2008年08月27日

神学大全を日本語で読めるサイト

「存在論日記」の大黒学さんが、ネット上で『神学大全』の全訳を開始している。
http://theologia.jp/
最近まで気づかなかった不明を恥じる。
必要なのに誰もやらないことをするというのは大変なことで尊敬申し上げる。これを機会に研究者たちが、神学の古典の日本語訳をネット上にソースとして置いてくれると大変うれしい。

ところで『神学大全』、読みたいけれども、あんな大部の作品読み通すことなどできないとお思いの方は多いであろう。実はちょっとした裏ワザがあって、それはTimothy Mcdermott ed."SUMMA THEOLOGIAE"(Christian Classics)を読むことだ。これは異論―解答形式を解体して一連の文章のように通読できるものとして、『神学大全』を圧縮要約した本(およそ6分の1)。それでも600ページを超えるが、現物を読むよりはましだろう。
たまに一部分のみを拾い読みする人(私)がいるが、本来はご法度である。というのはアクィナス自身、「初心者がドツボにはまるのは、本が順序良く書かれてないから」と『神学大全』序文で述べている通り、最初から読まないとよく分からない仕組になっているからだ。もちろん、全体の構図が頭に入っていると、より細部を理解しやすくもなる。
通読したことのない私が言うのもなんだが、数ある哲学書の内で『神学大全』はとても読みやすい方だと思う。おそらく分からなさの多くは、キリスト教神学に対するなじみの薄さに原因がある。しかし、そういうとっつきの悪ささえクリアすれば、『形而上学』『純粋理性批判』『精神現象学』『存在と時間』といった難解哲学書よりは、はるかに分かりやすい。しかも哲学的に得るところも大なのだから、そういう方面に興味のある人が読まずにいるのはもったいないことなのだ。
もちろんカトリック教会の教えを包括的に学びたい方にとっても、最適な教科書である。古いから、と心配する必要はない。『神学大全』が呈示した思想は、今もカトリック教会の中に生きている。
そういうわけで、トマス・アクィナスを初めとする中世哲学をもっと身近なものに、と願う(願うだけ)私には、このWeb『神学大全』日本語訳は貴重な贈物なのであった。

(文責・金田一輝)



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2008年08月25日

マリア第五の教義覚書(1)

マリア第五の教義とは、聖処女マリアは「共贖者(Coredemptrix)、すべての恵みの仲介者(Mediatrix of all grace)、神の民の弁護者(Advocate for the People of God)」であるという教義で、仲介者マリアの民衆の声(Vox Populi Mariae Mediatrici)が、このことを教皇が教義決定し宣言するよう請願する運動を行っている。
(以下を参照。
http://www.ewtn.com/library/MARY/MEDIATRI.HTM
http://www.fifthmariandogma.com/index.php?option=com_form&Itemid=602
当初のヨハネ・パウロ2世への請願書とは違い、ベネディクト16世への請願書では「共贖者、全ての恵みの仲介者、弁護者という三つの主要な相の下において、すべての人々の霊的母(the Spiritual Mother of all peoples under its three principal aspects as Co-redemptrix, Mediatrix of all graces, and Advocate)」と、より包括的な表現に変更されていることに注意)
今の所、本格的な論考を書く準備ができていないので、メモ代わりに覚書を認めておく次第。



数々のカトリック系の本を出版している竹下節子は、『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』第五章「ドグマ狂騒曲」でマリアの教義についてとりあげている。もちろん、ぬかりなく第五の教義にも言及している(というより、もっともおいしい話題なのだろう)が、至る所に首をかしげざるをえないような記述が見られる。竹下は新聞記事を元に(!!)「仲介者マリアの民衆の声」運動について記述したうえで、以下のように書いている。

第五の教義論争
 一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている。マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ないからだ。それでもマリア信仰が、聖書、初期教父文書、典礼の伝統に根ざしていることのみは確認されたが、他の議題に関しては常に九〇パーセント内外の圧倒的多数で裁決されていたこの公会議において、マリアの「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号は、二〇〇〇人の投票者のうち五二パーセント以下の同意を得たにとどまった。それを受けて一九六四年一一月二一日に発表された全体の憲章『民の光』の中では、「教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと宣言された。現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている。


『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』、講談社選書メチエ、1998年、p.128

なんとも非論理的(非説得的)な文章である。
まず確認しておくと、竹下は第五の教義を「処女マリアは、共同の贖い主で、すべての恩寵の仲介者で、神の民の弁護人である」(pp.116-117)という教義であると同じ章で明記している。にもかかわらず、まったく脈絡なく「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号の話が出てくる。関連があるとしても、その関連が語られておらず、何のために持ち出したのか、さっぱり分からない。
最後の文「現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている」はまったくチンプンカンプンだ。教会のどこの誰が「パラドクス」を「キリスト教徒の目指すシンボル」だなどと唱えているのか教えて欲しいものである。

