2008年07月30日

トマス・アクィナスですがなにか? article.1 異端とかそういう類の人の叙階って有効なの?

チャオ!
トマス・アクィナスだよ。周りの人たちには「アッキーナ」って愛称で呼ばれてるから、みんなも街で見かけたら気軽に「アッキーナ!」って声をかけてね。
今日からはじまったこの「トマス・アクィナスですがなにか?」は、みんなの素朴な疑問に、天使みたいなドクターこと、このアッキーナが、どんどんお答えしちゃう、そんなコーナーだよ。
じゃあ、まず最初のメールから、えっとなになに「異端とかで教会から離れちゃった司教が叙階することがあるけど、あれって有効なの? ペンネーム・牛男爵さん」。ふむふむ。こういう疑問って確かにあるよねー。じゃあ、さくっと答えちゃおうかな。
まずそうだね、だいたいこれについては四つくらいの種類の考えがあるんだよね。まず一つ目は、「異端でも教会にとどまっている内は叙階の力はあるけど、教会から離れた途端、力がなくなる」って考え。でも、こんなのありっこないんだよね。聖別された時の力って、聖別された物が残っている限りは、無くならないんだもん。祭壇だってそうでしょ。だから、叙階されたら一生叙階されっぱなしなの。その人が罪を犯そうが教会から離れようが信仰を捨てようがね。
で、二つ目は、「教会から離れた司教には確かに叙階する力はあるけど、その司教に司教聖別された人にはその力がない」っての。ちょー受けるんですけど。教会で叙階された人に叙階や司教聖別の力が伝わっているなら、その人がその力を使って叙階した人にも、それとおんなじ力が伝わってるに決まってるじゃん。
三つ目は逆の極端ね。「異端とかで教会を離れた司教に、教会にいた時に伝えられた力が残っているのだから、司教は秘跡を与える力があるとともに、恩恵も与えることができる」。残念! 古いか。異端で教会を離れた司教や司祭から秘跡を受けるって罪だよね。罪ってことはふさしくない状態で秘跡を受けたことになるよね。そう、そういうこと。そういう場合は恩恵は受けられないんだったよね。まあ、緊急時の洗礼とかは別だけど。
四つ目はこう。「異端とかで教会を離れた司教による秘跡はたしかに有効だが、恩恵は与えない」。これが正解。
みんな、分かったかな? 巷では「破門されたら叙階は無効」とか言ってる変なおじさんがいるみたいだけど、みんなだまされないように気をつけてね。
じゃあ、今日はここまで。また次回。
アリヴェデルチ!

*当記事はSumma Theologica Suppl.Q.38 A.2を元に、私が編集・構成したものです。文章の責任はすべて私、金田一輝にあります。

(文責・金田一輝)





この記事へのコメント
これは楽しいコーナーですね。
On the contrary云々なんて堅い文章読まなくても、アッキーナが要点がすっと飲み込めるように教えてくれるから楽チンです。第二弾に続くのをわくわくして待っています。
Posted by angelic feline at 2008年07月30日 11:41
師匠お久しゅう。ワロタ。

アッキーナ様>
ええと、スレ・・いや、エントリ内容と関係ないんだけど、トンンマーゾ・アッキーナ?
・・・出身地名を愛称にするってぇのはなんか変じゃないか?トマシー君てば。どうなん?

某伝統原理主義結社への対抗言論だけでなく、カト批判によくありがちなシロモノもアッキーナ様にやって欲しいです。
つーか、結社のはもういいやっていうか。付きあうだけエネルギーの無駄な気がするよ。アッキーナ様の賜物は有効利用して欲しい気ガス。
Posted by あんとに庵 at 2008年07月30日 14:00
あ、あんとに庵さんだ。
アイドル評論家だからこその命名だから、アッキーナのほうが、ここのブログ主らしくて良いですよ。
またいくら金田さんでも、仮想敵とは戦いづらいでしょうから、ピチピチはねてるくらいの生きたアンチカトリックをさがしてあげないと、そっち方面には発展しにくかも。
Posted by angelic feline at 2008年07月30日 15:08
angelic felineさん、コメントありがとうございます。

>On the contrary云々なんて堅い文章読まなくても、アッキーナが要点がすっと飲み込めるように教えてくれるから楽チンです。第二弾に続くのをわくわくして待っています。

Summa Theologicaの破門や叙階に関する箇所を読んでいて、それ自体面白くて紹介しようと思っていたのですが、夜中にふと「チャオ!」という挨拶言葉が思い浮かんで、あとは一気に内容・構成が書く前に固まりました。
まあ、私は見切り発車で終わることも多い(「斜め読み神学大全」とか(汗))のですが、こちらはいちおうフォーマットは決まっているので、ネタがあれば書けるとは思います。ただ、内容をちゃんと咀嚼しなくてはならないので、そんなに簡単な作業ではないです。
気長にお待ちください。
Posted by kanedaitsuki at 2008年07月30日 17:42
あんとに庵さん、コメントありがとうございます。

>ええと、スレ・・いや、エントリ内容と関係ないんだけど、トンンマーゾ・アッキーナ?
>・・・出身地名を愛称にするってぇのはなんか変じゃないか?トマシー君てば。どうなん?

それより気になっているのが、本家アッキーナの南明奈の方がどれくらい持つか。あんまりメジャー感がないからなあ。

>某伝統原理主義結社への対抗言論だけでなく、カト批判によくありがちなシロモノもアッキーナ様にやって欲しいです。

まあ、ネタは豊富にあるのでそのうち。

>つーか、結社のはもういいやっていうか。付きあうだけエネルギーの無駄な気がするよ。

伝統原理主義の問題については、私より知識と能力のある人がいくらでもいるでしょうから、そういう方が現れて、私のやってることをやってくれたら、いつでも手を引くつもりです。
しかし、今のところ日本語圏で、この問題についてこれほど集中的組織的にやっている人は私しかいません。一度手をつけた以上は責任がありますから、私個人の意志ではやめられないです。
Posted by kanedaitsuki at 2008年07月30日 17:52
>本家アッキーナの南明奈の方

つーか、知らないし。笑)
ぐぐっちゃいました。ネタありだったのね。アッキーだと元ファーストレディを連想しますよ・・・というネタははてなの方のネタだな。

>まあ、ネタは豊富にあるのでそのうち。

個人的にはそっち読みたいなぁ。でもまぁ元ネタの唖牛親父はカトリックの伝統的原則に攻撃を加えるものに対する鉄壁の対抗言論としてのスンマだから、師匠の方向性は聖なる親父の意志と同調はしてるといえばしてるか。

