2008年08月25日

マリア第五の教義覚書(1)

マリア第五の教義とは、聖処女マリアは「共贖者(Coredemptrix)、すべての恵みの仲介者(Mediatrix of all grace)、神の民の弁護者(Advocate for the People of God)」であるという教義で、仲介者マリアの民衆の声(Vox Populi Mariae Mediatrici)が、このことを教皇が教義決定し宣言するよう請願する運動を行っている。
(以下を参照。
http://www.ewtn.com/library/MARY/MEDIATRI.HTM
http://www.fifthmariandogma.com/index.php?option=com_form&Itemid=602
当初のヨハネ・パウロ2世への請願書とは違い、ベネディクト16世への請願書では「共贖者、全ての恵みの仲介者、弁護者という三つの主要な相の下において、すべての人々の霊的母(the Spiritual Mother of all peoples under its three principal aspects as Co-redemptrix, Mediatrix of all graces, and Advocate)」と、より包括的な表現に変更されていることに注意)
今の所、本格的な論考を書く準備ができていないので、メモ代わりに覚書を認めておく次第。



数々のカトリック系の本を出版している竹下節子は、『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』第五章「ドグマ狂騒曲」でマリアの教義についてとりあげている。もちろん、ぬかりなく第五の教義にも言及している(というより、もっともおいしい話題なのだろう)が、至る所に首をかしげざるをえないような記述が見られる。竹下は新聞記事を元に(!!)「仲介者マリアの民衆の声」運動について記述したうえで、以下のように書いている。

第五の教義論争
 一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている。マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ないからだ。それでもマリア信仰が、聖書、初期教父文書、典礼の伝統に根ざしていることのみは確認されたが、他の議題に関しては常に九〇パーセント内外の圧倒的多数で裁決されていたこの公会議において、マリアの「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号は、二〇〇〇人の投票者のうち五二パーセント以下の同意を得たにとどまった。それを受けて一九六四年一一月二一日に発表された全体の憲章『民の光』の中では、「教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと宣言された。現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている。


『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』、講談社選書メチエ、1998年、p.128

なんとも非論理的(非説得的)な文章である。
まず確認しておくと、竹下は第五の教義を「処女マリアは、共同の贖い主で、すべての恩寵の仲介者で、神の民の弁護人である」(pp.116-117)という教義であると同じ章で明記している。にもかかわらず、まったく脈絡なく「統一をつくる者(FAUTRIX UNITATIS)」という称号の話が出てくる。関連があるとしても、その関連が語られておらず、何のために持ち出したのか、さっぱり分からない。
最後の文「現在のところ、マリアは「教会の娘」であると同時に「教会の母」でもあるというパラドクスは、キリスト教徒の魂が超自然を目指すシンボルとされている」はまったくチンプンカンプンだ。教会のどこの誰が「パラドクス」を「キリスト教徒の目指すシンボル」だなどと唱えているのか教えて欲しいものである。

「教会の母」云々についてだが、竹下節子は「(マリアは)教会の母、すなわち司牧者も信者も含むすべての神の民の母」だと『民の光』で宣言されたと言っているが、こんな文章は「教会憲章」(Lumen Gentium=『民の光』)の中には存在しない。存在することを証明するのは簡単だが、存在しないことを証明するのは難しい。「教会憲章」のマリアに関する章(52-69)を読んでくれとしか言えないが、さしあたりヨハネ・パウロ2世の言葉を典拠としてあげておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「公会議文書においては、「教会の母」という称号を聖処女に明示的にあててはいない」(1997年9月17日一般謁見講話・1)
この言葉は公会議文書ではなく、第三総会閉会時のパウロ6世のスピーチに出てくる(こちらの30を見よ)。ここでも、前述のヨハネ・パウロ2世の言葉を状況証拠として提出しておこう。
http://www.ewtn.com/library/PAPALDOC/JP2BVM63.HTM
「教皇パウロ6世は第二バチカン公会議自体が、「マリア、教会の母すなわち、信徒であれ聖職者であれ、すべての神の民の母」と宣言することを望んでいたであろう。彼は、1964年11月21日の、公会議第三総会の終わりにおけるスピーチで、自らそれを宣言した。」(1997年9月17日一般謁見講話・5)
竹下節子はおそらく、一次文献である公会議文書を1ページも読むことなく二次文献をまる写ししてしまったのだろう。

