2008年09月11日

アクィナスの「わらくず(藁屑)」発言

 トマス・アクィナスは1273年12月6日、聖ニコラウス礼拝堂でのミサ中に何らかの体験をし、その後、執筆も口述も絶った。このため『神学大全』は第三部の聖体の秘跡の項から悔悛の秘跡の項に移ったところで中断され未完となる。兄弟僧レギナルドゥスがなぜ著作を続けないかと尋ねたところ、「私が見たものにくらべれば、私がこれまで書いたものはすべてわらくずのように見えるからだ」と答えたと伝えられている。
 以後、この発言に対して様々なことが言われてきた。それはまず、アクィナスが実際に何を「見た」のか、ミサ中に何があったのかという体験に関してのことである。稲垣良典はS=タグヴェルの節を敷衍して、パウロが「そのときには顔と顔とを合わせて見ることになる」(第一コリント 13:12)という言葉で指示しているような「神の直視」のことではないかと推測している(稲垣良典『トマス=アクィナス』、清水書院、1992年、p.191)。そうした神秘主義的解釈を認めたうえで、仕事のしすぎで生じた脳腫瘍のような何らかの疾患による物理身体的原因を示唆する人もいる(Thomas F.O'Meara,O.P.,Thomas Aquinas Theologian,Notre Dame,Notre Dame Press,1997,p.31)。
 かりに何らかの神秘体験をしたとしても、それが断筆の主原因とは考えがたい。なぜなら、同様の(あるいはそれ以上の)神秘体験をしたと見られる諸聖人がみな、アクィナスと同じ行動をとったわけではないからである。それゆえ、断筆の主原因は病気によるものではないかと思う。
 しかし、いずれにせよ体験そのものについては結局憶測の域を出ないのだから、問題として重要なのはむしろ、この言葉の解釈の方だ。非常によくあるのは、この言葉を「神学の限界」と見なすことである。もちろん、文字通りにはその通りなのだが、ここから神や信仰に対する言語による知的作業をすべて無意味と見なし、「神学無用論」まで行きつく者がいるが、それはあまりに極端過ぎる。神学、あるいは人間の知の営みが、神の神秘を把握し尽すことなどできない、というだけのことなら、アクィナスはこの発言以前に既に表明している(たとえば『神学大全』第一部第三問序文「われわれは神について、その「何であるか」を知りえず、ただ「何でないか」を知りうるのみである」(山田晶訳))。Josef Pieperなどは、こうした否定神学的態度を『神学大全』にもともと内在する断片的(非組織的)性質とし、件の発言をそれをはっきりとした形で言い表したものだと見なしている(Josef Pieper,Guide to Thomas Aquinas,San Francisco,Ignatius,1991,pp.158-160)。
 「わらくず」発言そのものは、たしかに神学に対する何らかの否定性の表明なのであるが、それを単純に「神学の否定」と見なすよりも、否定的な形での肯定性の表現だと見なす方が、アクィナスの全神学に対する評価としては相応しいのではないか。Pieperが言うように、アクィナスの神学に対する限界の意識は、決して「反知性主義」に結びつくわけではないのだから。
 現教皇ベネディクト16世がある説教(国際神学委員会総会閉会ミサ説教(2006/10/6))において、この「わらくず」発言について興味深い考察をしているので、見ておこう。
ttp://www.vatican.va/holy_father/benedict_xvi/homilies/2006/documents/hf_ben-xvi_hom_20061006_commissione-teologica_en.html