「教会の母」云々についてだが、竹下節子は「(マリアは)教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと『民の光』で宣言されたと言っているが、こんな文章は「教会憲章」(Lumen Gentium=『民の光』)の中には存在しない。存在することを証明するのは簡単だが、存在しないことを証明するのは難しい。「教会憲章」のマリアに関する章(52-69)を読んでくれとしか言えないが、さしあたりヨハネ・パウロ2世の言葉を典拠としてあげておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「公会議文書においては、「教会の母」という称号を聖処女に明示的にあててはいない」(1997年9月17日一般謁見講話・1)
この言葉は公会議文書ではなく、第三総会閉会時のパウロ6世のスピーチに出てくる(こちらの30を見よ)。ここでも、前述のヨハネ・パウロ2世の言葉を状況証拠として提出しておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「教皇パウロ6世は第二バチカン公会議自体が、「マリア、教会の母すなわち、信徒であれ聖職者であれ、すべての神の民の母」と宣言することを望んでいたであろう。彼は、1964年11月21日の、公会議第三総会の終わりにおけるスピーチで、自らそれを宣言した。」(1997年9月17日一般謁見講話・5)
竹下節子はおそらく、一次文献である公会議文書を1ページも読むことなく二次文献をまる写ししてしまったのだろう。

さて、最も重要な第一文「一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている」という主張を検討してみよう。まず、そもそもこの文章には主語がなく、いったい何が「退けられている」のかがはっきりは分からないが、とりあえず文脈上「第五の教義」のことだとしておこう。このパラグラフ全体から、竹下節子はマリアの称号として「教会の母」だけが憲章から「退けられ」なかったと考えていることが推測される。この推測は、別の箇所で竹下が以下のように書いていることからも正しいものと裏づけられよう。
「第二ヴァチカン公会議でも、マリアへの言及について司教たちの意見が分かれたとき、パウロ6世の力で、何とか「教会の母」という比喩的で無難な称号を承認させた」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.135)
すでに確認した通り、実際には第二バチカン公会議公文書「教会憲章」では「教会の母」という称号は退けられている(使用されていない)。では逆に、第五の教義で用いられている「共贖者、仲介者、弁護者」はどうだろうか。
結論から言うと、「共贖者(Coredemptrix)」は「退けられている」が、他の二つは使用されている。

マリアは天にあげられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、かえって数々の取り次ぎによって、われわれに永遠の救いのたまものを得させるために続けている。マリアはその母性愛から、まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、危険や困難の中にある兄弟たちが、幸福な祖国に到達するまで、配慮し続ける、このために聖なる処女は、教会において、弁護者(Advocate)、扶助者(Auxiliatrix)、救援者(Adjutrix)、仲介者(Mediatrix)の称号をもって呼び求められている。


Lumen Gentium 62

したがって、第一文を第五の教義に関する「称号」が「退けられている」という意味に解する限り、竹下節子の主張は正しくない。三つのうち二つは第二バチカン公会議公文書「教会憲章」で採用されているからだ。ちなみに件の四つの称号は、『カトリック教会のカテキズム』969において、またヨハネ・パウロ2世の回勅『救い主の母(Redemptris Mater)』40において引用され再確認されており、公会議以降も、教会教導権によって決して退けられていない。
第五の教義の教義決定が退けられたという意味ならば間違いではない(第二バチカン公会議はマリア教義に限らず新たな不可謬宣言を避けていたのだから当たり前)が、パラグラフ全体から見て、竹下はそのような意味では書いていないと思われる。かりにそういう意図だったとしても、誰でもわかるように明示的に説明しておくべきで、いずれにせよ欠陥のある文章だと評価せざるをえない。

総じて竹下節子の記述には、カトリックのマリア論に対する一般的な偏見が反映しているように思われる。第二バチカン公会議が第五の教義を退けた理由として挙げられている「マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ない」という第二文の文言は、その最たるものだろう。
確認した通り、第五の教義に関する称号についてすら、公会議文書に採用されている。そればかりではない。この称号が表す教義内容については、第二バチカン公会議のみならず、教会が繰り返し教えてきたことにほかならないのだ。上述の「教会憲章」の続きを引こう。

しかし、このことは、唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない。
 事実、いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主とけっして同列に置かれてはならない。しかし、キリストの司祭職に聖職者も信者の民も種々の儀式で参与するように、また、神の唯一の善性が被造物に種々の様式で現実に広げられているように、あがない主の唯一の仲介は造られた者が唯一の泉に参与しながら行なう種々の協力を拒絶するものではなく、かえってこれを引き起こすのである。
 教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護にささえられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。