>私個人の意志ではやめられないです。

あああ。どんな啓示が下ってしまったんだ?師匠の守護聖人はトンマシーだったのか。まぁ、師匠ほどオタク的(<褒め言葉ね)に探求出来る脳力のある人は実はいないと思うよ。

ただ、ギョーカイ内のプロなんかだと、そういう能力を別のところに注いでる人の方が多いんではないか?そこだけに向くわけにはいかんだろうとおもわれなのです。だから市井の人で元文献読めるような人がやればいいとは思うんだけどね。

んでも、わたしはやらないです。元文献なんぞ読めんし、言論の人じゃないんで、ロジカル探究にすこぶる厭きやすい性格なんで。

たしかにおっしゃる通り、論として一応対抗的な落とし前つけとく必要はあるか。ただ既に要点は繰り返しになっている感が否めないかな?尤も、それが通じてないのが問題なんだろうけんど。まず結論ありきだから、永遠に通じなさそう。

落とし所の目標はどの辺りで考えてるんで?
Posted by あんとに庵 at 2008年07月30日 19:50
>尤も、それが通じてないのが問題

あ。これ今行われている別エントリの議論とは関係ないからね。実は師匠にゃぁ悪いんだけど、某結社に興味失せてたんで前エントリまで読んでなかったんだな。アッキーナちゃんが出てきたから来た。笑)
このエントリの前のエントリも今迄の総括というか結論のまとめになってるんで。繰り返してんなという感想。

んで、新しい論客さんがいるからだったのかと今、納得した。

ただ、pinpinkororiさんのコメ、気持ち判らなくもないトコはあるかな?全議論を読んでないんだが、なんつーかカトリックって矛盾すら包括してしまう軟体細胞みたいな組織だったりもするからなぁ・・・。ただ、師匠の方法論はその視点で観ちゃうと理解出来ないと思う。だからズレが生じてるようで。
Posted by あんとに庵 at 2008年07月30日 21:37
伝統原理主義の問題については、私より知識と能力のある人がいくらでもいるでしょうから、そういう方が現れて、私のやってることをやってくれたら、いつでも手を引くつもりです。
しかし、今のところ日本語圏で、この問題についてこれほど集中的組織的にやっている人は私しかいません。

どうも金田さんは、失礼かもしれませんが井の中の蛙ではないでしょうか。いくらでもいます。ただインターネットの世界にでないだけです。
聖トマスの神学大全はドミニコ会では全員読みますし、読まないと誓願もできないし叙階まで進みません。ヘブライ語もギリシャ語も必要です。I修道司祭が有名です。若手研究者もいます。「伝統原理主義の問題」が何を指すのか不明ですが学会名簿で専門家をご紹介しましょうか?
少しいやみかもしれないのでここでは金田さんの大義名分のうぬぼれ?を冷やすしかないですね。
Posted by pinpinkorori at 2008年07月30日 22:25
されど天の高さ(深さ)を知る

どこかの誰かさんの支離滅裂で意味不明な文章と違い、
金田氏の見識の深さにはいつも脱帽です。
おバカな私には、非常に分かりやすい。

ところでその井の中の蛙にすらなれないどこかの誰かさんは、
神学云々言う前にカトリック要理を一から学んだ方がいいかもね。

自分は大海は知ってるからと飛び込んだら溺れちゃった・・・って
事になるからね。(笑)
知ってるつもり、分かってるつもり、否、否、知ったかぶりは、
あなたの救霊すら怪しくする。

あっ、ただの独り言です。気になさらずに。
Posted by メロン at 2008年07月31日 01:33
1)聖トマスの経験しなかったルフェ―ブル破門事件に聖トマスの教義を先験的に当てはめることが、本当に妥当なことなのかがまず問われるのではないでしょうか。
2)ルフェ―ブル破門事件自体が、聖トマスの教義を超えてしまっていないか。もし超えているとすると聖トマスをあてはめることは範疇エラーとなるのではないか。
こういうところからふつう出発するのですが。
しかし金田さんは当てはまっていればそれでよいぐらいの無邪気な水準のようですので何を言っても無用でしょう。(見事なマンガになっています。)
しかしいずれにしてもあまりに単純にしかも性急に結論を出して聖ピオ十世会に足をすくわれないようにしたいものです。
Posted by pinpinkorori at 2008年07月31日 03:07
なんかさぁ、人格攻撃は読んでてつまらん。退屈だ。字数を追うに無駄な労力だな。
つっても、お互い様状態と化してるようなんで極力そういうのはお互いやめるようにした方がいいと思われ。無駄は省こうや。

pinpinkorori 様>

ネットというツールでやる人がいない。それが問題だ。
こういうポピュリズムの時代にきちんとそれなりの対抗言論をする人が出てこない。正教会の人から西方教会は俗っぽすぎるとやすされるほどのローマカトリックがその俗も利用して今に到って来た面目躍如を為すなら、やはりネットは無視出来ない媒体であると思うのだな。
タコ壺篭ってないで出てこい。という時代ですよ。

つってもマジプロは色々背負うものがあるんで難しいものがあるだろうけどね。

Posted by あんとに庵 at 2008年07月31日 03:23
誤字。
>西方教会は俗っぽすぎるとやすされるほど

西方教会は俗っぽすぎると揶揄されるほど

ドメニコ会が神学大全読むのは当り前だろうが、しかしここでは伝統主義者(・・つまりピオ十世会のことだろ?)についての話であって、きちんとした学びの過程を経た誰がどこで語っているか?という問題ですから。
ドメニコ会が叙階前に神学大全読む?だからナニ?それがどーした?とか思ってしまいますです。