 聖トマス・アクィナスは、長い伝統を踏まえて、神学において神は私たちの語る対象ではない、と言います。これは私たち自身の規範的考えです。
 事実、神は神学の対象なのではなく、神学の主体です。神学を通して語る主体、それは神でなくてはなりません。私たちの言葉と思想は常に、神の語ること、神の言葉が世界において聞かれ場所を持つことを保証することに役立つのでなければなりません。
 それゆえ、あらためて私たちは、自らの言葉を捨てること、純化の過程へと招かれていることを知ります。それによって私たちの言葉は神が語りうるための道具に過ぎなくなり、その結果、真に神が神学の客体でなく主体となるのです。
 この文脈から、聖ペトロの第一の手紙の美しいフレーズが心に浮かびます。第1章22節です。「あなたがたは真理への従順のうちにその魂を浄めています」(Castificantes animas nostras in oboedientia veritatis)。真理への従順はわたしたちの魂を必ず「浄め」、そうして、私たちを正しいことば、正しい行いへと導きます。
 別の言い方をすれば、一般に流通している意見の指示に従い、人びとが聞きたいと思っていることに支配されて、称賛を受けることを期待して語ることは、一種の、言葉と魂の売春と言えます。
 使徒ペトロがいう「浄め」は、このような基準に従うこと、称賛を求めることではなく、むしろ、真理への従順を求めることです。
(中略)
 神の偉大さの前で私たちは沈黙します。私たちの言葉が取るに足りないものだからです。このことは聖トマスの生涯の最晩年を想起させます。人生最期の時、彼はもはや何も書かず、何も語りません。友人が「先生、なぜもはや何も語らないのですか? なぜ何も書かないのですか?」と尋ねました。彼は言いました、「私が見たものに比べたら、今や私のすべての言葉はわらくずに思える」。
 偉大な聖トマス専門家、ジャン=ピエール・トレル神父は、この言葉を間違って理解しないようにと教えてます。藁とは無のことではありません。藁は麦の実をつけます。このことは藁にとって大変価値あることです。言葉の藁でさえ価値あるものです。麦を生むからです。
 しかしながら、私が言いたいのは次のことです。これは私たちの仕事を相対化するものです。しかし、同時にそれは私たちの仕事を評価するものです。それは、私たちの仕事のやり方、私たちの藁が真実に、神の言葉という麦をつけるための指示でもあるのです。
 
 教皇ベネディクト16世によれば、アクィナスの「わらくず」発言は、神学それ自体の否定というよりも、ある種の神学的姿勢の否定と理解できる。否定されるべきなのは、神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営みであって、神学そのものではない。アクィナスの「沈黙」は、神についての言葉による知的作業の全否定などではなく、むしろ、神学が神を前にして本当に価値ある言葉を紡ぎ出すために必要な条件なのである。

(文責・金田一輝)

posted by kanedaitsuki at 13:00| Comment(10) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」というのは、まさに貴方が今までやってきたことそのものでしょう。貴方は信者ではないようですし、貴方の言説からは信仰が感じられません。
Posted by 北原 at 2008年09月11日 18:08
北原さん、コメントありがとうございます。

>「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」というのは、まさに貴方が今までやってきたことそのものでしょう。

 何をおっしゃりたいのかぜんぜんぴんときません。
 というのは、私はそもそも「神学」をしているとは思っていませんし、「神学」をしていると言ったこともないからです。
 おそらく「神学が趣味」と公言していることを曲解しているのでしょう。しかしたとえば「小説は趣味」と言う場合、「小説を書くのが趣味」という場合は稀で、通常「小説を読むのが趣味」と取ります。私が「神学が趣味」という場合もそのつもりでした。とはいえ、言葉足らずかな、という気もしないではないですが、当ブログ記事を読んで、まさか「金田一輝は神学している」などと認識する人がいるとは思ってなかったのです。

 まあ、もっと正直に言うと、私がかりに「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」をしてきたとしても、それが何か?と答えるでしょうが。

>貴方は信者ではないようですし、貴方の言説からは信仰が感じられません。

 私はカトリック信者ではないです。信仰があるかいなかは他人には分からぬことです。
また、私がカトリックか否か、信仰があるかいなかは、私の書いていることの是非には関係ありません。
 私の書いていることにもし間違いがあるのでしたら、具体的に指摘し、根拠を挙げて反論ください。間違いがはっきりした場合は、いつでも訂正いたします。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月11日 20:07
「貴方が『神学』をしている」などと言ってませんよ。「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」を貴方がやっていると言ったのです。貴方のやってきたことが本物ではなく紛い物であることくらい、貴方自身の口から聞くまでもありません。まさにそれはこちらから先に指摘したことです。反論になっていない無意味な言説の羅列は貴方の紛い物ぶりを際立たせるだけです。貴方が何を言おうと、単にこちらの主張を補強し続けているに過ぎません。
Posted by 北原 at 2008年09月11日 20:56
北原さんは信者さんですか?
だとしたらあなたの方の言葉の方が
信仰も愛も微塵も感じられません。
見ていて恥ずかしいです。
 
人の事をとやかく言う前に
あなた自身が紛いものの信者に
ならなければいいけれど。
Posted by メロン at 2008年09月12日 01:26
>北原様

はじめまして。大黒学と申します(ときどき菜列堂という名前を使うこともありますが)。私は共存型一神教の信者ですので、カトリックの方から見れば異教徒ということになりますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

> 「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、
> 他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」
> というのは、まさに貴方が今までやってきたことそのものでしょう。