Lumen Gentium 62

この憲章は、一方で、キリストが唯一の神と人との仲介者であり、(マリアも含む)他の被造物はそれと同列に置かれないこと、他方で、この唯一の仲介は、被造物による協力を妨げないことを確認している。このことから分かるのは、マリアは、たしかにキリストと同じ意味で、同じ仕方で「神と人との仲介者」であることはありえないが、救いのわざに従属的に「協力」することで「仲介者」となることはありえるということだ。実際、マリアの仲介なしには、受肉の秘儀はありえなかった。
マリア第五の教義宣言請願運動の支持者も、決してこのような第二バチカン公会議の抑制されたマリア論を逸脱して、マリアを「よりいっそうキリストに似た立場に近づけてしまう」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.131)ことなど意図していない。しかし、そうした事実は、一次文献の確認を怠って書きなぐった、好奇心を満たすだけのスキャンダラスな文章からは決して見えてこないのである。

(文責・金田一輝)



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2008年08月21日

Francis A. Sullivan "The Church We Believe in: One, Holy, Catholic, and Apostolic"

フランシス・A・サリバン『私たちの信じる教会:一、聖、公、使徒継承の』は、斬新且つ緻密且つ非護教的な本を出版しつづけている著者による、現代カトリック教会論を探求した本である。
裏表紙から。


教会論における違いがキリスト教徒の一致を阻害する最も頑強な障害物の内の一つであることが徐々に理解されている一方、ほとんどのキリスト教徒が「一、聖、公、使徒継承の教会」の信仰を告白することに同意しているという事実は、希望の良き基礎である。たしかに、「一なる教会」についての私たちの信仰の間にある矛盾にまじめに直面することは、エキュメニカル運動の主要なモチーフである。
もちろん、キリスト教徒が教会についての信仰告白において同じ語を使用しているという単なる事実は、教会論に関する大きな違いを除去しない。「『教会』と呼ぶ時、何を意味しているのか」「教会を一、聖、公、使徒継承であるということを以下に理解しているのか」と問われた際、実に様々な答えがある。そこで、エキュメニズムの発展には、私たちの告白する信仰の共通理解に達するための努力が必要である。ここでは神学が重要な役割を持つ。なぜなら、神学は「理解を求める信仰」と定義されているからだ。エキュメニカルな対話が最も実りあるものとなるのは、それぞれ異なった神学的伝統に属する人々の側での、共通の信仰として告白している信条のより深い理解を探求するために協力して努力する場合である。深い理解によって、違いにもかかわらず自分たちが一つであるという共通の基礎を得るだろうという希望を持って。
このプロセスにとって決定的な一歩は、キリスト教徒が各自の伝統に照らして、信仰の理解を深め、明らかにしようとすることである。この本の目的はそれだ。ここで探求していることは、ローマ・カトリックの伝統に照らして、教会に関する信仰告白の理解なのである。


フランシス・A・サリバン(イエズス会士)はローマのグレゴリアン大学進学教授である。


第二バチカン公会議がカトリック教会論の新たな地平を創出したというのは事実で、それはとりわけ教会を表現するために「救いの普遍的秘跡」(「教会憲章」48)という語を導入したことに現れている。秘跡という言葉から、秘跡論の文脈での深化を示唆しているだろうし、教会の神秘的性格(sacrament=mystery)の強調ということもあろう。この本で著者は、普遍性(catholicity)が新たな形で表明されているのだと見る。

教会を「救いの普遍的秘跡」と描く時に表現されている普遍性の新たな側面は、全ての救いの恵みが教会へと秩序づけられているだけでなく、いくつかの仕方で教会からまた教会を通して来るということでもある。すべての救いの記しであり道具として、教会は恵みが向けられる単なる目標ではなく、恵みが与えられる経路ないし媒介物である。


"The Church We Believe in",Paulist,1988,p110

してみるとこの新たな普遍性の側面は、救いにおける教会の絶対的必要性をより深く開示したものと受け取られる。ここで問題になるのはもちろん、有名な「教会の外に救いなし」という格言だろう。
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2008年08月20日

