではそうである。第二段階の否定についても、ガリグ=ラグランジュは他の論者の意見もふまえて「聖トマスの沈黙は、多くの他の教会とは違って、受胎の祝日を祝っていなかったローマの教会の慎重な態度に影響されたということはできる」という興味深い指摘をしている(9)。
つまり、アクィナスは、あくまでその当時のローマの裁定(というよりも裁定の保留)に忠実だったのだとも言えるのである。少なくとも、ローマの決定があった場合、「無原罪の御宿り」になお反対したとは考えにくい(10)。
見てきたように、カトリック教会を代表する神学者であるアクィナスが「無原罪の御宿り」の教義に反対した、とは単純には言えないのである。とりわけ、教会の意向に反対してまでそうしたという事実はない。カトリックにおける教義の歴史を考える上で、神学的発展と教会の態度決定の関係は、見逃してはならない重要なファクターなのだ。

(この項つづく)

(1)http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(2)ただし、幾つかの問題は残る。アクィナスは同じ項の第二異論回答において「聖処女は確かに原罪に感染した」と書いており、また、『命題論集註解』Vでは「魂の注入の瞬間でさえ、その時彼女に与えられた恩寵によって根源的欠陥を免れることはなかった。人類においてキリストのみが贖罪の必要性のない特典を有している」と言っている。
(Fr.Reginald Garrigou-Lagrange"The Mother of the Savior and our Interior Life",TAN,1993,pp60-61参照)
しかし、アクィナスの論証の根本前提は「贖罪の普遍的必要性」にあるので、彼が1854年の定義に反対しただろうという権利は確かにない。
(3)Garrigou-Lagrange,p.59
(4)ibid.,p.62
(5)ibid.,p.63
(6)Ott,FCD,pp.201-202
(7)「本性上の先後性と時間上の先後性を他の多くの場合ではそうしているのに、(『神学大全』第三部第27問第二項では)区別しなかった」
(Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.60)
「聖トマスは二つのことを主張している。@神の母は贖われた。A彼女の聖化は保護の聖化だった」
(Summa Theologica Editorial Note,Christian Classics,1981,p.2156)
(8)Summa Theologica Editorial Note,p.2156
(9)Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.61
実際、ここで取り上げている第27問第二項の第3反対異論回答で、アクィナスは以下のように述べている。
「ローマの教会は聖処女の受胎を祝していないけれども、この祝日を保つ幾つかの教会の慣習は黙認しており、それ故、この祝日はきっぱり否認されてはいない。しかしながら、この祝日の式典によって、彼女が受胎において聖なるものであったと私たちは理解しない。いつ彼女が聖化されたかは分からないので、彼女の受胎の祝日というよりも、彼女の聖化の祝日が、彼女の懐胎の日に続けられているのだ」
Summa Theologica V,q27,a2
http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(10)ベルナールも、この教義と祝日に反対する手紙の中で、この問題全体に対するローマの判定には従うつもりであると留保を入れている。
「教会から受けたものを、安心して保持し、安心して他に渡してきた。教会から受けたのではないものについては、容易には受け入れないだろうと私は告白する」
(Luigi Gambero"Mary in the Middle Ages:the Blessed Virgin Mary in the Thought of Medieval Latin Theologians",Ignatius,2005,p.138)
Pelikan,"Maria",p.193も参照

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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