2008年08月20日

井上洋治『キリスト教がよくわかる本』

「キリスト教がこの一冊でよくわかる、というような本」(まえがき)をという要望を受けて書いたとあるが、到底その任を果たしていない。
キリスト教の信仰に関して言うと、キリスト教徒が共同で信ずべきものとして伝えてきた信仰箇条があり、例えば三派が共通して信仰の基準と見なしている「二ケア・コンスタンチノープル信条」に集約されている。こうした信条(クレド)を元にして公的な信仰内容を説明し、その上で必要なら私的意見をそうことわって書くなら問題ないだろう。しかるに井上は「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(同上)と豪語するすぐそばから「やはり私の考え方が、いたるところににじみでてしまっている」(同上)とあらかじめ言い訳めいたことを平気で言う。
「まえがき」から前途多難だが、中身は予想通り、客観的なキリスト教などではぜんぜんなくて、単に井上が個人的に信じたいキリスト教像が描かれているだけである。
まず、井上は信仰内容をいちいち矮小化している。「創造」について、「神さまが天地を創造したというのは、天地自然は、一瞬一瞬神さまの力にささえられて存在しているということ」(p.111)だと記述している。まったくの間違いとは言えないが、これでは肝心要の「神の全能性」「無からの創造」が説明されていない。「聖霊」は「神さまの慈愛の息吹」(p.114)とされ、なぜか芭蕉や西行を持ち出して、「私たち(註・日本人)が「大自然の生命の風」としてとらえた風を、キリスト教では「聖霊」と呼んでいるのだと言ってもよい」(p.117)と説く。言ってもよいかも知れないが、これでは聖霊の神性(非被造性)がまったく分からない。いちおう三一性についての解説もあるが、「三つの存在様態において自己を示される」(p.119)という、よくあるサベリウス的理解(様態論的モナルキア主義)に傾いており、正確ではない(「「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称では」ない(CCC 254))。
キリスト論に至っては矮小化どころではなく、まったくの歪曲である。キリストの復活の客観的事実性はきっぱり否定されている(井上は同様の調子で「処女懐胎」(p.34)、「奇跡」(p.101)、「死者の復活」(p.205)の客観的事実性も否定している)。

「イエスが復活したということは、墓からでてきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界を歩きまわったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、永遠の生命に復活した、よみがえったということなのです」(p.66)

キリストの復活の客観的事実性がキリスト教の信仰箇条であることは、いちいち言うまでもない(例えばCCC 639-646を見よ)。復活の客観的事実性の否定自体も問題だが、その私的見解の立証のために、とんでもなく無理気味の聖書読解をしていることに、非常な知的不誠実を感じる。

「いま『ルカによる福音書』の表現を追ってみましょう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスがあらわれたとき、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちはそんなに恐怖にふるえあがったのでしょうか」(p.67)

この疑問に対する井上洋治先生の解答がすこぶるふるっている。

「弟子たちはイエスの怨霊があらわれたのだと思ったのではないでしょうか。
「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません、一緒に死にます」などと言っていた弟子たちは、いざとなると命が惜しくて完全に師イエスを見殺しにしてしまいました。イエスが十字架を背負って倒れたときも、ただ何処からか見ているだけで手伝いにはでていきませんでした。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死をとげてしまったのでした。さぞかし先生は我々のことを怨みながら死んでいかれたにちがいない、そのような意識にさいなまれて、弟子たちは嫌悪と恐怖の時間をすごしていたにちがいないのです。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していたでしょう。
ところが、この物語の表現によれば、そこにあらわれた師イエスは弟子たちを罰したり怨んだりせず、魚をとって一緒に食事をしたというのです。これは弟子たちを裁かずにゆるしているということです」(p.67)

ここから井上は「裏切った私たちをゆるし、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなす」(p.68)と断言する。
井上によれば「宗教の世界における真実は」「主体的真実を求める」(同上)ものだそうな。それにしてもなんとも胡乱な「主体的真実」であることか。そもそも、井上の記述する弟子たちの心理なるものは全くの憶測でしかない。ルカ伝該当箇所を引こう(フランシスコ会訳)。

「二人が、こう話していると、イエズスご自身が皆のまん中に立ち、「あなたたちに平安があるように」と仰せになった。弟子たちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思った。「なぜおびえているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私自身である。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなたたちが見ているように、わたしにはそれがある」。こう言って、イエズスは手と足をお見せになった。弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っていると、イエズスは、「ここに何か食べる物があるか」と仰せになった。それで焼いた魚の一切れをさしあげると、イエズスはそれを受け取って、皆の前で召し上がった」(ルカ24:36-43)

