2007年09月17日

ルフェーブルによる違法聖別と破門

もともとを言えば、はじめはどちらかというと弁護するつもりで、聖ピオ十世会について調査しはじめたのである。しかし、調べていくうちに、1988年6月30日のルフェーブルとマイヤーによるエコンでの司教の違法聖別についての聖ピオ十世会による正当化は、まったく説得力がないということに気づくようになった。
周知の通り、度重なる警告(教皇のものも含む)を無視して挙行された、この教皇許可なしの司教聖別により、ルフェーブルとマイヤー(共同司式者)及び、その時聖別された司教たちは、破門されている。破門の事実については、司教省長官による破門宣告("Decree of Excomunication")と当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令("Ecclesia Dei")により確定している。いわば判決が下ったのだからこれで話は終わりそうなものなのだが(実際、ごく普通のカトリックなら疑問は生じまい)、この事実を否定してはばからない人々がいる。それが聖ピオ十世会とその支持者である(この離教グループの支持者である『護教の盾』のヨゼフ・ジェンマ氏のように、会は破門の事実は認めていると言ってはばからないひともいるが)。彼らは異義申し立てをするというよりも、破門という事実そのものを認めていないのである。
聖ピオ十世会が違法聖別などの正当化の際に使用する説のうちで、主要なものが二つある。一つは、新教会法1323条1324条に基づく必要性(緊急状態)による違法性阻却説である。これを便宜上、マレー・テーゼ(Murray's thesis)と呼ぶ。このテーゼを唱える教会法学者の一人がジェラルド・マレー(Gerald Murray)であり、実際聖ピオ十世会が利用しているからである。ただし、マレー本人はのちに、もともとの主張から立場を変えたことを明言しており、また、聖ピオ十世会に対して、会の立場の正当化のための誤用を撤回するよう求めている("Caught in The Lie")。もう一つは、違法聖別はそれ自体離教ではない(それゆえ違法聖別を離教行為としている『エクレジア・デイ』の論理は破綻している)という説である。これを便宜上、ララ・テーゼ(Lala's thesis)と呼ぶ。教会法テキストの解釈委員長であったララ枢機卿が言ったとされる説だからである。実際には、聖ピオ十世会はララ枢機卿が言ったことの一部分を文脈から切り離して、ララの意向とはまったく逆の解釈のために利用している("The Story of the Vanishing Schism: The Strange Case of Cardinal Lara","THE VANISHING SCHISM REVISITED: WILL THE REAL CARDINAL LARA PLEASE STAND UP (AGAIN)?" )。
さて、かように教会法学者や教会法の専門家の中にも異論があるのであれば、破門判決を評価する際、教会法を(例えば1323条1324条について)実際に詳しく調べてみる必要があると、あるいは思うひとがいるかも知れない。しかし心配はご無用である。そんな七面倒くさい手続きはぜんぜん必要ない。なぜならば、法学者個人個人の法に対する意見は様々でありえるが、それらはあくまで解釈でしかないからである。個人的な解釈をいくら積み上げたとしても、それは法そのものではなく、判決そのものでもなく、法的効果が生じるわけではない。
このあたりの機微を、Dave Armstrongは、「伝統主義者のシラバス(誤謬表)」で、以下のように述べている。


誤謬48 ルフェーブル大司教の行為の妥当性は教会法学者たちによって弁護された。

教会法学者への訴えはいつだってあるのではないか? しかし、それがすべて。それらは決まって互いに矛盾する。教会の権威は、教皇、公会議、司教たちの教導権にある。「伝統主義者たち」はこの点に同意しない。イエスに対する誤った証言(マルコ14:55-59)のように、それらはそれら自身で分裂し、互いに矛盾する―誤りであることの確かな印(そして分派と離教の印)。しかし、別の意味で、同様の離教精神が、すべての種類の「伝統主義」を支配し、多くの類似物を創りだしている。それらは、結局のところ、現実の教会(the actual Church)への軽蔑によって連合している。

Dave Armstrong"Syllabus of 60 "Traditionalist" Errors, Fallacies, and False Principles"




たとえば、首相の靖国神社参拝について、法学者の間には意見の相違がある。憲法違反と言う本もあれば、合憲だと言う本もある。しかし、現在までのところ、最高裁レベルで「違憲」という判決は下されていない。これに対して、ある法解釈上の立場から、「その判決は正しくない」と言うことは可能であろう。しかし、違憲であるという解釈をしている本や論文をいくら積み重ねたところで、「その判決は無効である」、あるいはすすんで「そんな判決はそもそも下らなかった」と言うことはできない(もちろん、純粋物理的には可能だが、法的には効力がなく無意味である)。そのできないことをしているのが、聖ピオ十世会とその支持者たちなのである。
では、判決に対して法的な(再審請求のような)異義申し立ては可能であろうかというと、どうも可能ではない。教会法学者ピート・ベーレ(Pete Vere)が次のように説明している通りである。


聖座の決定に対しては、教会法上の絶対性を心にとめておかなければならない。新教会法1629条は言う、「教皇自身の裁決、あるいは聖座の名による裁決に対しては、上訴できない」。同様に新教会法1404条は言う、「第一の座は誰によっても裁かれない」。手短に言えば、教会の中で教皇を超える可視的な権威は存在しない。教会での彼の裁決は最終的なものである。教皇は教会内の他の権威によって裁かれえないし、彼の裁決に対してより高位の権威に上訴することもできない。そのような権威は存在しないからである。

Peter John Vere"Archbishop Lefebvre and Canons 1323:4° and 1324 §1:5° A Canonical Study - Second Draft Edition"




ルフェーブルらへの破門判決は教皇による裁決であり、最終的なものである。また、教皇は教会法の制定者であり、究極的な解釈者である。かりに、ヨハネ・パウロ2世が個人的に傲慢な人間であり、ルフェーブルの破門について判断を誤ってしまったのだと仮定したとしても(もちろん私はそのような仮定は真実ではない、と思っているが)、彼が教皇という職分によって下した破門判決が法的に無効になるわけではない。人格的に問題のある裁判官が下した判決でも、法的には有効であるのと同様である。一端下りた教皇の名による有効な判決を認めず、その決定に従わないならば、それは教皇の教会法上の権威を認めないことであり、破門を認めないというその行為自体が離教を構成する。
聖ピオ十世会がするべきことは、教会法解釈上のアクロバットを繰り広げてルフェーブルの破門という事実を覆い隠すことではなく、破門という事実そのものを認めて、破門の撤回を嘆願し、聖座の惻隠の情に訴える以外にはないと思う。もちろん、そのためには、少なくとも1988年5月5日にルフェーブルが教皇の名代としてのラッチンガー枢機卿と交わした協定("PROTOCOL OF AGREEMENT BETWEEN THE HOLY SEE AND THE PRIESTLY SOCIETY OF SAINT PIUS X")に戻り、ここに書かれた内容に同意することが前提となる。とはいえ、現在の聖ピオ十世会が、この協定の求める第二バチカン公会議と新ミサの全面受け入れを認める可能性は99パーセントないであろう。それは会のアイデンティティにかかわるからだ。この点で私は、「ノムさんの時事短評」2006/10/17で紹介された手紙中の「SSPXがVCIIを認めたらSSPXの存在意義が無くなります」という意見に賛成である。

(文責・金田一輝)





posted by kanedaitsuki at 16:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝統原理主義批判 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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