2007年09月10日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性についてまとめてみる。
問題となるのは、教会の必要性という救済の特殊性と、万人に対する神の救済意志の普遍性とのバランスであろう。この点で、2005年に教皇ベネディクト16世によって認可され公布された『カトリック教会の教理:大要』("Compendium:Catechism of the Catholic Church")は簡潔な要約をしている。

171 「教会の外に救いなし」の意味は?

これは、すべての救いは、頭であるキリストから、その体である教会を通して来るということを意味する。したがって、教会はキリストによって建てられ、救いのために必要であると知りながら、そこに入ることを拒んだり、そこにとどまることを拒むひとは救われえない。同時に、キリストと彼の教会のおかげで、自らの落ち度によらずキリストの福音や教会について無知であるが、真摯に神を求め、恵みに動かされ、良心の命令を通して知られる神の意志を行おうとする者は、永遠の救いに達することができる

『カトリック教会の教理:大要』




262 洗礼なしに救われることは可能か?

キリストはすべてのひとの救いのために死んだのだから、信仰のために死んだ者は洗礼なしにも救われうる(血の洗礼)。教理教育中の未洗礼者や、キリストと教会を知ってさえいないが、なお(恵みにうながされて)神を真摯に求め、神の意志を行おうと奮闘する者も、洗礼なしで救われうる望みの洗礼)。教会は典礼において、洗礼なしに死んだ子供たちを神の憐れみに託している。

『カトリック教会の教理:大要』




つづいて1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可され公布された『カトリック教会の教理』("Catechism of the Catholic Church")を見てみる(文中「教会憲章」は『第二バチカン公会議公文書全集』(中央出版社)の訳文を使用している。以下第二バチカン公会議公文書関係は同様)。


「教会の外に救いなし」
846 教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう」(「教会憲章」14節("Lumen Gentium"14))

847 この言葉は自らの落度でなくキリストや彼の教会を知らない人々には向けられていない。

本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(「教会憲章」16節("Lumen Gentium"16)

『カトリック教会の教理』




1260 「キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(「現代世界憲章」22節("Gaudium et spes"22)。キリストの福音および教会を知らないが、その理解に応じて真理を探究し神の意志を行っているすべての人は、救われうる。そのような人はその必要性を知っていたならば明示的に洗礼を望んでいたであろうと想定されよう。

『カトリック教会の教理』




1281 信仰のために死んだ者、教理教育中の未洗礼者、ならびに、教会を知らないが、恩恵の息吹のもとで、神を真摯に探し求め、神の意志を実行しようと努める者は、たとえ洗礼されていないとしても、救われうる(教会憲章16節参照)。

『カトリック教会の教理』



すでに部分的には引用されているので繰り返しになるが、1964年教皇パウロ6世によって認可され公布された「教会憲章」から引く。第二バチカン公会議に基づく教義宣言であり、数々の論争や誤解・曲解を引き起こした文書でもある。


16 なお、神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え(使徒行録17・25〜28参照)、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから(1テモテ2・4参照)、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認めれられる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また本人のがわに落ち度がないままに、まだ神をはっきりと認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。事実、教会は、かれらのもとに見いだされるよいもの、真実なものはすべて福音の準備であって、ついには生命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。

「教会憲章」




非常に簡単に言ってしまえば、カトリック教会は、カトリック教徒でなくても「良心に従って生きる人は救われうる」と説いている。すなわち、教会の外にも救いがありうる、と言っている。
こういう考えは、あるいは第二バチカン公会議によって初めて発せられた、従って、カトリック教会は第二バチカン公会議を境に教義を変更したのだと思われる方もおられるかも知れない。しかし、そうではない。この教えは既に公会議前からあるのだ。
カトリックの信仰と道徳に関する重要な定義、教令、書簡などをまとめた『デンツィンガー・シェーンメッツァー カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)で、公会議前の教えを確認してみよう。


3866 ・・・教会が常に教え続けてきたことの中に、「教会の外に救いは絶対にない」という不可謬の格言が含まれている。しかし、この教義は、教会自身が解釈している意味に解釈されるべきである。なぜなら、われわれの救い主は、信仰の遺産に含まれていることを、個人の判断によってではなく、教会の教導職によって説明するように定めたからである。

3869 神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。トレント公会議は、再生の秘跡と告解の秘跡に関連して、この点を明らかに決議している。

3870 同じことが教会についても言われなければならない。教会は救いのための一般的な助けである。永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者の場合のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

「ボストンの大司教にあてた検邪聖省の書簡」(1949年8月8日)『デンツィンガー資料集』



これは「教会の外には救いは絶対にない」を厳格に解して、非カトリック者を永遠の救いから除外した、フィーニー派(厳格主義者)に反対して出された書簡である。


2866 私も、あなたたちも次のことを良く知っている。すなわち、やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者が、神がすべての人の心に刻みつけた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵との働きによって、永遠の生命に達することができる。すべての人の心と魂、考えと習性を知っている神は、その大きな好意と憐みによって、意識して罪を犯さない人を永遠の苦しみによって罰することはない。

「イタリアの司教にあてた回勅」(1863年8月10日)『デンツィンガー資料集』




使徒伝来のローマ教会の外においては、誰も救われないということは信仰箇条であるが、・・・やむを得ない事情によって、真の宗教を知らないでいる者は、神の前に罪を犯していないことも、同じように確かなことである

「シングラーリ・クワダム」(1854年12月9日)『デンツィンガー資料集』 p437



上掲二編は教皇ピウス9世によるもので、「不可抗的無知」(やむをえない事情による無知)という考えを導入し、教会外の救いの可能性について明確な表現を初めて成し、以後の教会文書に大きな影響を与えた。
3869で言及されたトリエント公会議の決議文も参照しておこう。


1524(796) 以上の言葉によって罪人の義化の概略が述べられている。すなわち、義化とは、人間が第2のアダムの子として生まれた状態から、第2のアダムであるわれわれの救い主イエズス・キリストによる恩恵の状態、「神の養子」(ローマ8・15)としての状態への移行である。しかし、この移行は福音がのべ伝えられた後は「再生の水洗い」なしに、あるいはそれについての望みなしにはありえないのである(第5条、洗礼について)。聖書にも、「水と聖霊とによって新しく生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3・5)と書いてある。

「トリエント公会議 第6総会:義化についての教令(1547年1月13日)『デンツィンガー資料集』



「望みの洗礼」についての明示的言及は、神学的問題(すなわち神学者の個人的見解)としてはこれより前にまで遡りうるが、教会教導権によるものではこれが最初のようである。それゆえ、通常「望みの洗礼」という教義は、第一バチカン公会議とともにカトリックの伝統教義にとって最重要とされる公会議の一つである、このトリエント公会議の決議文が典拠になっている。
実際、過去の(あるいは現在でも)神学者の間では、厳格主義(教会至上説)と普遍主義(万人救済説)という両極端が見られる。しかし、教会はいつものように中庸の判断を下したのである。

(文責:金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 14:53| Comment(1) | TrackBack(0) | 神学・教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
そんなはずがない!

だったら、雨でも降ってる時に、カトリック司祭が皆に聞こえる様に、
父と子と聖霊によって洗礼を授けます。
と言えば、ほぼ全員が救われるのかといえば、そんな事があるはずかない。

洗礼は印であり、救われる為のものではないからです。

Posted by のんちゃん at 2014年10月24日 20:28
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