実際に聖書のこの箇所を読んだ者であれば十中八九「事実として信じるか信じないかはともかく、井上のようには解釈できない」と思うだろう。というのもここでイエスは、弟子の裏切りをゆるしているのではなく、まさに物理的な「復活」を信じないことをとがめているのだからである。マルコ伝にも「その後、イエズスは彼ら十一人が食卓についているところに現われ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活したイエズスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)とある。弟子たちが幽霊を見たと思ったのは、それを「怨霊」(!)と考えたからではなく、イエスの物理的な復活が信じられなかったからだ。それゆえ、明らかにキリスト教信仰の「復活体験の核」は「カメラの写真にそのままうつるかのような」(p.68)復活の客観的な事実性にある。井上はそれを否定するだけでなく、聖書の記述を我流に解釈してそうするのだから始末が悪いというしかない。
おそらくこの本の根本的欠陥は、人類の罪の贖いとしての十字架上の死というキリスト教の中心思想を明確に述べてないことだろう。たしかに井上も原罪の解説の中で「破壊された平和と連帯の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだとパウロはその手紙の中で述べています」(p.145)と、この中心思想に軽く触れてはいるが、まさしく軽く触れているだけなので、不案内な読者なら単にパウロの個人的見解と受け取ってさっさと通り過ぎてしまうだろう。
しかしながら、この「キリストの受難による贖い」という教えが説明されていなければ、受肉の意味も復活の意味も、救いの経綸の中でのそれらの連関も、さっぱり分からなくなる。この本を読んでも、キリスト教は漠然と「隣人愛」を説いた宗教だとしか理解できまい。あるいは「「裁き」ではなく「許し」を」、といった平板極まりない心理カウンセリング本にでもありそうなスローガンしか出てこない。しかし、そうしたものはせいぜい「井上教」とは言えても、決して「キリスト教」ではない。まったく、「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(まえがき)という言葉が泣いている。
余談になるが、「エホバの証人」を正統キリスト教ではないとするのは良しとして、輸血を拒否して死ぬことを個人の信念であり自殺ではないなどとまで述べている(p.190)のは完全に余計である。本の主旨を逸脱している。また、「無教会主義」をご熱心に説明(pp.187-189)する一方、肝心の「教会」についての説明はこれぽちもない。どう考えてもバランスを失している。
そういう次第で、これは「キリスト教がよくわかる本」ではない。むしろ「キリスト教がよくわからなくなる本」と改名すべきである。

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 12:00| Comment(9) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして
百瀬神父の本を使った入門講座で絶句!してしまいましたので、ああ、この司祭も・・・といった感じです。こういう人が入門書を書いてほしくないです。
自分の俗っぽい頭で解決できるように、キリストを矮小化するのは、神性を認めないのも同じです。
Posted by cuore at 2008年08月20日 20:55
井上師は神の全能性を否定または懐疑しているのでしょうね。だから著書に書きようがない…。
神が全能なら、処女懐胎にせよ復活にせよ、あっても不思議はないことです。ひねくれた聖書の読み方をせず、教会の教え通りに信じるのが一番無理がない、と言えるのでは。
ロープライスが「1円」になっていますが、適正価格だと思います(笑)。

追記
先日は「グレゴリオ」の名で投稿しましたが、「イエスの惑星BBS」へ同名で投稿している方がおられるので、不都合を避けるため「Gregorius」に改名させていただきます。
Posted by Gregorius at 2008年08月21日 01:47
cuoreさん、コメントありがとうございます。

>百瀬神父の本を使った入門講座で絶句!してしまいましたので、ああ、この司祭も・・・といった感じです。こういう人が入門書を書いてほしくないです。

百瀬先生の本はかなり昔に何冊か読んだことがありますが、これほどひどくはなかったと思います。昔のことなので評価が甘いのかも知れませんが。
「司祭」がこういう教会の教えと離れた内容を書くことについては、私はそれをとがめる立場にはないです。この記事は、あくまで客観的に見て「キリスト教入門」とはいいがたいという判断から書いてみました。

>自分の俗っぽい頭で解決できるように、キリストを矮小化するのは、神性を認めないのも同じです。

そうですね。井上師は内心キリストを「神」だとは認めたくないのでしょう。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月21日 08:26
Gregoriusさん、コメントありがとうございます。

>井上師は神の全能性を否定または懐疑しているのでしょうね。だから著書に書きようがない…。
>神が全能なら、処女懐胎にせよ復活にせよ、あっても不思議はないことです。ひねくれた聖書の読み方をせず、教会の教え通りに信じるのが一番無理がない、と言えるのでは。

まあ、はなから聖書は全部作り話としておけば話は簡単なんですが、部分的に認めて自分の説を裏づけようとするからこういう無残な読解が生まれるのでしょうね。おっしゃる通り、教義や信条を前提にした方が、むしろ整合的に読めると思います。