井上洋治『キリスト教がよくわかる本』

「キリスト教がこの一冊でよくわかる、というような本」(まえがき)をという要望を受けて書いたとあるが、到底その任を果たしていない。
キリスト教の信仰に関して言うと、キリスト教徒が共同で信ずべきものとして伝えてきた信仰箇条があり、例えば三派が共通して信仰の基準と見なしている「二ケア・コンスタンチノープル信条」に集約されている。こうした信条(クレド)を元にして公的な信仰内容を説明し、その上で必要なら私的意見をそうことわって書くなら問題ないだろう。しかるに井上は「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(同上)と豪語するすぐそばから「やはり私の考え方が、いたるところににじみでてしまっている」(同上)とあらかじめ言い訳めいたことを平気で言う。
「まえがき」から前途多難だが、中身は予想通り、客観的なキリスト教などではぜんぜんなくて、単に井上が個人的に信じたいキリスト教像が描かれているだけである。
まず、井上は信仰内容をいちいち矮小化している。「創造」について、「神さまが天地を創造したというのは、天地自然は、一瞬一瞬神さまの力にささえられて存在しているということ」(p.111)だと記述している。まったくの間違いとは言えないが、これでは肝心要の「神の全能性」「無からの創造」が説明されていない。「聖霊」は「神さまの慈愛の息吹」(p.114)とされ、なぜか芭蕉や西行を持ち出して、「私たち(註・日本人)が「大自然の生命の風」としてとらえた風を、キリスト教では「聖霊」と呼んでいるのだと言ってもよい」(p.117)と説く。言ってもよいかも知れないが、これでは聖霊の神性(非被造性)がまったく分からない。いちおう三一性についての解説もあるが、「三つの存在様態において自己を示される」(p.119)という、よくあるサベリウス的理解(様態論的モナルキア主義)に傾いており、正確ではない(「「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称では」ない(CCC 254))。
キリスト論に至っては矮小化どころではなく、まったくの歪曲である。キリストの復活の客観的事実性はきっぱり否定されている(井上は同様の調子で「処女懐胎」(p.34)、「奇跡」(p.101)、「死者の復活」(p.205)の客観的事実性も否定している)。

「イエスが復活したということは、墓からでてきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界を歩きまわったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、永遠の生命に復活した、よみがえったということなのです」(p.66)

キリストの復活の客観的事実性がキリスト教の信仰箇条であることは、いちいち言うまでもない(例えばCCC 639-646を見よ)。復活の客観的事実性の否定自体も問題だが、その私的見解の立証のために、とんでもなく無理気味の聖書読解をしていることに、非常な知的不誠実を感じる。

「いま『ルカによる福音書』の表現を追ってみましょう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスがあらわれたとき、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちはそんなに恐怖にふるえあがったのでしょうか」(p.67)

この疑問に対する井上洋治先生の解答がすこぶるふるっている。

「弟子たちはイエスの怨霊があらわれたのだと思ったのではないでしょうか。
「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません、一緒に死にます」などと言っていた弟子たちは、いざとなると命が惜しくて完全に師イエスを見殺しにしてしまいました。イエスが十字架を背負って倒れたときも、ただ何処からか見ているだけで手伝いにはでていきませんでした。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死をとげてしまったのでした。さぞかし先生は我々のことを怨みながら死んでいかれたにちがいない、そのような意識にさいなまれて、弟子たちは嫌悪と恐怖の時間をすごしていたにちがいないのです。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していたでしょう。
ところが、この物語の表現によれば、そこにあらわれた師イエスは弟子たちを罰したり怨んだりせず、魚をとって一緒に食事をしたというのです。これは弟子たちを裁かずにゆるしているということです」(p.67)

ここから井上は「裏切った私たちをゆるし、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなす」(p.68)と断言する。
井上によれば「宗教の世界における真実は」「主体的真実を求める」(同上)ものだそうな。それにしてもなんとも胡乱な「主体的真実」であることか。そもそも、井上の記述する弟子たちの心理なるものは全くの憶測でしかない。ルカ伝該当箇所を引こう(フランシスコ会訳)。

「二人が、こう話していると、イエズスご自身が皆のまん中に立ち、「あなたたちに平安があるように」と仰せになった。弟子たちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思った。「なぜおびえているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私自身である。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなたたちが見ているように、わたしにはそれがある」。こう言って、イエズスは手と足をお見せになった。弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っていると、イエズスは、「ここに何か食べる物があるか」と仰せになった。それで焼いた魚の一切れをさしあげると、イエズスはそれを受け取って、皆の前で召し上がった」(ルカ24:36-43)

実際に聖書のこの箇所を読んだ者であれば十中八九「事実として信じるか信じないかはともかく、井上のようには解釈できない」と思うだろう。というのもここでイエスは、弟子の裏切りをゆるしているのではなく、まさに物理的な「復活」を信じないことをとがめているのだからである。マルコ伝にも「その後、イエズスは彼ら十一人が食卓についているところに現われ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活したイエズスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)とある。弟子たちが幽霊を見たと思ったのは、それを「怨霊」(!)と考えたからではなく、イエスの物理的な復活が信じられなかったからだ。それゆえ、明らかにキリスト教信仰の「復活体験の核」は「カメラの写真にそのままうつるかのような」(p.68)復活の客観的な事実性にある。井上はそれを否定するだけでなく、聖書の記述を我流に解釈してそうするのだから始末が悪いというしかない。
おそらくこの本の根本的欠陥は、人類の罪の贖いとしての十字架上の死というキリスト教の中心思想を明確に述べてないことだろう。たしかに井上も原罪の解説の中で「破壊された平和と連帯の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだとパウロはその手紙の中で述べています」(p.145)と、この中心思想に軽く触れてはいるが、まさしく軽く触れているだけなので、不案内な読者なら単にパウロの個人的見解と受け取ってさっさと通り過ぎてしまうだろう。
しかしながら、この「キリストの受難による贖い」という教えが説明されていなければ、受肉の意味も復活の意味も、救いの経綸の中でのそれらの連関も、さっぱり分からなくなる。この本を読んでも、キリスト教は漠然と「隣人愛」を説いた宗教だとしか理解できまい。あるいは「「裁き」ではなく「許し」を」、といった平板極まりない心理カウンセリング本にでもありそうなスローガンしか出てこない。しかし、そうしたものはせいぜい「井上教」とは言えても、決して「キリスト教」ではない。まったく、「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(まえがき)という言葉が泣いている。
余談になるが、「エホバの証人」を正統キリスト教ではないとするのは良しとして、輸血を拒否して死ぬことを個人の信念であり自殺ではないなどとまで述べている(p.190)のは完全に余計である。本の主旨を逸脱している。また、「無教会主義」をご熱心に説明(pp.187-189)する一方、肝心の「教会」についての説明はこれぽちもない。どう考えてもバランスを失している。
そういう次第で、これは「キリスト教がよくわかる本」ではない。むしろ「キリスト教がよくわからなくなる本」と改名すべきである。

