2007年11月28日

無原罪の御宿り(2)

ベルナールやアクィナスのような神学者が「無原罪の御宿り」の教義に反対した、という言い方は、この教義を批判する際、ほとんど機械的に成されている。とくにアクィナスの思想は、ほとんどカトリック教会と一体と見なされているだけに、「アクィナスも反対している」という事実は、もっともらしい大義名分であり、教会が無理やりこの教義を信徒に押しつけているかのように印象づけるのにもってこいなのだろう。
しかし、ベルナールやアクィナスなどの神学者が「無原罪の御宿り」に反対したというのは、厳密に言えば、正しくない
すでに述べたように、スコトゥスがこの教義の進展に貢献したのだが、もう少し言うと、スコトゥスによって確立した「無原罪の御宿り」教義は、それ以前のものとは別物である。つまり、「無原罪の御宿り」教義については、少なくともスコトゥス以前のそれと、以後のそれを区別する必要がある。ベルナールやアクィナスなどが反対したのは、スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義であり、少なくとも1854年の「イネファビリス・デウス」による教義宣言の形での「無原罪の御宿り」に反対した事実はない(1)。「イネファビリス・デウス」によって宣言されたのは、もちろんスコトゥス流のそれである。

至聖なる処女マリアは、その懐胎の最初の瞬間に、全能の神からの唯一無比の恩恵の賜物と特典によって、人類の救い主キリストの功績を考慮に入れて、原罪のすべての汚れから守られた。


Ineffabilis Deus(DZs2803(1641))
(2)


まず理解せねばならないのは、ここでいう「懐胎」とは「受動的懐胎」(passive conception)であるということだ。その意味は、「神によって創造された魂が両親によって準備された身体状の物質に注入された瞬間」である(3)。簡単に言えば、肉体と精神が結びついた瞬間である。両者が結びついてはじめて全人格的な「人間」となる。
カトリックの教義では、原罪は人間の自然な生殖活動を介して伝達されると考えられている(4)。つまりひとは、両親の生殖行為によって形成された身体から、魂の注入の瞬間、まったく自動的に原罪に感染することになる。そこでスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」の擁護者は、聖化の時期を、この受動的懐胎以前においたわけである。
カトリック百科事典(Catholic Encyclopedia)は、ダマスケヌスの例を挙げている(5)。ダマスケヌスは、マリアの両親の生殖行為そのものが聖霊によって守られ、情欲を免れていたとしている。その結果、両親によって準備されたマリアの肉体そのものが、すでに聖化され、純化されていたことになる。スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義は、このような「能動的懐胎」(active conception)における聖化を元に弁証されていた。
カトリック百科事典は、この頃の論争について、以下のように説明している。

13世紀において、異論が生じた原因は、大部分は議論の主題についての明るい見通しが欠けていたことにある。「懐胎」という語は様々な意味で使われており、注意深い定義によって区別されていなかった。もし聖トマスや聖ボナヴェントゥラや他の神学者たちが、1854年の定義の意味でこの教義を知っていたならば、彼らはその反対者になる代わりに、最も強力な擁護者になっていたであろう。

彼らによって議論された問題は二つの命題にまとめることができる。両方とも、1854年の教義の意味に反している。

・マリアの聖化は、魂の肉体への注入の前に生じた。その結果、魂の免罪は肉体の聖化の結果ということになり、原罪感染について、魂の側には責任がないことになる。これは、能動的懐胎の聖化に関するダマスケヌスの意見に接近することになるだろう。
・聖化は魂の注入の後に、聖化されていない肉体との結合によって魂が陥る「罪の奴隷状態」からの贖いによって、生じた。この形式の論理は「無原罪の御宿り」を排除している。

神学者たちは、注入前の聖化と注入後の聖化の間に中間があることを忘れていた。注入の瞬間の聖化だ。

Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception(6)

実は「無原罪の御宿り」教義の反対者たちさえ、何らかの意味でマリアが「汚れなき(immaculate)」存在であることは否定していない。ベルナールもアクィナスも懐胎後の子宮内での聖化は認めている(7)。聖化の時期が(受動的)懐胎以前か以後かで、立場が二分されていたわけである。
1854年の「イネファビリス・デウス」の定義を知った目で見ると、中世の神学者たちが聖化の時期を、以前でも以後でもなく、まさに丁度「懐胎の瞬間」にあったと(スコトゥスのように)考えなかったことは、不思議に映る。
もちろん、これには理由がある。そもそもスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義の欠点は、聖化を能動的懐胎の時点、すなわち受動的懐胎以前に置いたことで、「贖罪の普遍的必要性」という教義と齟齬が生じるということだった(8)。すべての人間は原罪を受け継いでいるということは、すべての人間は贖罪の必要性がある、ということだ。魂の注入以前に聖化されていたならば、原罪を受け継いでおらず、贖罪の必要性がそもそもなかったことになる。
また、贖罪は当然ながら原罪を前提にしているから、実際に贖罪が成り立つのは、魂が原罪に感染したのちにのみである。従って、子宮内で聖化された場合でも、魂の注入と贖罪(聖化)の間には、ごくわずかであっても一定の時間を要することになる。その場合はもちろん、カトリック百科事典の説明の通り、無原罪で「懐胎」したとは言えなくなってしまう。

「無原罪の御宿り」と「贖罪の普遍的必要性」が二律背反であるかぎりは、二つの立場しかありえない。

(正)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」の例外である
(反)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」に反するゆえに否定される

プロテスタントの方が「無原罪の御宿り」教義に反対するとき、上記の(正)をその内容だと誤解してしていることが非常に多い。しかし、それはまさに、歴史的にカトリック教会内で批判されてきた立場そのものなのである。スコトゥスの弁証は、この(正)と(反)を止揚したものである。

(合)「無原罪の御宿り」は最も完全な「贖罪」を意味する(9)

しかし、先に進む前にまず、トマス・アクィナスによる「無原罪の御宿り」批判を確認しておこう。

(この項つづく)

(1)スタックポール神学博士は次のように述べている。
「事実、聖トマスと聖ベルナールは、1854年教皇ピウス9世によって定義された最終形態とは実質的に異なる中世的形態の教義に反対したのである。(・・・)聖トマスと聖ベルナールが、のちになって教会によって定義された教義に反対したのだと言う権利は私たちにはない。なぜなら、この形態での教義については、聖トマスと聖ベルナールはまったく知らなかったのだから!」
(ibid,p.40)
(2)訳文はハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店)「無原罪の宿り」項からとった。
CCC(Catechism of the Catholic Church)491;FCD(Ludwig Ott"Fandamentals of Cathlic Dogma"TAN,1955)p.199参照
「イネファビリス・デウス」全文は以下で読める。
http://www.papalencyclicals.net/Pius09/p9ineff.htm
http://www.newadvent.org/library/docs_pi09id.htm
(3)Ott,FCD,p199
(4)CCC404;Ott,FCD,p.111参照
(5)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(6)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(7)Dr.Mark I.Miravalle,S.T.D."The Immaculate Conception and The Co-Redemptrix" in Calloway ed.,op.cit.,p.173;
Summa Theologica V,q27,a1
http://www.newadvent.org/summa/4027.htm#1
(8)「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)
(9)Ott,FCD,p.202;Jaroslav Pelikan"Mary through the Centuries",Yale Univ.,1996,pp.196-197

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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