http://malicieuse.exblog.jp/9492726/
ここでは、肝心の部分を以下の記事を元に、ご紹介しよう。
http://www.zenit.org/article-23604?l=english
http://www.zenit.org/article-18792?l=french
質問 フランスでは、「スンモールム・ポンティフィクゥム」は第二バチカン公会議の意向からの後退を指図していると恐れる人たちがいますが?
ベネディクト16世 それは根拠のない恐れです。なぜなら、自発教令「スンモールム・ポンティフィクゥム」は単に、古い典礼において形成され、この典礼を愛し、熟知し、それと共に生きたいと思っている人々のための司牧的目的を持った、寛容の行為だからです。それは小さなグループです。というのも、ラテン語の形式、特定の文化における形式を前提にしているからです。しかし、これらの人々に愛を持ち、古い典礼と共に生きることを許す寛容性を持つことは、私たちの教会の司教たちの、信仰と司牧の当たり前の要求だと思います。第二バチカン公会議によって刷新された典礼とこの古い典礼との間にどんな対立もありません。
毎日、公会議の司教たちは古い司式に従ったミサを挙げました。と同時に、彼らは、今世紀における典礼の自然な発展を確信していました。というのも、典礼は生きた現実であり、自ら発展し、発展の中で自らの同一性を保持してきたからです。したがって、強調点の違いはありますが根本的な同一性があり、改革された典礼と以前の典礼との間の矛盾や対立を排除しています。両者は相互に強めあう可能性もあるでしょう。古い典礼を愛する側は、新しい聖性、典礼の新たな面を知りえますし、知らなければなりません。他方、新しい典礼は、共同の参加をより強調していますが、それは単に、一定の共同体の集まりなのではなく、全時代の全信徒との交わりの中にある、普遍的な教会の行為であり、礼拝行為なのです。
この意味で、相互強化があるように思いますし、刷新された典礼が私たちの時代の通常の典礼であることは明白です。
一部のピオシンパのような伝統原理主義派の中には、典礼刷新そのもの、第二バチカン公会議そのものの否定を夢見て、自発教令「スンモールム・ポンティフィクゥム」を、公会議前への回帰の前哨と位置づける者もいる。しかし、それはまったく根拠のない主張であり、この記事に限らず教皇の常日頃の意向に反している。そもそも自発教令自体、第一項で「パウロ六世が発布したローマ・ミサ典礼書はラテン典礼のカトリック教会の「祈りの法(Lex orandi)」の通常の表現」「これに対して、聖ピオ五世が発布し、福者ヨハネ二十三世があらためて発布したローマ・ミサ典礼書は、同じ「祈りの法」の特別な表現」と明確に規定している。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message243.htm
自発教令とともに出された全世界の司教への手紙でも、同じことがより詳細に述べられている。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/benedict_xvi/bene_message242.htm
この文書は第二バチカン公会議の権威を損なうのではないか、すなわち、第二バチカン公会議の根本的な決定の一つである典礼改革を疑問視するものではないかという不安があります。この不安は根拠のないものです。この点に関して、第一にこういわなければなりません。すなわち、パウロ六世が発布し、その後ヨハネ・パウロ二世が二つの版で改訂したミサ典礼書が、感謝の祭儀の「通常の形式(Forma ordinaria)」であり、今後もそうであり続けることは明らかです。これに対して、教皇ヨハネ二十三世の権威のもとで1962年に公布され、公会議中も使用された、公会議前のローマ・ミサ典礼書の最終版は、典礼の「特別な形式(Forma extraordinaria)」として用いることが可能です。ローマ・ミサ典礼書のこの二種類の版があたかも「二つの典礼」であるかのようにいうのは適切ではありません。むしろそれは、唯一かつ同一の典礼の二通りの使用だというべきものです。
これを読むと、上述の教皇の回答が、「スンモールム・ポンティフィクゥム」で提示した考えの延長上にあることが分かる。すなわち、旧典礼と新典礼は根本的に同一であり、後者は前者の自然な発展であり、それゆえ、新典礼はこんにちにおけるミサの「通常形式」である、という意向において、教皇ベネディクト16世にゆるぎはない。
逸脱の見られる現行の典礼状況をどう正常化するかは、また別の問題である。ピオシンパのような一部の伝統原理主義者は、現実に存在する問題に対して、第二バチカン公会議と典礼改革の否定という、間違った処方箋を出しているに過ぎない。
(文責・金田一輝)