(文責・金田一輝)



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2008年08月05日

「破門されたら叙階は無効になる」という異端説

今回はpinpinkorori氏が信じてやまない「破門されたら叙階は無効になる」という異端説にスポットを当てたい。
これが異端説であることは次の教義に反するゆえに、明白である。以下『カトリック教会のカテキズム』邦訳版から引用する。

CCC 1581 叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司・預言者・王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。


CCC 1582 洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできません。

CCC 1583 重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできません。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。

CCC 1584 叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げられることはありません

この「叙階の永遠性」の教義はトリエント公会議の教義決定に基づいている。

叙階の秘跡において、洗礼と堅信におけると同様、消されることも、除去されることもない霊的印章が与えられるのであるから、聖なる公会議は次のように主張する者の意見を排斥する。すなわち、新約の司祭は一時的な権能だけを持つものであり、神のことばの奉仕に従事しない者は合法的に叙階されていても再び一般信徒になることができる。


トリエント公会議第23総会第4章(DS 1767)

「破門されたら叙階は無効になる」というのは、司祭(司教)を「一時的な権能だけを持つもの」と見なすことであり、トリエント公会議によって排斥された考えである。従って異端説である。Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"(TAN)でも、「叙階の秘跡は受領者に霊印を印す」「叙階の秘跡は受領者に永久的な霊的力を伝える」(p457)とあり、どちらも不可謬的教義(de fide)としている。異端は「受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、またはその真理について執拗な疑いを抱くこと」(CCC 2089)であり、教会法によれば「自動破門」を受ける(CIC 1364(1))。

ところでこのpinpinkorori氏が奉じている「破門されたら叙階は無効になる」という異端説から、ドナティストの事例を想起する者もいるだろう。ドナティストは4世紀頃、皇帝の迫害に屈した者たちを「裏切り者」と見なし、彼らの洗礼や叙階を無効と見なした人々である。
『キリスト教史 2』(平凡社ライブラリー)からさわりをご紹介しよう。

ドナトゥス説の出発点はごく限られたものであったが、その結果はメレティオスの離教よりはるかに重大であった。今度は離教者(ラプシ lapsi)の問題ではなく、ただ、ディオクレティアヌス帝の第一勅令のよって命令された<引渡し>(トラディティオ traditio)に同意し、教会の家宅捜索に来た行政官に聖書を「引き渡した者」、信仰を「裏切った者」(二重の意味のトラディトーレス traditores)として告発された司教たちの運命に関することであった。すでに三〇五年三月五日にキルタで開かれたヌミディアの教会会議は、アフリカの司教たちがいかに熱狂的に相互に放逐し合っていたかを示している(良くあるように、他人を最も熱心に告発する者が、かならずしも非難すべき点のない人間とは限らない。
すべて事件の出発点は、三一二年、カルタゴの司教に、カエキリアヌス助祭長(Caecilianusu 三四二年頃没)が選ばれた時の選挙にあった。これはヌミディア司教団によって支持されている、より厳格主義の傾向をもつその土地の一派の反対をかき立てた。この反対派は、先の叙階で働いた三名の司教の一人アプトゥンギのフェリックス(Felix)が、<引き渡し>の罪人と考えられることで、きわめて丹念なやり方をもってカエキリアヌスの司教叙階の有効性に抗議をしたのである。カエキリアヌスに対抗して別の司教が選ばれた。やがてこの司教を継ぐのが、その初任地カサエ・ニグラエ司教座から移された大ドナトゥス(Donatus 三五五年没)である。彼は精力的で強い影響力をもつ人物で、歴史がその名を冠した<離教教会>の真の組織者だった。
ドナトゥス派は実際に、<引渡し>の罪を非常に重大視したため、この有罪人の一人と交わりを結んでいるという一事で(時がたつにつれ、かつてこうした有罪人と交わったことのある人物の後継者と交わったという一事でさえも)十分に同じ汚名を着せ、今度はその人物を<裏切り者>(トラディトル traditor)、背教者としてキリスト教徒の名に値しないものとすることができるのである。この<裏切り者たち>(トラディトーレス traditores)から授けられ、あるいは受けた一切の秘跡は無効とみなされた。ドナトゥス派は、自発的であれ強制的であれ、自分たちの列に参加してきたカトリック教徒に再洗礼を施した。


