2007年11月20日

Pope Benedict XVI"Jesus of Nazareth: From the Baptism in the Jordan to the Transfiguration"

教皇ベネディクト16世『ナザレのイエス:ヨルダン川での洗礼から変容まで』。Amazonでの紹介文から。



イエスの生涯へのこの豊かで洗練された手引きで、イエスが世界にもたらしたのは世界の繁栄でも平和でもなく、神だと教皇は論じる。たしかに、イエスは「彼の人格の真の中心である」父なる神との関係抜きには理解できない。ラッチンガーは、イエスの誘惑、変容、そして山上の説教などの、福音書の鍵となる出来事の意味を探求し、イエスがパウロ神学を暗示している箇所を指示している。彼はイエスの存在が旧約に根づいていることを強調し、例えば真福八端が詩篇やエレミヤ書などに例示された祝福の祈りの長い伝統の中にあることを解き明かす。ラッチンガーは新約に対する歴史批判学を利用しているが、聖書の厳密な歴史的読解の有用性には限界があることを警告している。聖書を神学的に読むことも、聖書の各箇所を正典全体の一部として見ることも必要である。この学術的な本は気軽に読むことはできない。ラッチンガーはずらっと並ぶ研究成果を利用しているし、彼は「キリスト論」といった神学概念に通じていることを当然だと思っている。しかし、ゆっくりでもラッチンガーの文に取り組む用意のある人にとっては、ほとんどすべてのページから有益な洞察を得るだろう。



現教皇ベネディクト16世による「イエス伝」シリーズ第一巻。序文で、教皇の教導権によるものではなく、個人的著作とことわっている。教皇はここで、近代聖書学の否定面である「信仰」と「歴史」の分裂状態を、近代聖書学の肯定的成果によって、再び和解させようとしている。
福音書記者の語り、そしてまたイエスの言動を、深くヘブライズムの淵源から生い茂ってきたものとした上で(これは共感福音書のみならずヨハネ伝にも当てはまる)、旧約から新約へと連続する救済史の中でイエスを描いている。そこに浮かび上がってくるのは、モーセにならい山上に上り父なる神と友のように親しく会話するイエスであり、なにより(父との一致、神の国の到来を)「祈る」イエスだ。教皇の筆致は、極端に学術的でもなければ教理教育的でもなく、あわてずさわがず丁寧に聖書を読み解いている。そして若かりしころの作品『キリスト教入門』をなぞるかのように、形成された教義から溯って歴史の中に埋め込まれた信仰の根源的場へと下り立ち、あたかも見てきたかのように歴史を「現在」化している。
エキュメニズムや諸宗教との対話についての書、あるいは典礼関係の書などは、ある種マニアックで専門的ゆえに「変化球」ともいえようが、同じように力をこめて、しかし「直球」で勝負しようというのが、この本だろう。何しろ腐るほど世にある「イエス伝」の海に、あえてさらに一石投じようというのだから。続刊が楽しみである。

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 09:23| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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