2007年09月13日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」・補足

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性について、教会文書以外の記事について幾つか見てみよう。教会文書ではないので、教義の典拠にはならないが。

まず、現在最もポピュラーと思われる総合辞典『岩波 キリスト教辞典』。


【望みの洗礼】 実際に洗礼を受けることがなかった人も、キリストや洗礼について聞く事ことがあれば洗礼を望んだに違いないと思われる人々の場合、その状態は、神の救いの意志とキリストの救いの業を考えて、実質的に洗礼を受けたに等しいものとみなされる。これを「望みの洗礼」(baptism of desire)と呼ぶ。洗礼を準備している者が迫害や他の原因で受洗前に死亡した場合、その状態をどうみなすかという問いから成立した概念である。しかし、より根本的には、神がすべての人を救いへと招いている〔Tテモテ2:4、「現代世界憲章」22参照〕とするなら、キリストも教会も知らずに神を求めている人々はどのように位置づけられるのか、そのような人々にとって、洗礼の秘跡や教会への加入、また入信式そのものがどのような意味をもつのかを問いかけている。
〔石井祥裕〕


『岩波 キリスト教辞典』「洗礼」の項、岩波書店、2002年




神の普遍救済意志から見た場合の教理教育中の未受洗者の救いの問題という教義史的前提を踏まえた上で、さらに進んで新たな神学的地平を展望している。
つづいてアメリカの著名なカテキスト、ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』(Jhon.A.Hardon "Pocket Catholic Catechism"(doubleday))から。


洗礼は救いにとって必要であるという教会の教えは、その義務は例外なく全人類に適用されるということを意味する。洗礼の恵みを通して再生するのでなければ、至福直観に達することはできない。
この洗礼の普遍的な必要性についてのキリストの教えは、緊急の場合には、望みの洗礼ないし血の洗礼が水の洗礼の代用となりうると、教会によって解釈されている。望みの洗礼とは、明示的もしくは、少なくとも暗黙的な(implicit)洗礼の秘跡への望みのことであり、自らの罪に対する完全な悲嘆、すなわち、愛徳つまり神の愛に基づく悔恨に結びついている。

ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』、ダブルデイ、1989年、p130




「緊急の場合」という限定条件、「完全なる悔恨」という必要条件がついている。望みには「暗黙的な」ものも含めるというのもポイント。
同著者の『カトリックの教理』("Catholic Catechism"(doubleday))ではさらに詳細に解説してある。


「使徒行伝」のコルネリウスについての聖書の記述によれば、彼は洗礼していなかったが「正しく立ち、神を恐れる者」であった。それゆえ、キリスト教の囲いの外部に「神を恐れる者」がおり、なかには
自らの落度でなしにカトリックの遺産に欠く人たちがいるということが徐々に明らかになってきた。そこで、そのような人たちは、カトリックの告白をしていない、あるいは必要とされる洗礼を受けてさえいなかったとしても、救いに対して開かれていると考えるという伝統が生じた。
アンブロシウスやアウグスティヌスはそうした区別のための道をつけた。12世紀までには、洗礼や教会への参入に立ちふさがる「克服できない障害」(invincible obstacle)がある場合は、そのような人は救われる可能性があるという考えが、広く受け入れられるようになっていた。
トマス・アクィナスは、教会の一般的必要性について繰り返し教えている。しかし、彼は、特別の秘跡として望みの洗礼によって救われうるということも認めていた。つまり、教会に属したいという、少なくとも暗黙の望み(implicit desire)によって、実際上の成員であることなしに、ひとは救われうると。
しかしながら、これら二つの伝統(引用者註・教会の必要性と教会外での救いの可能性)を対立的にとらえるのは適切ではないだろう。これらは、救いの普遍的秘跡としての教会という単独の神秘を表現している。教会教導権は、一見矛盾に見えることが、実は両立する論理(paradox)であるという形で、それを表現してきた。
「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」と1215年の第四ラテラン公会議で教義決定されて以来、1302年教皇ボニファティウスによるものと、1442年のフロレンス公会議での二つの荘厳決定がある。カトリックの妥協の無さの象徴と一般に見なされているトリエント公会議で、こんにち慣れ親しんだ形での望みの洗礼の教義が荘厳に決定された。教会の実際的成員(actual membership)であることは永遠の運命に達するために必要ではない。その後のすべてのこうした認識は、このトリエントの教えによって支持されている。

