2007年09月12日

Richard Peddicord "The Sacred Monster of Thomism"

フランスのドミニコ会士にして神学者であるレジナルド・ガリグ=ラグランジュの生涯と思想についての本である。
裏表紙より。



『トミズムの聖なる怪物』(フランソワ・モーリヤックによるあだ名からとられた)は、二十世紀前半で最も影響力のあったドミニコ会の神学者であり、自由神学者にとってはどこにおいても災いの種であった人物の、生涯と思想についての初めての本格的な研究である。
レジナルド・ガリグ=ラグランジュは50年間アンゲリクム(教皇立聖トマス大学)で教え、教会の歴史において最初の霊性哲学の教授職をもち、二十八の著作と六百以上の記事を書いた。彼は教皇ヨハネ・パウロ2世の博士論文の指導教授でもあった。
『トミズムの聖なる怪物』は 彼の生涯とその一般的な背景を素描し、彼の生涯における最も重要な要素―説教修道会(ドミニコ会)への入会―を詳細に論じ、アンリ・ベルグソンとモーリス・ブロンデルとの哲学的議論や、ジャック・マリタンやM・ドミニク・シェヌとの神学的(かつ政治的)議論を検討し、ガリグのトミズムと彼の神学と霊性へのアプローチを吟味して章を終える。

リチャード・ペッディコードは聖ルイ大学のアクィナス神学研究所の組織神学準教授である。



ドミニコ会の学風さながら、真理の探究を通して信仰を深めたラグランジュは無類の論争好きでもあった。その最大の敵の一つがベルグソニズムだ。
二十世紀初頭のフランスで隆盛を極めたベルグソンの哲学は、いわば当時最も流行した「現代思想」であったといえる。実際、今日からは想像することも難しいが、実証主義が席巻する中で新たな思想潮流を渇望していた青年哲学徒らは、そこにながらく待ち望んでいた精神性の回復を見たのだった。ベルグソンは、ひからびた存在概念を打破し、固定的な思考法ではとらえられない生き生きとした精神の流れ(純粋持続)こそが真実在であると主張した。簡単にまとめれば「存在に対する生成の優位」を唱えた。
厳格なトミストであったラグランジュは、神学者間にも浸透しはじめたベルグソニズムを、信仰の基礎を破壊するものとして攻撃した。こうした動きは、単なる護教的な、それゆえまさしく反動的な態度にも見えよう。実際、今に至るもトミズムは、そういう中世の遺物として見られがちである。しかし、ラグランジュからすれば、カトリック信仰の基礎の破壊は、人間の真理への意志を弱めるもの、したがって人間性を破壊するものだった。ラグランジュは勇気をもって、ベルグソニズムに対して、「生成に対する存在の優位」を対置する。

「この(実念論と名目論の)ジレンマを説く鍵は、人間の能力としての知性は感覚や意識よりも優位にあるのか劣位にあるのか、という問いにあるとガリグは論じた。つまり「哲学とは感覚的の下にある知性的なものの探求なのか、それを覆い隠す誤った知性的なものの下にある感覚的なものの探求なのか」という問いだ。
単純に言えば、後者、したがってベルグソンの側を選ぶということは、人間に固有なものを否定することになる。知性の働きの理解なしには、人間と他の動物の世界を区別するものは何もなくなる。ガリグは問いかける。「人間と動物を分けるものは何だろうか? 判断力、判断する精神、「ある」という語について、いかにひとは説明するのだろうか?」」 p59

さらに、モダニズムの危機に呼応して、カトリック神学の形而上学的基礎を保守するものとして、アリストテレス哲学によって信仰と理性を総合したトミズムの姿が浮かびあがる。モダニズムの立場では、教義は時と場合に応じて人間の宗教的欲求に合わせた象徴・記号に過ぎなくなる(例えばシュライエルマッハー)。しかし、厳格トミズムすなわちラグランジュによれば、「キリスト教信仰の真理は人間の宗教的渇望を超越した現実の表現である」 p121
こうした真理の客観性の主張はもの笑いの種にされて久しいが(例えば小田垣雅也『キリスト教の歴史』はトミズムを「客観主義」と要約している!)、そもそも真理への到達の可能性を一切否定するならば、信仰と迷信の区別はもはやつかなくなってしまうし、真理の相対主義(もし、そんなものが本当にありうるとしての話)は、容易にニヒリズムにいきつく。
実際、モダニズム、それに続くポストモダニズムに、ゆり戻しが生じ初めているのではないか。ヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、そうした相対主義的現状をふまえて、なお「哲学」への誘いを呼びかけている点で、一種の皮肉になりえている。というのは、通常「哲学は神学の碑女」と哲学を賤下しているとのしられ、哲学の抑圧者と世間的に見なされているキリスト教、しかも伝統保守的と思われているカトリックが率先して、哲学の価値を再認し、その再興をうながしているのだから。
「ファシズム」とすら罵倒された(事実ヴィシー政権やフランコを支持したのだが)、ラグランジュのトミズムは、実際、その特殊性を超えて、カトリシズムにおける哲学的思考の擁護を象徴してもいるのだ。

「ガリグ・ラグランジュの厳格トミズムの核心は、教皇(ヨハネ・パウロ2世)によって「人間の精神的遺産の一つ」―「正しき理性」それ自体と同一視された。このことが彼をして、教会はそれ固有の哲学を持たないし、特に決まった哲学を主張しているのでもないと言わしめた。しかし、「正しき理性」を拒否する哲学は、その場合はもちろん、ひどく不完全なおのれの姿をさらすことになるだろう」 p220

それにしても、真理への意志とは、ある特定の宗教への信仰ではあるまい、という疑問は起こる。しかし、岩下壮一が『カトリックの信仰』冒頭で述べたように、もし、カトリックの信仰こそが真理の実現そのものだとしたら? 

(文責・金田一輝)






posted by kanedaitsuki at 15:09| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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