>ロープライスが「1円」になっていますが、適正価格だと思います(笑)。

私はブックオフで105円で入手しました(笑
まあ、これは大量に出版されていればままあることです。私の持ってるやつは2003年27刷(1989年初版)で、のちに文庫化もされて、相当出回っているようですから。
カテキズムを持っているカトリックの皆様なら、こういう本にだまされる心配はないでしょうが、おそらく一般の方が読まれて、これこそ「キリスト教」と誤解しているのだろうなあと思うとなんとも。
とはいえ、井上洋治先生はカトリック内でも人気があるようで、私は昔「井上神学」なる表現も目にしたことがあります。どこが「神学」やねん、と思う。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月21日 08:50
ざっと拝読しました。
正統的なカトリシズムからみれば、井上師は教会の敵になってしまうのでしょうなぁ。
しかしながら、日本的霊性(というか浄土教)とキリスト教の調停を探求する過程で、「十字架によって人が神になった」という、東方正教の変形としてのキリスト論、すなわち、受肉降誕なしで昇天による聖化・神化だけが強調されるキリスト像に至ったとしても、それはそれでアリなのかなと、私は思うのであります。
正教の神学教授から、きみ、sugawaraくん、それは神学解釈を間違ってるぞ、と叱られるかもしれませんが。
さて。初心者は何を読めばよろしいか。「カテキズム読め!ドンボスコ社の綱要版(大学の神学初級で使ってました)でも可!」で世は全てこともなし。
Posted by sugawara at 2009年11月03日 20:00
sugawaraさん、コメントありがとうございます。

>正統的なカトリシズムからみれば、井上師は教会の敵になってしまうのでしょうなぁ。
>しかしながら、日本的霊性(というか浄土教)とキリスト教の調停を探求する過程で、「十字架によって人が神になった」という、東方正教の変形としてのキリスト論、すなわち、受肉降誕なしで昇天による聖化・神化だけが強調されるキリスト像に至ったとしても、それはそれでアリなのかなと、私は思うのであります。

 私はかなり慎重に留保を持って書いたつもりです。少なくとも井上氏が同書で「客観的にキリスト教というものを示そうとした」と言っていなかったのならば、ここでここまで叩く理由はなかったです。
 シュオン流ペレニアリストの視点で見れば、井上氏の折衷はあまりに無造作すぎて、私には受け入れられません。シュオンは自ら所属するイスラーム以外の信仰についても深く、正確でした。南無。
Posted by kanedaitsuki at 2009年11月04日 20:25
この日記の方がバカバカしいですね。
些末なこだわりを持ちすぎ、攻撃的すぎ。見苦しいですよ。
何もあなたの定義に従って信仰が行われなくてはいけない理由はないでしょうに。ここに書いてあることはあなた個人のわがまま勝手もいいところですよ。

カトリックではなくて福音派にでも転向した方がいいんじゃないですか(爆笑
Posted by . at 2010年03月30日 04:00
はじめまして。
しばらく書き込みがなされていないようですが、まだ続いているんでしょうか。

井上師の書物で述べられている復活の理解は、もしそれがすべてであれば、通常言われるカトリック信仰とは異なる印象を受けますね。

旧約聖書では人間とは、霊肉そろって人間です。当然、新約聖書でもその人間観は引き継がれます。
復活とは、(霊肉そろった)人間全体の完成ですから、「霊的に復活した」とか「弟子達の心の中に復活した」などではなく、栄光化された物理的な身体で復活したというのが聖書の証言ですし、教会の提示する信仰です。

パウロは、復活について「もっとも大切なこと」(1コリ15章)と書いています。使徒信条でも「復活」だけは、2回唱えられます(イエスの復活と私たちのからだの復活)。それほど重要な信仰箇条なのです。kanedaitsukiさんの指摘は、決して「些末なこだわり」ではないようです。

最近は、司祭が、カトリックの公的な信仰ではなく、いきすぎた個人的な見解を述べても、問題とされなくなっています。それは、教会が権威的に「活動禁止」や「発禁」などの処分をすれば、それだけで大きな話題になってしまい、逆効果なこともあるからでしょう。
逆から言えば、教会の指導者が充分に責任を果たしていないということも言えるかも知れません。

もしも、個人的な見解を表明する方に対し、「あなたの説明はおかしい」と言ったとしても、「私は、一般向けに、復活についての神学的な機能を説明しただけで、有体的な復活がないとはどこにも書いていない」と切り換えされればそれまでです。判断がなかなか難しい問題です。

ですので、信徒の予防策は、「通常の」あるいは「普通の」信仰理解を、できるだけ多くの人に提示するということだけなのかもしれません。

*この私の感想は、井上師の著作すべてに関わる判断ではなく、あくまでも引用された範囲での感想です。

Posted by ST at 2011年06月09日 15:02
ST様

コメントありがとうございます。

現在、当サイトは開店休業状態です。ブログ主自身がカトリックに興味を失ったためです。
かろうじて以下のブログが活動中です。

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また、去年8月頃よりtwitterを開始しております。意見交換などはそちらでお願いいたします。アカウント名はそのままkanedaitsukiです。
Posted by kanedaitsuki at 2011年08月14日 23:13
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