ジョン・A・ハードン『カトリックの教理』、ダブルデイ、1981年、pp234-235




救いのためには必ずしも実際に教会に属する必要はない、と言い切っているところに目を引かれるが、これは「教会の普遍的必要性」と矛盾しない範囲で、慎重に理解されねばならないところでもあろう。
しかし、それにしても踏み込み過ぎではあり、これもまた第二バチカン公会議の悪影響であると勘ぐる向きもあるかと思うので、より古いルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』(Ludwig Ott "Fundamentals of the Catholic Dogma"(TAN))も見ておこう


カプ・フィルミエにおいて、第四ラテラン公会議(1215)は宣言している。「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」D430。この教えと同様のものは次の通り。フローレンス合同会議(D714)、教皇イノセント3世(D423)、ボニファティウス8世「ウナム・サンクトゥム」(D468)、クレメント6世(D570b)、ベネディクト14世(D1473)、ピウス9世(D1647,1677)、レオ13世(D1955)、ピウス12世「ミスティチ・コルポリス」(D2286,2288)。近代の宗教無差別主義に対するものとして、教皇ピオ九世は次のように宣している。「使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは洪水により滅びる。にもかかわらず、等しく確かに信じられねばならないことがある。真の宗教に対する不可抗的無知(invincible ignorance)に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない、ということである。」(D1647)。後半の命題は事実として(in point of fact)教会に属していない者の救いの可能性を述べている(D1677;796参照)。
教会への所属の必要性は、単に教えの必要性であるだけでなく、手段の必要性でもある。聖書の洪水からの救いの手段である箱舟との比較で明らかなように。しかしながら、手段の必要性は絶対的な必要性ではなく、仮定的な(hypothetical)必要性である。特定の状況、すなわち、不可抗的無知や不能性の場合、実際上の教会の成員であることは、望みのそれに代えられうる。この必要性が明示的に現れておらず、神の意志を実現しようという忠実な道徳的意向の中に含まれていることもありうる。このような仕方で、事実上教会の外側にいる人々も救いに達しうる

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、p312




ここでもまた、救いにとって実質的な教会の所属は絶対的に必要なことではないことがはっきり述べられている(もちろん、ハードンがこの書を参照しているのだ)。
同著の「望みの洗礼」も念の為に見ておく。


緊急の場合、望みの洗礼、あるいは血の洗礼は、水の洗礼に代わりうる

a) 望みの洗礼
望みの洗礼とは、(愛徳に基づく)完全なる悔恨をともなった、明示的ないし暗黙的な洗礼の秘跡への望みである
トリエント公会議は、原罪からの義化が「再生の洗礼、もしくはその望みなしには」可能ではないということを教えている(D769、D847,388,413参照)。
聖書の教えによれば、完全な愛は義化の力を持つ。ルカ7:47「彼女の多くの罪は許された。彼女が多く愛したからである」。ヨハネ14:21「私を愛する者は、私の父に愛される。私も彼を愛し、彼に私を示すだろう」。ルカ23:43「今日、あなたは私とともに天国にいるだろう」。
伝統における主要な証人は、聖アンブロシウスと聖アウグスティヌスである。洗礼なしに亡くなったヴァレンチヌス2世の葬儀の式辞で、
聖アンブロシウスは述べている。「彼は待ち望んだ恵みを得なかったのだろうか? 望んだのだから、確かに彼はそれを得たのだ。彼の敬虔な望みは彼を赦した」(De obitu Valent.51,53)。聖アウグスティヌスは言う。「もし時間的な不足により洗礼の秘儀の儀式が許されなかったとしても、キリストの功徳によって、殉難死だけでなく、心からの信仰と回心もまた、洗礼の欠如を補いうる」(De bapt.W 22,29)。初期スコラ学の時代には、クレルヴォーの聖ベルナール(Ep.77 c.2 n 6-9)、聖ヴィクトルのフーゴー(De sacr.U 6,7)、そして命題論集(V5)が、ピーター・アベラールに反対して望みの洗礼の可能性を擁護している(神学大全V68,2参照)。