上智大学中世思想研究所編訳/監修『キリスト教史 2』、平凡社ライブラリー、1996年(原書1963年)、pp60-62

つまり、一度有効に叙階された者も、迫害に屈服し背教した者は、神に対する裏切り者だから、彼らによる秘跡は無効になる、とドナティストは考えたようである。
この考えは次のpinpinkorori氏の極めて感情的な反発と共鳴している。
http://defencecatho.seesaa.net/article/103704778.html

教皇に反抗した行為が有効などと思うほうが異常な感覚なのです。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月28日 07:31


「裏切り者(背教者)による秘跡は無効である」とするドナティストがどうなったかはみな承知のことであろう。アウグスティヌスが論陣を張って彼らに反駁し、アルル教会会議(314年)によって彼らの説は異端として排斥された。秘跡の有効性に関する事効説(ex opere operato)の原則はまさにこのことによって確立したのである(同上p66参照)。その不可謬決定はトリエント公会議まで待たなければならないが。
お分かりの通り、「教皇に反抗した行為が有効などと思う」のはぜんぜん「異常な感覚」ではない。まったく逆である。むしろpinpinkorori氏のように、「教皇に反抗した行為」によって「叙階が無効になる」などと思う方が「異常な感覚」なのだ。教会の不可謬的教義に反するがゆえにである。

(文責・金田一輝)




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2008年08月02日

秘跡の有効性の条件について

今回は少々マニアックな話である。

pinpinkorori氏は当ブログコメント欄で以下のように述べている。
http://defencecatho.seesaa.net/article/102215744.html#comment

「叙階は違法であるが有効である。」
以上の理解ですと秘跡の次元では彼らは教会内部ですか?私は、1988.6.30の聖別の「瞬間」の破門通達の事実から(破門宣告7.1の前でした)有効でなくそのため
ex opere operato(秘跡の事効的効力)「なされた行為そのものによる効力」は、瞬間で不完全でありなされていないと解釈していました。
したがって破門された瞬間に ex opere operantis(人効的効力)「行為する人の人格によって効力がある」となって、lefebvreは破門者で人格がないから秘跡は無効であると20年以上理解してきました。lefebvre自身そう自覚して無効と思っていたと思います。いかがでしょう?。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月08日 23:12

冒頭の6.30の「瞬間」の破門通達云々は、おそらくpinpinkorori氏が「自動破門」をよく理解していないための混乱であり、ここでは扱わない。
(詳しくは以下を参照。
「犯罪の前に刑罰が下るという怪奇」
http://defencecatho.seesaa.net/article/103978764.html
目を引くのはここでpinpinkorori氏が唐突に事効的効力という概念を持ち出していることで、よほど知っていることがうれしいのか、その後もこの語を何度か大した必然性もなしに持ち出している。しかし、正直言って、何のためにこの用語を持ち出しているのか、ぜんぜんぴんとこない。おそらく、使っている本人自身この用語の意味をあまり正確には理解してないのだろうと推察する。
「事効的効力」とは「行われた秘跡の儀式によって、秘跡は常に恩恵を与える」ということを意味する("Pocket Catholic Dictionary"'EX OPERE OPERATO'(Doubleday))。「秘跡の恩恵を決定するのは秘跡を授ける者や受ける者の徳ではない」(ibid.)。「真の意味で、秘跡は恩恵の道具因である」(ibid.)。それゆえ、「事効的効力」に関して問題となるのは秘跡が正しく行われたかどうかであって、その執行者が破門されたか否かではない
pinpikorori氏は上記コメントにおいて、破門された瞬間に「人効的効力」となった、と言っているがこれもまったく意味不明である。「lefebvreは破門者で人格がない」というのもひどい話で、破門されても人格を喪失するなどということはない。もし、本当に人格が失われるのならば、被破門者は罪を悔いる機会も奪われるし、かりに死刑にされても文句は言えないはずである。「第二バチカン公会議が懲罰を捨てた」と主張している当人にしては、あまりに厳しい厳罰主義である
「人効的効力」は、「事効的効力」と対になった概念であり、「主に秘跡を受領する者の善き性向(good disposition)に適用される」("Pocket Catholic Dictionary"'EX OPERE OPERANTIS'(Doubleday))。pinpinkorori氏は、破門によって「事効的効力」が「人効的効力」に転換するという、今まで誰も見たことも聞いたこともない摩訶不思議な理論を繰り出しているが、こんな教えはカトリック教会には存在しない。というのは、「事効的効力」と「人効的効力」は対概念ではあるが、必ずしも常に背反的なわけではないからだ。

