2008年07月30日

トマス・アクィナスですがなにか? article.1 異端とかそういう類の人の叙階って有効なの?

チャオ!
トマス・アクィナスだよ。周りの人たちには「アッキーナ」って愛称で呼ばれてるから、みんなも街で見かけたら気軽に「アッキーナ!」って声をかけてね。
今日からはじまったこの「トマス・アクィナスですがなにか?」は、みんなの素朴な疑問に、天使みたいなドクターこと、このアッキーナが、どんどんお答えしちゃう、そんなコーナーだよ。
じゃあ、まず最初のメールから、えっとなになに「異端とかで教会から離れちゃった司教が叙階することがあるけど、あれって有効なの? ペンネーム・牛男爵さん」。ふむふむ。こういう疑問って確かにあるよねー。じゃあ、さくっと答えちゃおうかな。
まずそうだね、だいたいこれについては四つくらいの種類の考えがあるんだよね。まず一つ目は、「異端でも教会にとどまっている内は叙階の力はあるけど、教会から離れた途端、力がなくなる」って考え。でも、こんなのありっこないんだよね。聖別された時の力って、聖別された物が残っている限りは、無くならないんだもん。祭壇だってそうでしょ。だから、叙階されたら一生叙階されっぱなしなの。その人が罪を犯そうが教会から離れようが信仰を捨てようがね。
で、二つ目は、「教会から離れた司教には確かに叙階する力はあるけど、その司教に司教聖別された人にはその力がない」っての。ちょー受けるんですけど。教会で叙階された人に叙階や司教聖別の力が伝わっているなら、その人がその力を使って叙階した人にも、それとおんなじ力が伝わってるに決まってるじゃん。
三つ目は逆の極端ね。「異端とかで教会を離れた司教に、教会にいた時に伝えられた力が残っているのだから、司教は秘跡を与える力があるとともに、恩恵も与えることができる」。残念! 古いか。異端で教会を離れた司教や司祭から秘跡を受けるって罪だよね。罪ってことはふさしくない状態で秘跡を受けたことになるよね。そう、そういうこと。そういう場合は恩恵は受けられないんだったよね。まあ、緊急時の洗礼とかは別だけど。
四つ目はこう。「異端とかで教会を離れた司教による秘跡はたしかに有効だが、恩恵は与えない」。これが正解。
みんな、分かったかな? 巷では「破門されたら叙階は無効」とか言ってる変なおじさんがいるみたいだけど、みんなだまされないように気をつけてね。
じゃあ、今日はここまで。また次回。
アリヴェデルチ!

*当記事はSumma Theologica Suppl.Q.38 A.2を元に、私が編集・構成したものです。文章の責任はすべて私、金田一輝にあります。

(文責・金田一輝)





2008年07月28日

カトリックのトリセツ:破門(excommunication)

破門(excommunication)

「破門」というと、カトリック教会の権威主義や組織主義といった悪い印象を増幅するマジックワードとして使われている。「A級戦犯」が比喩的にマイナス価値を表すために使用されているのと同じように、別の文脈で使われることも少なくない。むしろ、師匠が弟子を「破門」する、というような「縁を切る」意味での使い方が一般的であろう。
そうした巷間の通俗的な印象に引きずられてか、「破門」をあたかも教会からの「永久追放」であるかのように捉える者も少なくない。カトリック以外のキリスト教徒はもちろん、カトリック信徒内にもそういう誤解をしている人々がいる。
しかし、よくよく考えなければならないが、もし本当に「破門」が「永久追放」を意味するのであるならば、破門された人間は一人の例外もなく教会に復帰していてはならない。しかし、事実は違う。破門が撤回されたケースは歴史的に山ほどある。そうした事実を知っているにもかかわらず、なおこうした誤解をするのは何故なのか。あるいは、撤回されるケースは例外であるとでも思っているのだろうか。

とりあえず、標準的な教会法の教科書(James A.Coriden"An Introduction to Canon Law"Paulist1991年版)を引こう。