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、pp356-357




さらにさかのぼって、ドナルド・アットウォーター編『カトリック辞典』(Donald Attwater ed."A Catholic Dictionary"(TAN))でも、「望みの洗礼」(Baptism of desire)の項に次のように書いてある。


望みの洗礼

水の洗礼に代わりうるもののうちの一つ。洗礼が不可能である場合、完全な悔悛と純粋な神への愛によって洗礼の省略が認められるだろう。そのような行為は、聖化する恵みの注入を求める完全で究極的な意向であり、もしその機会が提供されたなら水の洗礼を受けたいという望みと意図を、少なくとも暗黙的に(implicitly)含む。幼児には望みの洗礼はありえない。異教徒については、混乱した仕方であったとしても、何であれ神の意志はなされるべきであり、なそうと望んでいるという仕方で、神を信じているならば、おそらく望みの洗礼を受けている。そのような仕方で、水の洗礼を受けていない多くの人々が至福直観を得ることができるようになったと想定するのは理にかなったことだろう

ドナルド・アットウォーター『カトリック辞典』、タン、1931年(オリジナル版)




最後に、ハードンとオットーがともに挙げている、真打トマス・アクィナスの『神学大全』も確認しておこう。


洗礼なしに救われることはありうるか?

(・・・)

答えて言う。洗礼の秘跡が誰かに欠けている場合には、二通りある。一つ目は、事実上も望みの上でも欠けている場合である。洗礼を受けておらず、その望みも無い人物の場合。これは自由意志を使用しうる人間とすれば、この秘跡に対する侮蔑を明らかに示している。従って、救いを得ることはできない。なぜなら彼らは、救いに至る唯一の道であるキリストに、秘跡的にも霊的にも組み込まれていないからだ。
二つ目は、実際上には欠けているが望みにおいては欠けていない場合である。例えば、洗礼を受けたいと望んでいたのに、機会なく洗礼以前に死んでしまった人の場合。そのような人物は、洗礼への望みのゆえに、実際の洗礼なしに救いを得ることができる。そのような望みは、愛の力によって動かされた信仰の果実である。神の力は可視的な秘跡に拘束されない。この場合、神は人を内的に聖化している。それゆえに、アンブロシウスは、教理教育中の未洗礼者のまま亡くなったヴァレンチヌスについてこう言っている。「再生すべき人を私は失った。しかし、彼が祈り求めた恵みを彼が失うことはなかった」と。

(・・・)

洗礼の秘跡が必要であると言われているのは、少なくとも望みの洗礼なしには人は救われえないという限りでのことである

『神学大全』第三部第68問第2項




こうして「望みの洗礼」という教義についてさぐっていくと、たしかに疑問はわく。事実上の教会の成員と望みのそれが区別されているとしても、では、厳密に言って「教会」とは何か。目に見える教会の外にも、何かしら教会があるということなのか。しかし、それは「教会の可視性」という教義と矛盾しないか。
こうした疑問を解く鍵は、おそらくハードンが述べている「救いの普遍的秘跡としての教会という神秘」という表現にかかっている。これこそまさに第二バチカン公会議が改めて明示した教会の姿だ。そのほんとうの理解はまだ端緒についたばかりである。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 12:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 神学・教義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
勉強になりますわ。
一点、幼児に望みの洗礼はあり得ないということと、最近の幼児のリンボの教理の見直しについてご解説いただけたらと思います。
Posted by ヨゼフ at 2008年02月12日 00:47
ヨゼフさんというのは「ヨゼフ・ジェンマ」さんですか?

もし違うのでしたら混乱を招くので、このブログにおいては、別のハンドルネームを使っていただけたらありがたいです。。

もし初投稿の方でしたら、「投稿ガイドライン」を読んでいただくようお願いします。
http://defencecatho.seesaa.net/article/74890506.html
Posted by kanedaitsuki at 2008年02月12日 08:33
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