そういう無駄話してるから皆さまがおかしな方向に行ってしまうんだと思う。言をつくそうという姿勢では誠意ある方とお見受けはしたんで、変な方向にスパイラルしてるのはよろしくないですよ。
Posted by あんとに庵 at 2008年07月31日 03:41
「人格攻撃は読んでてつまらん」。
全く人格攻撃はしておりませんがどこが人格攻撃なのかご指摘くださいませんか。
しかしわたしは「ネットというツールでやる人がいない。それが問題だ。」という非難は多少ともネットという非現実空間を前提にした安易な非難だとおもいます。
何故ツールを使わなければならないのでしょうか。必要性は全くわかりません。
言語体系がまったくわかりません。ネットという自閉空間で言語体系が仲間うちでしか使われない隠語化しています。「マジプロ」とはなんでしょうか?
「つっても、お互い様状態と化してるようなんで極力そういうのはお互いやめるようにした方がいいと思われ。無駄は省こうや。」
何とか理解しましたが、「そういうのはお互いやめるようにした方がいい」と。ありがとうございます。
おしゃるとおりお開きとしましょう。感謝。お元気で。
Posted by pinpinkorori at 2008年07月31日 03:56
pinpinkorori様>

「お開きとしましょう」といいながら質問もしてるって?こちとら、どうすりゃいいんだ?笑)

●人格攻撃について
まぁコメント諸氏の「人格攻撃」はpinpinkororiさんだけに言った言葉ではないのですが、pinpinkororiさんの場合は、「井の中の蛙」とか、「大義名分のうぬぼれ」などといった余計な修辞がそれに相当するでしょう。まぁ、こういう修辞は金田さんもするんでお互い様だとしかいいようはないです。金田さんにも以前にやめた方がいいと申し上げたことがあるんですが。

●ネットについて。
「非難」という見解の意味が不明ですが、非難って・・批判というなら判るけどすごい認識で受け止められたようで。笑)

「ネットという非現実空間」「ネットという自閉空間」という認識が既にネットに対する姿勢の差異を感じますね。そしてネットに対してはイエズス会なども最近積極的に利用しようという結論に達したようですよ。

そもそも文字媒体(かつてはは書簡だったり書籍だったわけだが)を通じて様々な神学議論をしてきたカトリックの神学界が純粋な文字媒体としてのネット空間を利用しない手は無いでしょう。

私のようにカトリック教会もない離島在住の人間にとっては、神学学会とやらにも足を運べませんし、そもそも教会すらいけないわけで、しかしネットのお陰で様々な司祭の霊性についてや聖書解釈の書き物などを読むことが出来るわけです。その空間をして「非現実空間」という認識は改めた方がいいでしょうね。

現にピオ十世会に関して迷いを生じせしめている人がいくつか見られる中で確固たる見識をあげる人がいない。しかるべき能力のあるだろう人間がそれをしていない。というのは問題だと。金田氏のはそういう指摘でしょう。

まぁ補足として、無駄の例を挙げるなら、私に対するコメントの例では、隠語がどうたらみたいな揚げ足取りなんぞに文字列費やすような労力は話がねじれる要因になっているでしょう、趣旨にストレートに応答した方がいいですよ。pinpinkororiさんの今迄のコメント読んで、同感な部分もありますから、なんだかこじれていってるのがもったいないです。
Posted by あんとに庵 at 2008年07月31日 04:33
pinpinkororiさん、

>どうも金田さんは、失礼かもしれませんが井の中の蛙ではないでしょうか。いくらでもいます。ただインターネットの世界にでないだけです。
>聖トマスの神学大全はドミニコ会では全員読みますし、読まないと誓願もできないし叙階まで進みません。ヘブライ語もギリシャ語も必要です。I修道司祭が有名です。若手研究者もいます。「伝統原理主義の問題」が何を指すのか不明ですが学会名簿で専門家をご紹介しましょうか?

「伝統原理主義の問題」というのは、ほぼ「聖ピオ十世会の問題」と同じことです。文脈で分かるでしょうに。「神学大全」はそれとは直接は関係ないですよ。この記事は「遊び」でやってるの。他の読者はみな分かってるのに、貴殿だけ「井の中蛙」のようで。

で、なんだ、「伝統原理主義の問題」を他でやってる人がいると。そりゃ、小さな学界やサークルでちょこちょこやることはあるでしょうが、今の所、本一冊すら出てませんよ。基本的なプライマリーソースの翻訳すら見かけません。私のところで始めて読んだ、という方々は多いです(メールをいただいてます)。
どっちにいろ、そういう方々がいたとしても、ネット上で対抗言論を張るのでないなら、残念ながら私の役目は終わりません。
Posted by kanedaitsuki at 2008年07月31日 08:21
あんとに庵さん、

>たしかにおっしゃる通り、論として一応対抗的な落とし前つけとく必要はあるか。ただ既に要点は繰り返しになっている感が否めないかな?尤も、それが通じてないのが問題なんだろうけんど。まず結論ありきだから、永遠に通じなさそう。
>落とし所の目標はどの辺りで考えてるんで?

まず、まだプライマリーソースの翻訳・紹介が残ってます。その後、主要な二次文献も翻訳・紹介する必要があります。もともと、ネット上で議論する場合の資料の蓄積が目標でしたから、その点でまだまだ仕事は終わってません。
それと「対抗言論」は、常に張り続けていないと意味がないと思います。途中で休止すると相手が安心してしまう(笑)。変なこと書いたらやられる!という緊張状態に置くことも、「対抗言論」の役目だと思ってます(でも、これはしんどいわ。ほんと言うと)。
Posted by kanedaitsuki at 2008年07月31日 08:25
メロンさん、コメントありがとうございます。

>どこかの誰かさんの支離滅裂で意味不明な文章と違い、金田氏の見識の深さにはいつも脱帽です。
おバカな私には、非常に分かりやすい。

「分かりやすい」と評価していただくのは、率直にうれしいです。
でも、可能なかぎりのぎりぎりまで分かりやすく書いても、まったくわからんちんな方(笑)もいるようなので、もっと修行せねば、と思ってます。
Posted by kanedaitsuki at 2008年07月31日 09:02
>まだプライマリーソースの翻訳・紹介が残ってます。その後、主要な二次文献も翻訳・紹介する必要があります。もともと、ネット上で議論する場合の資料の蓄積が目標でしたから、

確かに。その辺りの作業はアーカイブとしても役立ちます。

お客さんが来る度に、誠実*注)にお相手してるからなかなか進まないようですな。話が元に戻されてループしてしまうというか。尤もその過程で更に煮詰められ、昇華されているものがあるようで。

ただ、対抗言論の相手がトンでもだと永遠に同様のレベルで終わりかねないんで、杞憂してます。実際カトリックギョーカイを取り巻く環境は日々変容していくものがありますし、ピオ10世会の問題だけではない、色々なものがありますね。

