2008年08月05日

「破門されたら叙階は無効になる」という異端説

今回はpinpinkorori氏が信じてやまない「破門されたら叙階は無効になる」という異端説にスポットを当てたい。
これが異端説であることは次の教義に反するゆえに、明白である。以下『カトリック教会のカテキズム』邦訳版から引用する。

CCC 1581 叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司・預言者・王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。


CCC 1582 洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできません。

CCC 1583 重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできません。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。

CCC 1584 叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げられることはありません

この「叙階の永遠性」の教義はトリエント公会議の教義決定に基づいている。

叙階の秘跡において、洗礼と堅信におけると同様、消されることも、除去されることもない霊的印章が与えられるのであるから、聖なる公会議は次のように主張する者の意見を排斥する。すなわち、新約の司祭は一時的な権能だけを持つものであり、神のことばの奉仕に従事しない者は合法的に叙階されていても再び一般信徒になることができる。


トリエント公会議第23総会第4章(DS 1767)

「破門されたら叙階は無効になる」というのは、司祭(司教)を「一時的な権能だけを持つもの」と見なすことであり、トリエント公会議によって排斥された考えである。従って異端説である。Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"(TAN)でも、「叙階の秘跡は受領者に霊印を印す」「叙階の秘跡は受領者に永久的な霊的力を伝える」(p457)とあり、どちらも不可謬的教義(de fide)としている。異端は「受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、またはその真理について執拗な疑いを抱くこと」(CCC 2089)であり、教会法によれば「自動破門」を受ける(CIC 1364(1))。

ところでこのpinpinkorori氏が奉じている「破門されたら叙階は無効になる」という異端説から、ドナティストの事例を想起する者もいるだろう。ドナティストは4世紀頃、皇帝の迫害に屈した者たちを「裏切り者」と見なし、彼らの洗礼や叙階を無効と見なした人々である。
『キリスト教史 2』(平凡社ライブラリー)からさわりをご紹介しよう。

ドナトゥス説の出発点はごく限られたものであったが、その結果はメレティオスの離教よりはるかに重大であった。今度は離教者(ラプシ lapsi)の問題ではなく、ただ、ディオクレティアヌス帝の第一勅令のよって命令された<引渡し>(トラディティオ traditio)に同意し、教会の家宅捜索に来た行政官に聖書を「引き渡した者」、信仰を「裏切った者」(二重の意味のトラディトーレス traditores)として告発された司教たちの運命に関することであった。すでに三〇五年三月五日にキルタで開かれたヌミディアの教会会議は、アフリカの司教たちがいかに熱狂的に相互に放逐し合っていたかを示している(良くあるように、他人を最も熱心に告発する者が、かならずしも非難すべき点のない人間とは限らない。
すべて事件の出発点は、三一二年、カルタゴの司教に、カエキリアヌス助祭長(Caecilianusu 三四二年頃没)が選ばれた時の選挙にあった。これはヌミディア司教団によって支持されている、より厳格主義の傾向をもつその土地の一派の反対をかき立てた。この反対派は、先の叙階で働いた三名の司教の一人アプトゥンギのフェリックス(Felix)が、<引き渡し>の罪人と考えられることで、きわめて丹念なやり方をもってカエキリアヌスの司教叙階の有効性に抗議をしたのである。カエキリアヌスに対抗して別の司教が選ばれた。やがてこの司教を継ぐのが、その初任地カサエ・ニグラエ司教座から移された大ドナトゥス(Donatus 三五五年没)である。彼は精力的で強い影響力をもつ人物で、歴史がその名を冠した<離教教会>の真の組織者だった。
ドナトゥス派は実際に、<引渡し>の罪を非常に重大視したため、この有罪人の一人と交わりを結んでいるという一事で(時がたつにつれ、かつてこうした有罪人と交わったことのある人物の後継者と交わったという一事でさえも)十分に同じ汚名を着せ、今度はその人物を<裏切り者>(トラディトル traditor)、背教者としてキリスト教徒の名に値しないものとすることができるのである。この<裏切り者たち>(トラディトーレス traditores)から授けられ、あるいは受けた一切の秘跡は無効とみなされた。ドナトゥス派は、自発的であれ強制的であれ、自分たちの列に参加してきたカトリック教徒に再洗礼を施した。


上智大学中世思想研究所編訳/監修『キリスト教史 2』、平凡社ライブラリー、1996年(原書1963年)、pp60-62

つまり、一度有効に叙階された者も、迫害に屈服し背教した者は、神に対する裏切り者だから、彼らによる秘跡は無効になる、とドナティストは考えたようである。
この考えは次のpinpinkorori氏の極めて感情的な反発と共鳴している。
http://defencecatho.seesaa.net/article/103704778.html

教皇に反抗した行為が有効などと思うほうが異常な感覚なのです。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月28日 07:31


「裏切り者(背教者)による秘跡は無効である」とするドナティストがどうなったかはみな承知のことであろう。アウグスティヌスが論陣を張って彼らに反駁し、アルル教会会議(314年)によって彼らの説は異端として排斥された。秘跡の有効性に関する事効説(ex opere operato)の原則はまさにこのことによって確立したのである(同上p66参照)。その不可謬決定はトリエント公会議まで待たなければならないが。
お分かりの通り、「教皇に反抗した行為が有効などと思う」のはぜんぜん「異常な感覚」ではない。まったく逆である。むしろpinpinkorori氏のように、「教皇に反抗した行為」によって「叙階が無効になる」などと思う方が「異常な感覚」なのだ。教会の不可謬的教義に反するがゆえにである。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 12:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 神学・教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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