さて、最も重要な第一文「一九六二年の第二ヴァチカン公会議で、聖母マリアの位置づけが初めて特別の議題として上がったときは、退けられている」という主張を検討してみよう。まず、そもそもこの文章には主語がなく、いったい何が「退けられている」のかがはっきりは分からないが、とりあえず文脈上「第五の教義」のことだとしておこう。このパラグラフ全体から、竹下節子はマリアの称号として「教会の母」だけが憲章から「退けられ」なかったと考えていることが推測される。この推測は、別の箇所で竹下が以下のように書いていることからも正しいものと裏づけられよう。
「第二ヴァチカン公会議でも、マリアへの言及について司教たちの意見が分かれたとき、パウロ6世の力で、何とか「教会の母」という比喩的で無難な称号を承認させた」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.135)
すでに確認した通り、実際には第二バチカン公会議公文書「教会憲章」では「教会の母」という称号は退けられている(使用されていない)。では逆に、第五の教義で用いられている「共贖者、仲介者、弁護者」はどうだろうか。
結論から言うと、「共贖者(Coredemptrix)」は「退けられている」が、他の二つは使用されている。

マリアは天にあげられた後も、この救いをもたらす務めを放棄せず、かえって数々の取り次ぎによって、われわれに永遠の救いのたまものを得させるために続けている。マリアはその母性愛から、まだ旅を続けている自分の子の兄弟たち、危険や困難の中にある兄弟たちが、幸福な祖国に到達するまで、配慮し続ける、このために聖なる処女は、教会において、弁護者(Advocate)、扶助者(Auxiliatrix)、救援者(Adjutrix)、仲介者(Mediatrix)の称号をもって呼び求められている。


Lumen Gentium 62

したがって、第一文を第五の教義に関する「称号」が「退けられている」という意味に解する限り、竹下節子の主張は正しくない。三つのうち二つは第二バチカン公会議公文書「教会憲章」で採用されているからだ。ちなみに件の四つの称号は、『カトリック教会のカテキズム』969において、またヨハネ・パウロ2世の回勅『救い主の母(Redemptris Mater)』40において引用され再確認されており、公会議以降も、教会教導権によって決して退けられていない。
第五の教義の教義決定が退けられたという意味ならば間違いではない(第二バチカン公会議はマリア教義に限らず新たな不可謬宣言を避けていたのだから当たり前)が、パラグラフ全体から見て、竹下はそのような意味では書いていないと思われる。かりにそういう意図だったとしても、誰でもわかるように明示的に説明しておくべきで、いずれにせよ欠陥のある文章だと評価せざるをえない。

総じて竹下節子の記述には、カトリックのマリア論に対する一般的な偏見が反映しているように思われる。第二バチカン公会議が第五の教義を退けた理由として挙げられている「マリアはあくまでも教会の一員であって神と人との仲介者ではあり得ない」という第二文の文言は、その最たるものだろう。
確認した通り、第五の教義に関する称号についてすら、公会議文書に採用されている。そればかりではない。この称号が表す教義内容については、第二バチカン公会議のみならず、教会が繰り返し教えてきたことにほかならないのだ。上述の「教会憲章」の続きを引こう。

しかし、このことは、唯一の仲介者であるキリストの尊厳と効力から何ものをも取り去らず、また何ものをも付加しないという意味に解釈されなければならない。
 事実、いかなる被造物も受肉したみことば・あがない主とけっして同列に置かれてはならない。しかし、キリストの司祭職に聖職者も信者の民も種々の儀式で参与するように、また、神の唯一の善性が被造物に種々の様式で現実に広げられているように、あがない主の唯一の仲介は造られた者が唯一の泉に参与しながら行なう種々の協力を拒絶するものではなく、かえってこれを引き起こすのである。
 教会はこのような従属的なマリアの役割をためらわず宣言し、絶えずこれを経験し、なおこの母の保護にささえられて、仲介者・救い主にいっそう親密に一致するよう、これを信者の心に勧める。


Lumen Gentium 62

この憲章は、一方で、キリストが唯一の神と人との仲介者であり、(マリアも含む)他の被造物はそれと同列に置かれないこと、他方で、この唯一の仲介は、被造物による協力を妨げないことを確認している。このことから分かるのは、マリアは、たしかにキリストと同じ意味で、同じ仕方で「神と人との仲介者」であることはありえないが、救いのわざに従属的に「協力」することで「仲介者」となることはありえるということだ。実際、マリアの仲介なしには、受肉の秘儀はありえなかった。
マリア第五の教義宣言請願運動の支持者も、決してこのような第二バチカン公会議の抑制されたマリア論を逸脱して、マリアを「よりいっそうキリストに似た立場に近づけてしまう」(『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』p.131)ことなど意図していない。しかし、そうした事実は、一次文献の確認を怠って書きなぐった、好奇心を満たすだけのスキャンダラスな文章からは決して見えてこないのである。

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 17:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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