*注) 「誠実」などという評はおそらく論客さん達にはなかなか理解出来ないかもしれないが、それは金田氏がすこぶる口が悪く意地悪なので無理もないことなのだが、実際は議論を激しくやり合っている相手に対し、言をつくし、己の言論について、なぜそうであるか最後まで説明はしている。金田氏の意地悪言語による表象に惑わされないように。(まぁこじれから派生したくだらない感情レベルもタマに生じてるので、そういう時は私の場合、鼻ほじって観戦、もしくは出来る限り無視しとります。)
Posted by あんとに庵 at 2008年07月31日 12:31
金田さん

決してお世辞ではなく、非常に分かりやすいですよ。
そうですね、固い食べ物をまだ飲み込めない子供に、食べやすく柔らかくしてくれている
って、感じでしょうか?
また金田さんのブログでしか読めない公文章や書簡などたくさんあり大変感謝しております。
なかなかここまでやってくれる方は居ませんしね。
仮にい居たとしても保守派、リベラル派、双方とも自分たちの不利なことはなかなか書いては
くれません。
その点、金田さんは、あくまでもたんたんと教会の教え、教会法に則って、違法な物は違法、
有効な物は有効・・・と教え、諭して下さる事に本当に本当に感謝です。
これからも色々と学ばせて下さい。よろしくお願いします。

ところでpinpinkororiさんの文章ですが、確かに何の脈略もなくいきなりラテン語が出てくるので、
おかしいなぁと思っていたら、どうやらいくつかのサイトの文章を自分なりに適当に組み替えて
いるだけのようです。

例:
(pinpinkororiさんのレス)
手でも口でも体の中にイエスキリストがすむことが肝心だと思います。その状態をHABITUS(習性)といいます。神の恵みが実体的に注入されます。habitus infusus(注賜的習性)そしてその状態の人間のなかにある聖霊が、神のみことばにうながさて人間の行動にはたらきかけ善行をし神に義とされます。そして罪をおかせばゆるしの秘跡を受けて悔い改め御聖体を拝領しHABITUS(習性)状態にもどります。

-----------------------------------------------

(某サイトAより)
パン(聖餅=habitas)がイエスのからだになる。神の恵みが実体的に体内に入って聖化され住み着く。恵みがたくさん入ればそれだけたくさんよい行ないをするようになり(act a bonna)、神に祝福される。恵みは注入され、人は義と成るのである。

(某サイトBより)
聖別されたパンを(化体したパン)をホスチアといいます。
これを食べることによって「神の恵み」が人間の体に入り住みつきます「ハビチュス(習性)」といいます。
15分ぐらい?のこの状態を注賜的習性(habitus infusus)といいます。ミサを繰り返し受けると神の恵みが体の中にとどまり住みついて「習性」となります。
Posted by メロン at 2008年07月31日 15:36
メロンさん
それら全部私の文だと思うけれど収集してくれてありがとう。神学大全に全部出ているから読んで確認してこれがあんちょこかと悟って。みんな安直にあんちょこにしているのでがっかりするかもしれないけれど。それとこれまでわたしの言葉でもしきづついていたらごめんなさい。おわびします。文体からいくと心のあるやさしい人のようで素敵な人なんでしょうね。お元気で。おっしゃるとおりのんびりいきましょう。あとは神さまが働いてくれます。

あんとに庵 さん

御指摘ありがとうございます。気がつきませんでしたが人格攻撃になるのですね。おしゃるとうり余計な修辞はつつしみたいとおもいます。感謝します。
「私のようにカトリック教会もない離島在住の人間にとって」とありますからこれまた不明をおわびもうしあげます。
(少し心配なのはカトリック教会がないとしたらミサはどうしているのかと余計なことがよぎりました。でも何とかしているのでしょう)
金田さんはときどきの鋭い分析には感心するのですが、とかく議論のための議論となって、文章が硬く何故かわからないけれど(自己防御反応のひとつ)一言で言うとよくいわれる心に響かないのです。なるほど今回の文体は全く逆ですがこれも自己防衛反応のひとつになっています。結論も自分の首をしめるような閉塞感があり、すごいと思ったのが早とちり(早とちりが福音上大切と澤田和夫神父はいうが「いきいきとした実践的信仰を育てる」オリエンス宗教研究所2006)となってしまった。
「教会の外にいるか」などは、信者にとって死活の問題になりますが、金田さんにはその切実さが伝わらずどうしても信者ではないからなあという嘆息になってしまいます。(で洗礼を勧め:交通法規を知っていても運転しなければという思いから)
私たち信者にとっては、「司教叙階は無効」というより、それ以上の「犯罪は無効」といった主張なのです。
Posted by pinpinkorori at 2008年08月01日 06:21
pinpinkororiさん、

>「教会の外にいるか」などは、信者にとって死活の問題になりますが、金田さんにはその切実さが伝わらずどうしても信者ではないからなあという嘆息になってしまいます。(で洗礼を勧め:交通法規を知っていても運転しなければという思いから)

おいおい、適当なこと言ってんじゃねーよ。
私は「厳密に言えば、教会の内」ってはっきり言っている。根拠として教会文書も挙げてる。ただ、貴殿みたいに「教会の外にいる!」と叫んで自慰行為にはげんでいる人がいても、別にいいんじゃないの、と申し上げている。私なりの慈悲ですね。

>私たち信者にとっては、「司教叙階は無効」というより、それ以上の「犯罪は無効」といった主張なのです。

おやおや、「司教叙階は無効」を立証できないと分かって、「犯罪は無効」(なんじゃそりゃ!?)に鞍替えですか。
はやく、「司教叙階は無効」である教会文書(反証)を挙げてください。話はそれからだ。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月01日 09:08
pinpinkorori様>

ペースを取り戻されてよかったです。
金田さんは、まぁ特別文体を用いると思って煽り的な修辞には反応しないのがいいです。要点はかなり重要なことをいっていることがありますから、修辞的な要素を取り除いた金田氏の趣旨はなにか?を常に念頭においておけばよい議論になっていくと思います。

>「教会の外にいるか」などは、信者にとって死活の問題になりますが、金田さんにはその切実さが伝わらずどうしても信者ではないからなあという嘆息になってしまいます。

ここなんですが、確かに、 pinpinkororiさんがお考えになられているように教会のあらゆる文書等の目的は信徒の信仰生活に密接に関わるものです。その目的は教会の民の信仰の導きであり、霊的救済でございましょう。