よくある曲解や非難に対して、強調されねばならない教会の教えは、事効的な秘跡の効果を機械的ないし魔術的効果と解釈しては決してならないということである。人効的効力は排除されていない(The opus operantis is not excluded.)。反対に、成人の受領者の場合は明白に要求されることである。それにもかかわらず、受領者の主観的性向は恩恵の原因ではない。それは単に、恩恵が伝わる際の不可欠な条件に過ぎない。


Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"TAN,1955,p330

つまり、事効的効力なしには有効な秘跡は成立しないが、その際人効的効力がぜんぜん無関係であるということでもないのである。
20年もの間本人以外にはまったく意味不明の考えpinpinkorori氏はよくも抱き続けたものであると感心する。

さて、秘跡が有効であるためには質料(matter)、形相(form)、意向(intention)の三つの条件が必要である。

すべての秘跡は三つの要素によって完成する。質料としての物。形相としての言葉。教会が行うことを行うという意向を持って秘跡を授ける人。これらの要素の一つでも欠ければ、秘跡は効力を持たない。


Exsultae Deo(アルメニア人合同の大勅書)(DS 1312)

叙階の秘跡で言えば、質料は司教による「按手」であり、形相は叙階の際の秘跡書に従った言葉である。
三要素の内、残りの意向は少々理解しがたく、拡大解釈をする者が多々見られる。「異端者や離教者の叙階は、彼らが教会の信仰に逆らっているがゆえに、教会の意向に反している、だから無効である」と誤謬推論する人があとを絶たない。
詳しい説明は専門家にまかせるが、まず理解しておくべきことは、「質料」と「形相」が揃っていれば、通常「意向」もあると仮定されるということである。

意向は本来内的なものであって、教会はそれについて判断をくださないが、それが外部に現れる時、それを判断しなければならない。秘跡を挙行し、これを授ける場合、正当な質料と形相とを慎重に正しく使用することによって、教会が行うことを行おうという意向があると考えられる。この原則から、異端者あるいは非受洗者によって授けられた場合でも、カトリック教会の儀式によって授けられたものであれば、真の秘跡であるという教理がある。


Apostolicae curae et caritatis(英国国教会の叙階の無効性)(DS 3318)

これで分かる通り、秘跡執行者の思想が何であるかは、秘跡の有効性に必要とされる「意向」には直接は関係がない(お分かりの通り、人効的効力で言うところの「主観的性向」(subjective disposition)とも混同できない)。
これは極端な例を見てみれば理解できる。例えば、洗礼において授与者が、洗礼は霊魂に何の効果も与えないと表明した場合(メソジスト派)でも、その洗礼は有効である(DS 3100-3102)。

トレント公会議は、規定第11条全体で、秘跡の目的を述べてもいないし、秘跡授与者は教会が意図することを意向せねばならないとも言わないで、ただ、教会が行うことを行えと言っているのである。さらに、教会が行うこととは、目的ではなく、行為を意味しているのである。……このことから、イノケンチウス4世が『洗礼について』の第2章、第9項で述べているように、浸水によって人を濡らすだけであると信じているが、洗礼を授けるほかの人々が行う通りに自分も行うという意向をもっているサラセン人によって授けられた洗礼は有効である」。


中部太平洋代表教区長にあてた検邪聖省の解答(DS 3102)

それゆえ、ルフェーブルが教皇に従わなかったという事実は、たしかに違法であり、離教行為だが、そのことは秘跡の有効性に必要な「意向」の要素を喪失させない。ルフェーブルは有効な叙階の秘跡に関して、教会が行うことを行っているからである。
ルフェーブルは有効に叙階された司教であり(もちろん破門によってもその叙階は無効にならない)、教会の秘跡書に従って行ったから、質料も形相も意向も揃っている。従って、ルフェーブルによる司教聖別は、正しく儀式が行われたがゆえに、まさしく「事効的に」有効なのである。

(註・DSはデンツィンガー・シェーンメッツァー資料集の略称。カトリック教会の信経および信仰と道徳に関する重要な文章を収録している。エンデルレ書店から邦訳されている。)

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 23:00| Comment(11) | TrackBack(0) | 神学・教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月01日

犯罪の前に刑罰が下るという怪奇

pinpinkorori氏の、ルフェーブル一派への破門に関する次の論は、もはや盲説の域を超えてオカルトの域に達している。
http://defencecatho.seesaa.net/article/103704778.html

はっきりしているのは前教皇は司教叙階を阻止するために破門としたので、それを有効とすることは前教皇の意思に反するということです。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月28日 22:23


(2008/08/06註・
「司教叙階を阻止するために破門? 何それ。
破門したのは司教叙階の後ですよ。まあ、自動破門の場合は、司教叙階の瞬間と言えますが、いずれにせよ、犯罪行為の前ではない。」
以下は、上記の私のコメントに対するレスである)



