2007年09月25日

山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論』

独創的且つ世界的アクィナス研究者山田晶教授による、長崎純心大学三日間の連続講演をおさめたものである。もともとこなれた分かりやすい文章家であるが、話し言葉ゆえさらに近づきやすくなっている。裏表紙より。



イエス・キリストとは何か?「我は誰なりと思うや」とのイエスの問いに、弟子たちは「生ける神の子キリストです」と答えた。「イエス・キリストは真の人間であり神である」という使徒伝承はキリスト論の原点であり、その教義(ドグマ)は4世紀から6世紀にかけて異端論争を通して形成されてきた。トマス・アクィナスは「神学大全」第3部でキリスト論の全貌を語っているが、著者はその註解の仕事を通して、トマスが独自な存在論の観点からイエス・キリストを存在と働きの両面から総合的に捉えていることを解明し、その独創性を高く評価する。近世以降に盛んになった歴史的実証的なイエス伝研究の限界を明らかにして、新たなキリスト論を展望し、さらに信仰と理性のあり方を平易にといた講演。



ここで山田教授がまず念頭においているのは、いわゆる「人間イエス」「歴史的イエス」を強調することで、ドグマ的キリスト像を批判する勢力である。ドグマ的キリスト像とは、「二性一位格」のキリスト、すなわち「まことの神にしてまことの人」なるキリストのことである。歴史的イエスに焦点を当てることで、たしかにキリストの「人性」の側面はより明らかになってくるが、「神性」の側面はだんだん視野の外に放逐されていく。それが独断的な形で出てくると、現代的アリウス主義となって現れるわけである。最終的には、イエスが「神」とされたのは、初期教会が自己正当化のために成した作りごとであり、本当の(!)イエスは、そうした制度的宗教を批判し、民族を超えた愛を説いただけなのである、という話になる。これでは、どれほど多く見積もっても、イエス・キリストは「偉大なる道徳的教師」以上に出ない。
ところで、ドグマについて、巷間何か誤解があるのではないか。ドグマは形式化されたものであり、純粋な信仰とは相容れない、極端にいえば、表現しえざるもの、言語化できないものを信仰は含むが、ドグマはそれを無理やり言語表現化してしまっている。従って、どうしてもドグマは内容の乏しい形骸化に至らざるをえない。こうした誤解である。
しかし、信仰が信仰である以上、そこにはやはり信仰の対象があるはずで、何を信じるかが問題となる。信仰は単なる感情ではなく、認識の一形態であるからだ。さらに、それが個人の内部で自己完結して終わらず、共同的に信仰された場合、「何を」の部分が客観化される必要が生じる。「イエスは神の子である」という事実を信じることがクリスチャンの要件であるが、そこでも、「神の子」とは何であるかについての合意がなければ、それは同一の信仰を持っていることにはならない。信仰が共同的に行われる場合、つまり「教会」の下に行われる限り、信仰のドグマ化は避けられない道だ。

「従来のドグマを否定したルターでも、ドグマなしではありえない。やはりドイツ国教会のドグマができるわけです。それは必然的なんです。アンセルムスはfides quaerens intelectumつまり「理解を求める信仰」と言いましたけど、同じような事がドグマについて言えると思います。fides quaerens dogma(ドグマを求める信仰)。信仰が教会の信仰である限りは、ドグマは存在する。ドグマというのは本質的に「教会のドグマ」ですからね。ですから、このドグマは気にくわぬ、大事なのは信仰だけと言うことは、各人の勝手でありますが、ドグマなしの信仰というのは、教会の信仰であるかぎりはあり得ないのです」p120

それゆえ、山田教授によれば、ドグマが軽視されつつある今こそ、ドグマ的キリスト像に再び目を向け、その意義を探求する時節だということになる。そこで注目されるのは、まさにその「まことの神にしてまことの人」という様相を究明したトマス・アクィナスのキリスト論である。
キリストの二性一位格のドグマはカルケドン公会議で提示され、次の第二コンスタンチノープル公会議で確定したが、この二性の結合の仕方(いわゆるhypostatic union)については、そう述べるだけで、詳細な弁証は欠いていた。もちろん、二つの本性の結合などということは理性を超えた事柄ではあって、本質的に信仰によってのみ受け入れられることは改めて言うまでもない。しかし、信仰の光に照らされた理性は、神秘についてよりよく知ることを欲す。そこには深く豊かな神学的領域が広がっている。
この位格的結合は、肉となった言(ロゴス)の様相である。これは神性が人性を摂取(assumere)したことを意味するが、ともすれば、人性は神性に吸収同化され、一体となったという解釈(単性論誤謬)を生じやすい。山田教授はトマスの論を敷衍して説明している。

「そこでトマスの独自な解釈が現れます。それは、言のペルソナが人間本性をassumereするというのは、言が人間本性を自分のうちに「取り込む」ことではなくて、かえって反対に、言が自分を人間本性に「伝える」communicareことであるというのです。では自分の何を伝えるのかというと、言は自分の有している「ペルソナ的存在」esse personaleを人間本性に伝えるのです。そこでキリストは、「本性」の次元においては神でありかつ人間でありながら、その「存在」esseにおいては一つであることなる。存在において一つとは、ヒポスタシスないしペルソナにおいて一つということです。(・・・)
ですから、トマスにとって、神が人間をassumereするとは、神が人間を自分に「取り入れ」てこれを自分の本性たらしめるという仕方で神化することではなくて、かえって反対に、自分の存在を人間本性に「与える」ことによって、人間本性を少しも変えることなくこれを神化することになります。すなわち神は受肉において、人間から人性をうばい取ることなく、かえって人間に御自分の存在を与えることによって、これを御自分のものとなさるのです。これは、トマスにおいてはじめてなされえた、受肉の存在論的説明であります」pp88-89

これぞまさしく「恩寵は自然を破壊せずかえって完成する」の受肉論版と呼ぶべきか。受肉は贖罪の前提であるから、キリストにおける人間神化という出来事は、決して独立的な、他と関連を持たない周縁的な事柄ではない。むしろ人間性の回復に直接的にかかわりを持つ。ここに神学が人間学へ寄与する一つの契機が見られる。
神とは何か、という問いは、実は、人間とは何か、という問いと不可分である。キリストを「ただの人」の次元に引き下ろすことは、人間への問いを、あらかじめ限られた空間に限定してしまうことになってしまう。ドグマを独断的と決めつけ拒否することが、かえって独断的人間論をまねく。ドグマ的キリスト論は、人間的地平から離れた雲の上の清談のごときものではない。それは人間性のもっとも核心的な部分を貫く鋼の矢のようなものだ。ドロシー・セイヤーズが言うように、「ドグマこそドラマ」なのである。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 12:21| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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