我々は神の恩寵に委ねた信仰生活を送るならば、本来まぁこんな文章群など必要としないはずです。しかし人間というのはどうしても意志があり、謝った方向にいってしまうから明文化しなければならない。それはみ言葉を知るための解釈書であったり、霊的導きのための観想の書であったり、教義のためのがイドラインとしてのカテキズムであったり、教会共同体でのルールとしての教会法であったりというわけです。

だから、ぶっちゃけ言えば「間違いをおかしてしまう場合の為に文書化されてる」といっても過言ではないのです。そしてそれらは万民に共通に理解されるということが前提となっています。万民にというのは、どんな考えの人間に対してでも、これが原則であることが示されているということです。

つまり、極端な話、信仰を持たない人間にすら理解出来るロジックがそこに展開されて存在してるといっていいのです。このカトリックの伝統的な名文化という行為はすごいとは思いますよ。

金田さんがもともとカトリックのテキストに当たりはじめたのは、カトリック教会外からのカトリックに対する無知から来る偏見が酷いという動機であったのです。例えば世の中みると「宗教やってるやつは思考停止」とか言っちゃってるのが多いわけで、カトリックが思考停止?なにそれ?じゃぁこういうのどうよ?みたいな。或いはプロテスタント諸派から批判なんかでもマリア崇敬は間違っていないという証明とか。

それらを探求しているうちにカトリックのそれらの文章群が、言語のみの世界の観点からも非常にきちんと構築されていると、まぁローマカトリックなわたくしからすると、「それはどうも」と照れたくなるような評価を為さっているわけです。

それゆえにカトリック教会で言語で為された様々な事象が、門外漢である人でもきちんとしたロジックを持っている人なら、その結論が納得出来ることなのである。ということの証明をここで展開しているわけです。

また信仰生活へのフィードバックについてですが、このように言語化された世界だけでないことは pinpinkororiさんも語られておられてそれには同意します。しかし金田さんも、信仰生活という分野においては言語世界の限界性を知っていると思います。だからそこまではここでは踏み込まないで言語世界で整合性があることのみ扱っているわけです。ただ、そこのみ扱っているから大変に剣呑に映るかと思いますが。笑)

ここで得られた結果をそれぞれギャラリーが己の信仰生活に反映するもよし。また異論、議論がある場合はコメントするも由というだけで。霊的生活はそれぞれの読み手のものです。そこまで立ち入ることは出来ないのは金田氏が一番よく知っています。

さて、過去、様々な論客さんが度々金田氏の洗礼の問題をあげ、あたかも語る資格がないかのように言う方がおられたのですが、金田さんの霊的世界については他者がとやかくいう分野ではない。上記のようにここではそこは取り扱っていないわけですから、判らないだけなのです。

判らないことを判ったように判断し、神とその人の関係性を無責任にとやかく言う人が多いのにはあきれてしまうといいますか、そここそが神の領域であり、それを単純化し判断するは傲慢の罪としか言いようがない。導きは様々です。信仰者ならそれを一番よく知っているはずです。

とはいえ、まぁ、 pinpinkororiさんみたいに「洗礼受けるといいよ〜。と」かは言いたくなりますよね。笑)ここのブログの趣旨とは離れて来るんで私はここではやらんです。本音は私も「洗礼受けるといいよ〜」なんですが。笑)
Posted by あんとに庵 at 2008年08月01日 14:51
まぁ! オモシロそう
アッキーナの解説は解りやすくて良いです
師匠の文章-師匠のよい所は、「わからん」ものを「わからん」とする者には徹底的に噛み砕いて説明してくれることかな??
この極みがアッキーナ君だと思う

ところで師匠の文章と洗礼の関係はいかなる関係にあるのか、未だに解らない
私も内心では、「はやく洗礼お受けなさいな」とか思ってはいるけど、それは神と師匠との問題で傍から口出す問題じゃないもの
授洗云々をネットに書き込むより、しつこく祈り続けた方が余程有効・有益じゃないかな????
Posted by しゃるろとっか at 2008年08月01日 20:40
あんとに庵さん、

私の言いたいことをすべて言ってくださり、ありがとうございます。

>過去、様々な論客さんが度々金田氏の洗礼の問題をあげ、あたかも語る資格がないかのように言う方がおられたのですが、金田さんの霊的世界については他者がとやかくいう分野ではない。上記のようにここではそこは取り扱っていないわけですから、判らないだけなのです。

面白いもんで、私がカトリックではないと知った途端、急に手のひら返したような上目線でものを言い始める人もおります。誰がそんなやつのいるところに入るために洗礼なんかするか!て思ってます(笑
一方、私の主旨を理解していただいている方も少なからずいるのでありがたいです。結局カトリックか否かというより、人間の問題なのでしょう。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月02日 12:26
しゃるろとっかさん、コメントありがとうございます。おひさしぶりです。

>アッキーナの解説は解りやすくて良いです
師匠の文章-師匠のよい所は、「わからん」ものを「わからん」とする者には徹底的に噛み砕いて説明してくれることかな??
>この極みがアッキーナ君だと思う

私も、この企画を思いついた時、「これこそ俺の真骨頂か」と本気で思いました(笑)。
まあ、エンターテインメントなので、その分厳密性や正確性を犠牲にしてます。もちろん、ぎりぎりセーフを狙ってますが、専門学者の方が読まれたら激怒ものでしょう。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月02日 12:29
>誰がそんなやつのいるところに入るために洗礼なんかするか!て思ってます(笑

まぁお気持ちは良く判りますが。笑)

カトリックの大量の文書群が「間違える人が出てくる」が前提に為されたわけだと、コメントでも説明しましたが、教会の民が皆神の意志にかなう人々ならそんな大量に必要ではなかったわけで、文書がそれだけあるってぇのはつまり、教会共同体の人々は伝統的に困った欠点を持っていたということに他ならないわけです。

なわけで、そういう人々を包括し、共に隣人愛を持って共存していこうよという意志ある共同体がカトリック教会ともいえるわけです。

ゆえに、カトリックギョーカイ世界では、そりゃむかつくこというやつ居るけど、それ(むかつくヤツ)とこれ(秘跡)は別なんだよという了解を必要とされるわけですな。

だから師匠の言論にむかついた人は「この煽り野郎め、超むかつく!」とはっきり言っていいわけですが、しかし師匠の霊的部分に踏み込んでまで云々するはお門違いということでもあるし、「むかつく奴がいるから洗礼なんかやだ」もお門違いなわけです。笑)