金田さんがやってきたことがそうなのかどうかまでは私には分かりませんが、少なくとも私がやってきたことがそれであるというのは確かです(苦笑)。しかし私は、カトリックの外部に立脚している人間がカトリックに対して何らかの発言をすることは、カトリックにとってまったく意義がないことである、とは考えていません。

私は、すべての宗教は自ずから成長するものであり、自らの成長を拒否する宗教は衰退せざるを得ないと考えています。カトリックもその例外ではありません。しかし、カトリックは、絶えず成長してきた宗教ですし、おそらくこれからも成長し続けることでしょう。そのことを私は疑いません。

カトリックの成長において特徴的なことは、その要因が内発的なものばかりではなく、外部的な要因もまた大きくかかわっているという点です。すなわち、カトリックは、異教徒や異端者との対話からも成長の糧を得ているという点で、きわめて特異な宗教であると考えることができます。ですから、私のような異教徒がカトリックについてあれこれ発言することは、カトリックの内部の人間を困惑させるかもしれませんが、できればカトリックの成長のための糧とみなしていただければありがたいと存じます。
Posted by 大黒学 at 2008年09月12日 08:48
北原さん、

>「貴方が『神学』をしている」などと言ってませんよ。「神に栄光を帰すことなく、神を真の主体とすることなく行われる、他人の称賛を期待した、言葉と魂の売春としての神学的営み」を貴方がやっていると言ったのです。

 これは反論になってません。おかしなことをおっしゃいますね。
 というのは、北原さんがかっこでかこった文言は、私の言葉であり、とりわけ、最後の「神学的営み」は私が挿入したものです(上記記事で引いたB16の説教中には出てきません。「通読」して確認されたし(笑))。
 その言葉を使った本人である私自身が、この場合は「神学的営み」を「神学する」と置き換えても構わないと判断してそうした訳ですから、北原さんの反論は反論になっていません。
 かりにどうしても「神学的営み」でなくてはならないというのであれば、私は次のように発言を修正するに過ぎません。

「私はそもそも「神学的営み」をしているとは思っていませんし、「神学的営み」をしていると言ったこともない・・」

北原さんの反論は完全に的外れです。
Posted by kanedaitsuki at 2008年09月12日 18:55
北原さん、
思うに洗礼は、ひとりひとりが違った神秘的な形で導かれるもので、他人に強いられて受けるものではありません。さげすむような言葉を投げかけては返って逆効果じゃないでしょうか。
すべての抵抗が取り除かれれば、いつも神のことを思っている金田さんのことですから、一番良い時期に受洗されるでしょう。
その時期はあなたや私が決めるのではなく、神様と金田さんの間で決まることです。
神学について書くことが何か洗礼を邪魔しますか?
早めることはあっても邪魔にはならないと思います。
なぜ書いてはいけないのでしょう。
信者ではない人があなたより神学の知識が豊富だとプライドが傷つきますか?
だとしたら問題は金田さんではなく、あなたのほうにあるのではないでしょうか。
少しづつでも勉強すれば済むことです。
基礎神学を学ぶならマウルス・ハインリッヒO.F.Mの5巻シリーズをお勧めします。
絶版で手に入りにくいですが、図書館や古書店をマメに探せばみつかります。
そこからスタートされてはどうですか?
Posted by angelic feline at 2008年09月12日 23:14
幼子は神学をするでしょうか?
イエスは神学を語ったでしょうか?

神学を志す人は、つねに自己点検が必要です。
Posted by こん at 2008年11月20日 21:40
こんさん、

>幼子は神学をするでしょうか?
>イエスは神学を語ったでしょうか?
>神学を志す人は、つねに自己点検が必要です。

へえ。で?
Posted by kanedaitsuki at 2008年11月26日 16:40
トマスアクィナスを検索していて、お世話になります。
敬愛する前教皇ベネディクト16世のお言葉、なるほどと思いました。
また、そのこととは別に、トマスアクィナスの晩年の断筆は、神様への彼のできる至上の愛だったのかもしれません。人間の時間軸と霊の時間軸が違うように…神様のためにしていたトマスアクィナスの仕事が、実は、霊の司る世界は、人間の言葉では語りつくせぬものであることを示唆するために。
神様とは、語り尽くせぬもの、地上の全てを捧げて賛美しても、賛美し尽くせぬ方であるのだと、私達に教えてくれている気がいたします。
Posted by ミルキー at 2013年09月17日 22:33
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/106386711
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。