したがって、「極私的カトリシズム」(from 本上まなみ)というカテゴリで書かれることについては、正確さや厳密さは必ずしも保証しないし、狭い意味での「カトリシズム」とは一致しないかも知れない。ありていに言えば、おそらく教会の教えを逸脱することを書くであろう。しかし、ここで私は何らかの公的教義を提示しようとするのではなく、個人的信条について述べるつもりである。つまり他の記事と違い、客観的な事柄ではなく、主観的な事柄を書く(もちろん、客観的なものの中に主観的なものが、主観的なものに客観的なものが欠けているわけではないが)。
親や親戚などの周囲の環境によって自然にそうなった場合以外で、キリスト教あるいはカトリックに興味を持つきっかけはいろいろあるであろうが、私は自らの救霊に関心があって接近したのではない。つまり、何らかの悩みからある宗教に関心が向かったのではない。例えば、信仰自体に興味がないひとでも、宗教美術や宗教建築に大いに関心を持つ人がいる。私もそれと同類で、ただ私の場合は、その関心が神学や教義へと向かったのである。これは一見、宗教に美を求めるひとと異なっているようであるが、実はそうではない。数学者が数学公式に美を感じるのと似た感覚であると思うが、私はカトリックの教義体系に美しさを強く感じたのである。
しかし、これはある程度あとづけ的理屈であって、もう少し元を正せば、まずは私の天邪鬼的性格に由来する。私は思春期、プライドばかりは強い無内容なスノッブにありがちなように、文学青年であり哲学青年であった。大学もそうした傾向がつづき、一時期、現代思想の三巨頭の一人ジャック・デリダを研究したこともある。ニューアカの流行がやや落ち着いていた頃であるが、それでも現代思想はやはり当時の哲学系の学生たちにとっては、最も優れたものでありかっこいいものでもあったのである。しかし、私はそうした現代思想優位の雰囲気の中において、そして自らデリダについて学んでいたにもかかわらず、キリスト教とくにカトリックに対する一般的な哲学界での評価には疑問を感じていた。
今でこそある程度偏見がやわらいだとはいえ、やはりカトリシズムなど中世の遺物であり、中世哲学は、近代哲学によって乗り越えられ、ゴミ箱に行きにされた、したがって、通りすがりにたしなむ程度でよい、これが通俗的な哲学史のイメージだろう。
私はかような極端な嫌われ方をするならば、逆に非常によいものを持っているに違いないと、実際の知識についてはほとんど無知であったにもかかわらず、直感的にそう思っていた。こういうところが天邪鬼なのである。近代が否定したものが否定的な価値を持つのは、あくまで近代が肯定的な場合である。近代が肯定的なものであるというのは単なる仮説であり、この仮説の間違いが証明されれば、近代が否定したものは、かえって肯定的なものであるとわかるかも知れない。
そうしてあらためてカトリックの教義体系を眺めた時、それは恐ろしいほど豊かで壮大で緻密なものとして現れてきたのである。もちろんこれを体現する代表的神学者はトマス・アクィナスである。しかし、私は当初はおそらく、もっとトリヴィアルな事柄にのみ目を向けていたような気がする。再び比喩を使えば、神学は高等数学のような面白さがある、と私は思っていた。その意味するところは、呪文のような言葉を駆使して知性の限界に至る運動、と呼ぶべきか。
例えば、「三位一体」論や「二性一位格」論などは、一見矛盾するもの、非論理的に見えるものを、神学によってアクロバチックに、しかしあくまでぎりぎり論理的に論証していくもののように思えた。神学を学ぶことはとてもスリリングな体験である。これは、あてどもない不明確な言葉を連ねていくに過ぎないように見える現代思想にはない神学の魅力である。エラスムスによって、つまらないことをちまちま議論する例として挙げられた、「針の上に天使は何人乗れるか?」すら、私には極上のポエジーに感じられたのである。
もちろんそうしたことは今でも面白いのであるが、カトリックの教義体系の価値は、その構築的全体そのものにある。ここで構築的全体と呼ぶものは、通常の理論言語によってすくいとられたものだけを意味するのではなく、理性を超えたもの、従って論理になじまないもの、一言で言えば「神秘」も含む。大げさに言えば、そこにはすべてがある。一生かかって学ぶ価値があると思わせるのは、そこにすべてがあるというこの感じを、カトリシズムが有するからなのである。
(文責・金田一輝)
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はじめまして。
頬白親父さんのブログのリンクから来ました。
>カトリックの教義体系の価値は、その構築的全体そのものにある。ここで構築的全体と呼ぶものは、通常の理論言語によってすくいとられたものだけを意味するのではなく、理性を超えたもの、従って論理になじまないもの、一言で言えば「神秘」も含む。大げさに言えば、そこにはすべてがある。一生かかって学ぶ価値があると思わせるのは、そこにすべてがあるというこの感じを、カトリシズムが有するからなのである。
こんな想いを持っていらっしゃるのなら、信者であるかどうかは二の次で良いのではないかと思いました。蛇足ながら、あとはパスカルが言っていたように「賭けに出る」だけなのでしょうか?
>こんな想いを持っていらっしゃるのなら、信者であるかどうかは二の次で良いのではないかと思いました。
このように言って下さる方も中にはいますが、多くのカトリックの方々は、未信者である私がカトリック神学を扱うことを非難しています。私がどれだけ真剣にコミットメントしているのか、ついにお分かりいただけなかったようです。
いずれにせよ、私はすでにフリッチョフ・シュオンの説くペレニアル・フィロソフィの考え方に共鳴しているので、もはやエクゾテリックなカトリックへの興味はほぼ喪失しております。
詳しくは別ブログで書いております。ご参考まで。
http://d.hatena.ne.jp/kanedaitsuki
http://schuon.at.webry.info