ま、いずれ受けたくなったら。どぞ。こちらは勝手に、余計なお世話的にお祈りしときますよ。
Posted by あんとに庵 at 2008年08月02日 17:45
>誰がそんなやつのいるところに入るために洗礼なんかするか!て思ってます(笑
>>まぁお気持ちは良く判りますが。笑)

私もお気持ちはわかりますが。笑)

カトリック教会はまだ良いですよ。なんと言っても智の入るゆとりとがありますから

わが派だとそうはいきません。
洗礼の有無どころか、信仰年数、礼拝の出席回数から奉仕をこなした回数まで問われます
もっと学んだ方が良いと思うのですけどね−信仰があればすべてOKって狭い世界ですから・・・・タメイキ
Posted by しゃるろとっか at 2008年08月02日 18:31
>金田様

お久しぶりです。
以前、「存在論日記」のエントリーを紹介していただいた者です。
私も、街で天使博士をみかけたら、
「アッキーナ!」って気軽に声をかけて、
「結局んとこ、神って何やねん」と尋ねてみたいと思います。

>あんとに庵様

> 出身地名を愛称にするってぇのはなんか変じゃないか?

それほど変でもないのでは?
月影兵庫は焼津の半次のことを「焼津の」って呼んでましたからね。
Posted by 大黒学 at 2008年08月22日 10:23
大黒学さん、コメントありがとうございます。

その節はどうも。
誰も食いつかない話題に食いついてくれる奇特な方もいるもんだと思っておりました。

>私も、街で天使博士をみかけたら、
>「アッキーナ!」って気軽に声をかけて、
>「結局んとこ、神って何やねん」と尋ねてみたいと思います。

アッキーナなら、きっと
「ぶっちゃけ、わかんねっす」
と答えることでしょうね。「自分の書いたものなど藁屑みたいなもの」と死ぬ前に言ってましたから。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月25日 08:28
>金田様

> >「結局んとこ、神って何やねん」と尋ねてみたいと思います。
>
> アッキーナなら、きっと「ぶっちゃけ、わかんねっす」
> と答えることでしょうね。
> 「自分の書いたものなど藁屑みたいなもの」
> と死ぬ前に言ってましたから。

「あんなのと比べたら、俺が書いたものなんて藁屑じゃん」
ってアッキーナに言わしめた、彼が1273年12月6日に見てしまった
「あんなの」って、いったい何だったんでしょうね。

思うに、そのときアッキーナが見たのは、
「あと三ヶ月ほどしたらお迎えに来るからね」
と彼に伝えに来た阿弥陀如来だったんじゃないでしょうか。
脇侍として左に観音菩薩、右に勢至菩薩もいたかもしれません。

アッキーナのことだから、たぶん、普段から疑問に思ってたことを
阿弥陀如来にいろいろと尋ねたんでしょうね。阿弥陀如来は
親切だから、不動の動者は実はヤハウェじゃなくて大日如来だとか、
すべての人間を救済することが自分の本願だとか、
丁寧に答えていったに違いありません。

おそらく、アッキーナは現在も、どこかの浄土で、自身の悟りと
衆生の救済を求めて修行に励んでいることでしょう。我々の前に
斗枡菩薩として姿を現す日も近いかもしれません。
Posted by 大黒学 at 2008年08月27日 16:13
大黒学さん、

>「あんなのと比べたら、俺が書いたものなんて藁屑じゃん」
>ってアッキーナに言わしめた、彼が1273年12月6日に見てしまった
>「あんなの」って、いったい何だったんでしょうね。

私はきっと中川翔子貪欲ツアーのポスターだったと思います。テレビ局のロビーかどっかで見たんでしょう。

「あんなダミ声でもコンサート! それに引き換え自分は口パクって・・」

と歯噛みする思いだったでしょう。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月28日 08:38
>金田様

> 「あんなダミ声でもコンサート!
> それに引き換え自分は口パクって・・」

そっちのアッキーナかよwwwwwww
ステージはPeachy'sで歌は森三中って、
「カンナさん大成功です!」(監督:キム・ヨンファ)を
彷彿として揺曳しまくりテラワロスwwwww
Peachy'sは生歌でもよかったんじゃないの?
ゆうこりんなんて、あんな音程でCD出してるしwww
それにしてもゆうこりんギザカワユス

あっそれから、
Summa theologiae日本語版の紹介まりがとうー(^ω^)
「完成するのは2050年ごろの予定」って「凡例」に書いてるけど、
今のペースだと、2500年になってもまだ訳してるかもwwwww
斗枡菩薩が何を言いたいのか理解するのに時間かかりまくりだし、
的確な日本語の表現を探すのにも時間かかりまくりだお!!

話変わるけど、
「護法少女ソワカちゃん」 http://sowaka.s-dog.net/
無茶苦茶すげー!!

〓さいれつどー〓
Posted by 大黒学 at 2008年08月29日 11:36
大黒学さん、コメントありがとうございます。

>Summa theologiae日本語版の紹介まりがとうー(^ω^)
>「完成するのは2050年ごろの予定」って「凡例」に書いてるけど、
>今のペースだと、2500年になってもまだ訳してるかもwwwww

そこは「56億7千万年後も訳してる」でしょ!!

誰か「異端撲滅戦隊ドミニカン」とか作ってくれんかな。

今日は24時間テレビのイベントで「アクサス丸亀」にゆうこりんが来るそうなので行ってきま〜す。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月31日 08:23
>金田様

> >今のペースだと、2500年になってもまだ訳してるかもwwwww
>
> そこは「56億7千万年後も訳してる」でしょ!