金田さんのその性急な独断は相手にされない。(一言居士で相手を必要としない議論のようですが)
犯罪行為の前といってもよい。車で式場に行けない配慮までしていたのですから。
司教叙階を阻止するための破門でした。これは別に私個人の意見ではありませんし馬鹿みたいに当たり前の話です。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月29日 22:23

pinpinkorori氏の住んでいる世界ではどうやら時空が曲がっているらしい。もちろん、犯罪事実なしには、それに対する刑罰は成立しない。すなわち、時間的に犯罪事実以前に、刑罰が下ることなどあるわけがない。
ルフェーブル一派に対する破門宣告は、1988年6月30日の違法の司教聖別の翌日7月1日に司教省長官名で布告されている。
http://www.cin.org/users/james/files/l-excomm.htm

ルフェーブルは、去る6月17日の公式の教会法的警告と計画を取り下げるようにと繰り返した訴えにもかかわらず、教皇の指令なく、また教皇の意志に反して、四人の司祭を司教聖別するという離教行為を実行した。その結果、ルフェーブルは...教会法1364の1及び1382に基づいた罰を受けた。
すべての裁治上の効力を斟酌した上で私は宣言する。...(ルフェーブルと4人の司教たち)は(犯罪行為の)事実そのものによって使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けた。


DECREE OF EXCOMUNICATION

適用されている教会法は以下の通り。

カノン1364(1) 信仰の背教者、異端者及び離教者は、伴事的破門制裁を受ける。ただし、第194条第1項第2号の規定を順守しなければならない。かつまた、聖職者については、第1336条第1項第1号、第2号及び第3号所定の刑罰によって処罰することができる。


カノン1382 教皇の指令なしに、司教叙階を行う司教、かつ、その司教から司教叙階を受ける者は、使徒座に留保された伴事的破門制裁を受ける。

注意しなければならないのは、カノン1364(1)もカノン1382も「伴事的破門」いわゆる「自動破門」であるということだ。「伴事的」と邦訳されているように、これは「事に伴って」、つまり、「犯罪事実そのものによって(ipso facto)」下る刑罰である。
(詳しくは以下を参照乞。
http://defencecatho.seesaa.net/article/88364180.html
これから分かる通り、犯罪事実が存在しなければ伴事的刑罰は決して発生しない。法理上は犯罪事実の瞬間に下ると考えられるが、実際厳密にどの時点でかをここで詮索する必要はない。いずれにせよ、自動破門が犯罪事実以前に下ることは絶対にありえない。これは「馬鹿みたいに当たり前の話」だ。

pinpinkorori氏の主張があまりにオカルトチックで怖いので、少々考えて見たが、あるいは「破門警告」と「破門宣告」を混同しているのかも知れない。
「破門警告」なら、犯罪の前に行われている。なるほどこれは「司教叙階を阻止するため」だったと言える。実際、「DECREE OF EXCOMUNICATION」でも自発教令「ecclesia dei」でも、1988年6月17日に公式の教会法上の破門警告があったと記されている。
他の見方もできよう。pinpinkorori氏教会の公式見解に逆らって、「聖ピオ十世会の叙階は無効」だと主張している。また、それに関連して、教会の不可謬的教義を否定して、「破門されれば叙階は無効になる」という異端説を奉じている。
pinpinkorori氏にとってはこの思い込みが本当であるために、ぜひとも犯罪事実の前に破門が下ってないといけないようなのだ。pinpinkorori氏の頭の中にある妄想論理を推測するとこうだろう。

大前提:「破門されればルフェーブルの叙階は無効」
小前提:「教皇は司教聖別の前にルフェーブルを破門した」
結 論:「ルフェーブルによる司教聖別は無効」

たしかにこの妄想論理に従うなら、破門は司教聖別の前でなくてはならない。なぜなら、その後に破門したとしても、ルフェーブルの叙階がまだ無効になっていない時点で行われたので、司教聖別自体は有効だということになるからだ。もちろん、これは完全に狂った理屈だ。
それにしても、凡人は正しい前提から誤謬推論によって間違った結論を導き出すものだが、pinpinkorori氏の場合、前提から何からすべて間違いなのだからもの凄い。間違うことについての天才だ。もちろん、こんな「独断は相手にされない」。
pinpinkorori氏は「個人的意見ではない」という。では他に誰がこのような主張を支持しているのか、具体的にソースを挙げて欲しいものである。あるいは、それは、単なる妄想の中のお友達かも知れないが(怖い怖い)。
そもそもpinpinkorori氏の主張によれば、「第二バチカン公会議によってカトリックは懲罰を捨てた」(http://defencecatho.seesaa.net/article/103914995.html
はずなのに、なぜ教皇は懲戒罰である破門をルフェーブルに下すことができたのだろうか? 謎である。

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 神学・教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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