懲戒罰ないし譴責 名称が示唆するように、これらの罰は犯罪者を癒し、治療することが目的である(譴責という語(censure)は懲戒(reprimand)を意味する)。そのような罰には三つある。破門制裁、禁止制裁、停止制裁。破門の意味するところは、信徒の交わりからの部分的な排除である。それは教会から信徒を切り離すことではなく、制限された関係のことである。被破門者は秘跡の執行や受領を禁じられる。あるいは、すべての職務、奉仕職の行使を禁じられる(CIC 1331)。(中略)懲戒罰の目的は回心であるので、犯罪者が悔悛し、行われた傷害や躓きを改める意志がある場合は、譴責は解かれねばならない(CIC 1358)


Introduction to Canon Law,Paulist,1991,p177

ここで解説されている通り、破門によって信徒はほとんどの権利を喪失し、交わりから排除されもするが、にもかかわらず、破門は教会からの信徒の永久的な分離を意味しない。懲戒罰の一種であり、被破門者にとってはむしろ、教会との再度の一致のために下されている。
破門制裁における排除の範囲については、歴史的に変容しており、信徒の交わりからの完全で包括的な排除(いわゆる大破門)もあった(Summa Theologica Suppl.Q.21 A.1)。しかし、それとて「永久追放」ではない。悔悛によって交わりに復する可能性があったからだ。罰が重ければ重いほど、それを解除する権威者が制限されただけである。現行法でも最も重い懲戒罰は「聖座に留保された伴事的破門」(すなわち聖座以外には解除できない破門)である。
ここで注意しておくべきことは、犯罪者が悔悛すれば「譴責は解かれねばならない」ということである。指示されている教会法自体を引いておこう。

CIC 1358 (1)
懲戒罰の赦免は、第1347条第2項の規定に従って、命令不服従の態度を改めた犯罪者に対してのみ与えることができる。命令不服従の態度を改める者には、赦免を拒否することはできない

こうした規定があることから分かる通り、破門(懲戒罰)には常にあらかじめ赦免の可能性がセットされている。もし「永久追放」を意味するのであれば、こうした可能性は少なくとも法典からは排除してしかるべきであろう。しかるに実際には、被破門者のような犯罪者にも、一定のカトリック信徒としての権利が法的に留保されているわけである(これは市民法における犯罪者の権利の考えに類比できる)。
教会法は1917年の旧教会法典、1983年の新教会法典と、きわめてシステム化されてきており、それだけ裁治権者の恣意がまかり通る余地が減っている。もちろん現在でも法の具体的適用においては、解釈や運用における幅があることは言うまでもない。しかし、明文上も不文上も、法の適用において寛容の精神を旨としていることは、教会法を理解する上で忘れてはならない事実である。

さて、おまけとして、ラッチンガー(現教皇ベネディクト16世)の破門についての発言を引いておこう。
ラッチンガーはあるインタビューにおける「異端」の質問に答える形で、教会は共同体として、共通善である信仰を守るための社会的行動をとる必要(すなわち信徒に対する刑罰を課す必要)があるという主旨のことを説明したのち、以下のようにつけ加えている。

今日でさえ異端者に課せられている破門は、矯正のための刑罰として理解されるべきです。すなわち、その人を罰するのではなく、むしろ彼を正し、良くするための罰だということです。自らの誤謬を理解し認める人はいつでも教会との完全な交わりへと再び受け入れられます


The Ratzinger Report,Ignatius,1985,pp25-26

いつでも教会との完全な交わりに受け入れられるとされる「破門」が、果たして教会からの「永久追放」でありえようか? むしろ「破門」は間違いを犯した者に対する、教会へ再び戻って来て欲しいという愛を込めた叱責だと言えよう。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。

↓ちなみに下は改版の方です。




posted by kanedaitsuki at 12:00| Comment(11) | TrackBack(0) | カトリックのトリセツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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