これは一本取られました。別の場所で同じネタを披露するときは、ぜひ使わせていただきたいと思います。でも、下生した弥勒菩薩の説法を聴いた途端にパウロみたいに魚鱗状の物体が眼球から落下して、そののちは「神学大全」が藁屑に見えてしまうようになったら、「俺は56億7千万年もの間、何をやってたんだあああ!」と頭を抱えたくなるでしょうね。

> 誰か「異端撲滅戦隊ドミニカン」とか作ってくれんかな。

私は、守護聖人がジョルダーノ・ブルーノなので、「異端」という単語を聞くと脊髄反射的に、「やめてケレ、やめてケレ、やめてケーレ火炙りー」と、左卜全とひまわりキティーズの声色で唄いながら逃げ回りたくなります。

「三千世界の烏天狗」の中の、

「群盲象を撫でる」 http://polynity.exblog.jp/8343946/

というエントリーでも書きましたが、私は、地球上に存在するすべての宗教には存在意義があると考えています(人民寺院とかオウム真理教のように反面教師的な存在意義を持つものもありますが)。そして、「異端」と呼ばれる逸脱も、何らかの必要性があって生じてくるものではないかと私には思われます。異端というのは、正統派から見ると何か穢らわしいもののように見えるのかもしれませんが、だからと言って「撲滅」するのではなく、可能な限り「保存」のための努力をする必要があるのではないかと愚考いたしております。

ネタにマジレスしてスンマせんでした。
Posted by 大黒学 at 2008年09月02日 08:54
大黒学さん、コメントありがとうございます。

>私は、守護聖人がジョルダーノ・ブルーノなので、「異端」という単語を聞くと脊髄反射的に、「やめてケレ、やめてケレ、やめてケーレ火炙りー」と、左卜全とひまわりキティーズの声色で唄いながら逃げ回りたくなります。

「異端撲滅」というのは、折伏による改宗も含みます。というか、そっちがメインです。とにかく相手と議論せえ、というのがアクィナスも含むドミニカンの伝統です。
といっても、ドミニカンが異端審問の最前線で活動したことは事実ですし、神学大全中に、「教会は異端を死の危険から守る必要なし」という悪名高いフレーズもあります。
しかし、異端審問については、歴史事実をあまりに誇張したイメージが横行しているのも困りものです。この辺はいずれ記事にするかも知れません。

>私は、地球上に存在するすべての宗教には存在意義があると考えています(人民寺院とかオウム真理教のように反面教師的な存在意義を持つものもありますが)。そして、「異端」と呼ばれる逸脱も、何らかの必要性があって生じてくるものではないかと私には思われます。異端というのは、正統派から見ると何か穢らわしいもののように見えるのかもしれませんが、だからと言って「撲滅」するのではなく、可能な限り「保存」のための努力をする必要があるのではないかと愚考いたしております。

当ブログは「カトリック言語空間」(カトリックの教義を公理と見なし、真と仮定して議論する空間)を前提としており、こちらの話題はそれをはみ出すことになります。いわば「メタカトリック」な話題。しかし、「護教」という限りは、いずれこうした話も扱うかも知れません。
「分派」(異端の本義)や異教にも「真理や聖性の要素が存在する」というのが、第二バチカン公会議以降のカトリック教会の認識です。しかし、信仰である以上、キリストの教会こそがあますことなき真理と聖性の手段を所有し、その教会はカトリック教会に存する、と考えます。真理の相対主義でもなく、宗教無差別主義でもなく、真理をヒエラルキーでとらえるということですね。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月02日 09:33
>金田様

> > そして、「異端」と呼ばれる逸脱も、
> > 何らかの必要性があって生じてくるものではないかと私には思われます。
> > (以下略)
>
> 当ブログは「カトリック言語空間」(カトリックの教義を公理と見なし、
> 真と仮定して議論する空間)を前提としており、
> こちらの話題はそれをはみ出すことになります。
> いわば「メタカトリック」な話題。

金田さんと同様、私も、カトリックの教義が持つ構造(あんとに庵さんの言葉を借りるならば、「フラクタルなしかし様式化された構造」*1)に対して美しさを見出している人間の一人です。ですから、金田さんのおっしゃる「カトリック言語空間」にどっぷりと浸って議論することの意義を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、その議論の「意義」は、あくまでカトリックの内部に留まる「意義」です。カトリックを外部から鑑賞しているだけの私のような人間にとっては、「カトリック言語空間」を包含する、より広い言語空間の中で「神」について思考することのほうが、より大きな「意義」を持つように感じられます。

1273年12月6日に聖トマスに何が起こったのかという問題は、カトリックにとっては些細な問題なのかもしれませんが、メタカトリックにとってはきわめて重大な問題であるように思われます。聖トマスは、「神学大全」第一部を書き終えたのちも、「神とは何か」ということについてさらに考え続けたのではないでしょうか。そして彼は、新たな解答にたどりついたのではないでしょうか。その日を境に彼が筆を折ってしまったのは、彼がたどりついた解答がカトリックの内部に留まるものではなく、メタカトリックの領域に踏み込んだものだったからではないでしょうか。

「神とは何か」という問いに対するカトリックの解答は、古典物理学にたとえることができます。20世紀において、古典物理学を包含する、現象をより厳密に説明することのできる物理学が構築されたのと同様に、これから先、「神とは何か」ということをさらに問い続けることによって、カトリックを包含する、神の偉大さをさらに味わうことのできる教義体系を構築することができるかもしれません。つまり、「神学大全」は、いまだ書かれざる「メタ神学大全」の第一部なのです。

ところで、話は変わりますが、金田さんは、「存在論日記」のエントリーを紹介してくださったとき、

> カトリック神学において公理系を成すのは不可謬的教義群であって、
> 「聖書」ではないのだ。

という異論を私に与えてくださいました。亀レスで恐縮ですが、それについての反対異論を述べさせていただきたいと思います。

基本的には、金田さんの異論は正しいと私も思います。しかし、厳密に正しいかというと、そうでもないように思われます。なぜなら、このエントリーに対するコメントの中で、pinpinkororiさんが、

> ヘブライ語もギリシャ語も必要です。

と述べておられるからです。pinpinkororiさんだけではなく、「匿名の僧」さんとおっしゃる方も、同様のこと*2を語っておられます。もしもカテキズムが不可謬であると仮定するならば、ヘブライ語もギリシア語も必要ではないのではないでしょうか。それらが必要であるという命題は、不可謬なのは「聖書」のみであるということ、そして、「聖書」はいまだ解釈の途上にあり、その進展に伴ってカテキズムが改訂される可能性もある、ということを含意しているように思われます。


*1 http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050627/1119839066
*2 http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070823/1187840088
Posted by 大黒学 at 2008年09月10日 08:47
大黒学さん、コメントありがとうございます。

>金田さんと同様、私も、カトリックの教義が持つ構造(あんとに庵さんの言葉を借りるならば、「フラクタルなしかし様式化された構造」*1)に対して美しさを見出している人間の一人です。ですから、金田さんのおっしゃる「カトリック言語空間」にどっぷりと浸って議論することの意義を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、その議論の「意義」は、あくまでカトリックの内部に留まる「意義」です。カトリックを外部から鑑賞しているだけの私のような人間にとっては、「カトリック言語空間」を包含する、より広い言語空間の中で「神」について思考することのほうが、より大きな「意義」を持つように感じられます。

ええ、ですから大黒学さんがそういう「意義」を感じられて論じられることを私は否定しているわけではないです。カトリックを単純に否定することなく、外部から論じる方がおられるのは良いことだと思います。

>1273年12月6日に聖トマスに何が起こったのかという問題は、カトリックにとっては些細な問題なのかもしれませんが、メタカトリックにとってはきわめて重大な問題であるように思われます。聖トマスは、「神学大全」第一部を書き終えたのちも、「神とは何か」ということについてさらに考え続けたのではないでしょうか。そして彼は、新たな解答にたどりついたのではないでしょうか。その日を境に彼が筆を折ってしまったのは、彼がたどりついた解答がカトリックの内部に留まるものではなく、メタカトリックの領域に踏み込んだものだったからではないでしょうか。

私はそうは思いません。史実から見ても、アクィナスは死ぬまで「キリスト者」でした。

「トマスは死の三日前の日曜日に大修道院長テオバルドの手から聖体を受けたが、そのときさきにのべた聖体についての信仰告白を行い、ついで次の言葉をのべた。
「わが魂の贖いの値いにしてわが旅路の糧であるキリストよ、いま私はあなたを受けたてまつる。わたしが学び、夜を徹してめざめ、労苦したのはすべてあなたの愛のためであった」」
(稲垣良典『トマス=アクィナス』清水書院、1992年、p.192)

この告白はもちろん、執筆断念後のことです。
とはいえ、アクィナスの内面は彼自身にしか分かりませんから、彼がどういうビジョンを見たかはすべて最終的には憶測です。しかし、私ならもっとも蓋然的な判断をします。それが正しいという絶対的な証拠はないわけですが、それが間違いという絶対的な証拠もないですから。

ただ、その一方、アクィナスを初めとした神学者たちが「メタカトリック」的な視点を持っていなかったかといえば、そんなことはないと思います。護教というのは常に内向きと同時に外向きの作業ですから。ただし、外向きの場合、どこまで前提を共有できるかが問題になります。理性と信仰の関係の問題ですね。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月10日 09:16
大黒学さん、

つづきです。

>「神とは何か」という問いに対するカトリックの解答は、古典物理学にたとえることができます。20世紀において、古典物理学を包含する、現象をより厳密に説明することのできる物理学が構築されたのと同様に、これから先、「神とは何か」ということをさらに問い続けることによって、カトリックを包含する、神の偉大さをさらに味わうことのできる教義体系を構築することができるかもしれません。つまり、「神学大全」は、いまだ書かれざる「メタ神学大全」の第一部なのです。

これにはほぼ同意できます。特に最後のフレーズにはまったく同意です。

>> カトリック神学において公理系を成すのは不可謬的教義群であって、
>> 「聖書」ではないのだ。
>という異論を私に与えてくださいました。亀レスで恐縮ですが、それについての反対異論を述べさせていただきたいと思います。
>基本的には、金田さんの異論は正しいと私も思います。しかし、厳密に正しいかというと、そうでもないように思われます。なぜなら、このエントリーに対するコメントの中で、pinpinkororiさんが、
>> ヘブライ語もギリシャ語も必要です。
>と述べておられるからです。pinpinkororiさんだけではなく、「匿名の僧」さんとおっしゃる方も、同様のこと*2を語っておられます。もしもカテキズムが不可謬であると仮定するならば、ヘブライ語もギリシア語も必要ではないのではないでしょうか。それらが必要であるという命題は、不可謬なのは「聖書」のみであるということ、そして、「聖書」はいまだ解釈の途上にあり、その進展に伴ってカテキズムが改訂される可能性もある、ということを含意しているように思われます。

ごめんなさい。こちらはちょっと主旨がよく分かりません。
つまり、教義が変更される可能性がある、ということなのでしょうか?

もしそう思っておられるのでしたら、それはカトリック教会の理解ではないです。
カトリックにおいて、厳密な意味での「教義」、すなわち「神的に啓示」され、それを否定することが「異端」という不信仰を意味するものについては、不可謬であり撤回不能です。
ただし広義の「教義」、教会の公式の教えではあるが、不可謬的でないもの、すなわち変更がありうるもの、も存在します。
私は後者を含める場合は「教理」又は「教え」、前者の不可謬的なものについては「教義」となるべく使い分けて言うようにしています。多くの人はこの区別を知らないか、曖昧にしているので、そういう方が「教義」という語を使用している場合は注意が必要です。

「カトリック神学において公理系を成すのは不可謬的教義群」

という場合は、もちろん前者を指します。わざわざ「不可謬的」(infallible)という形容をつけているのはそのためです。

「カテキズム」が改訂される可能性がある、というのはその通り(実際新カテキズムは初版から改訂されています)ですが、その中には「改訂されえない」不可謬の教義と、「改訂されうる」可謬の教理があって、改訂されうるのは後者のみです。
ただし、不可謬の教義も、内容は変更されないまま、その表現が刷新されることはありえます。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月10日 09:35
訂正と補足

上記清水書院、ページ数が間違いでした。

p.192→p.194

上記引用中の「そのときさきにのべた聖体についての信仰告白」について。

「トマスは(中略)死の直前、聖体を授けられるにさいして、当時の慣習に従って「この聖体が処女マリアから生まれ、十字架にかけられてわれらのために死に、復活した神のまことの御子であることを信じるか」と信仰告白を求められたとき、次のように答えたと伝えられている。「もしもこの秘跡について現世でわれらがもちうる信仰よりも大いなる知識があるとすれば、その知識をもって私は答える――この聖体がまことの神にして人であり、父なる神と処女マリアの御子であることを私は真実に信じ、確実に知っていると。」
(同上、p.191)

稲垣はこの「信仰よりも大いなる知識」を、聖パウロの「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」という言葉で指示しているような直視のことではないかと推察しています。いずれにせよ、アクィナスが見たものは、当時の神学を超えていたかも知れないが神学の延長上にあり、キリスト教の外部にあるものではなく、キリスト教の内部にあるものだと理解できます。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月10日 10:06
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