2007年12月06日

無原罪の御宿り(3)

アクィナスは『神学大全』第三部第27問で「マリアの聖化」について取り上げている。第一項で子宮内聖別を肯定したあと、第二項主文でスコトゥス以前の「無原罪懐胎」論を否定している。

聖処女の聖化は生命活動(animatio)以前に生じたとは考えられない。理由は二つある。
一つ目は、わたしたちが言っている聖化とは原罪からの浄化を意味するからだ。デュオニシウスが言うように(『神名論』12)、聖化とは完全なる浄化である。さて、罪は恩寵によってのみ取り除かれ、恩寵の対象とは理性的被造物のみである。それゆえ、魂の注入以前において、聖処女は聖化されていない。
二つ目は、理性的被造物のみが罪の対象であるので、魂の注入以前の懐胎した胎児は罪と関係しないからだ。そしてそれゆえ、どういう仕方であれ聖処女が生命活動以前に聖化されたとしたならば、聖処女は原罪の汚れを招かなかったことになる。そうすると、聖処女はキリストによる贖罪も救済も必要としなかったことになる。しかしキリストについては「彼は人々を罪から救う」(マタイ1:21)と書かれているのだ。もし聖処女が生命活動以前に聖化されていたなら、それは「キリストはすべての人間の救世主」(第1テモテ4:10)ではないということを意味する。(しかし、それはおかしい)それゆえ、聖処女はあくまで生命活動の後に聖化されたのである。

Summa Theologica V,q27,a2(1)

ここでアクィナスは、はっきり問題の焦点を肉体への魂の注入の瞬間、のちに言うところの受動的懐胎(生命活動)の時点に絞り込んでいる。そして第一に、原罪・無原罪を云々できるのは、少なくとも理性的被造物と言いうる受動的懐胎以後であると説き、第二に、かりにダマスケヌス流の「肉体の聖化」があって、その結果魂への原罪の感染がなかったとしたら、それは「贖罪の普遍的必要性」と調和しないと説いている。
再三述べた通り、アクィナスはここで、単に原罪の浄化は受動的懐胎より以前には起こらなかった、と言っているだけだから、実は「イネファビリス・デウス」の定義の意味での「無原罪懐胎」を否定してはいない(2)。
ところでアクィナスは、「無原罪の御宿り」という教義に一貫して反対していたわけではない。二十世紀を代表する厳格トミスト・ガリグ=ラグランジュは、この教義に対するアクィナスの思想遍歴は三段階あると言う。
第一段階はこの教義に肯定的で、『命題論集註解』Tに表れている。
「純粋性はその反対物からの離脱によって増加する。それゆえ、すべての罪の感染から免れていたならば、創造上可能なかぎり最も純粋な被造物があることになる。原罪と自罪から免除された聖処女はそうした例である」(3)
第二段階は上述した『神学大全』にある通り否定的。第三段階は再び肯定的で、生涯の最後の時期に書いた「天使の挨拶について」で、「彼女(聖処女)は最も純粋で欠陥がなく、原罪も道徳的罪も自罪も招かなかった」とあるらしい(4)。
アクィナスにこうした思想の「ふらつき」があることに多少驚かれる方もいるかも知れない。ガリグ=ラグランジュはアクィナスの思考の軌跡を次のように語っている。

このような教義の進展は神学者では稀なことではない。まず彼らはその難しさを知ることなしに、伝統から受け入れた理論を提示する。その後、省察によって、より慎重な態度を採用することになる。最後に彼らは最初の立場に戻る。神の贈与の豊かさは私たちが理解できるよりはるかに大きく、大した理由もなく神に制限をかけるべきではないということに気づくからだ。

The Mother of the Savior and our Interior Life(5)

先取りして言えば、スコトゥスが「無原罪の御宿り」を弁証する時に使用した重要な概念は、「概念上(本性上)の先後性」と「保護する贖罪(聖化)」であるが(6)、実は両者ともアクィナス自身がすでに使っていた考え方だった(7)。つまり、アクィナスは弁証のための道具を自ら手にしておきながら、ついにそれを使用して「無原罪の御宿り」を論証することはなかった。大神学者にしては、これはこれで不思議に見える。
しかし、アクィナスも「時代の子」である。「無原罪の御宿り」は当時はまだ不可謬の信仰箇条ではなく、名だたる神学者たちは皆反対していた(聖ベルナール、ペトロス・ロンバルドゥス、ヘールズのアレクサンドル、大アルベルトゥス、聖ボナベントゥラ)。さらに、主にイギリスで繰り広げられていた、この教義発展の新しい動きについての、たよりになる情報を得ていなかった。(8)
何よりカトリック神学者としてアクィナスもまた、当然のことながら教会の伝統に忠実だった、ということは特記されていいだろう。第一段階の、きちんとした論証抜きにこの教義を肯定する態度もある意味ではそうである。第二段階の否定についても、ガリグ=ラグランジュは他の論者の意見もふまえて「聖トマスの沈黙は、多くの他の教会とは違って、受胎の祝日を祝っていなかったローマの教会の慎重な態度に影響されたということはできる」という興味深い指摘をしている(9)。
つまり、アクィナスは、あくまでその当時のローマの裁定(というよりも裁定の保留)に忠実だったのだとも言えるのである。少なくとも、ローマの決定があった場合、「無原罪の御宿り」になお反対したとは考えにくい(10)。
見てきたように、カトリック教会を代表する神学者であるアクィナスが「無原罪の御宿り」の教義に反対した、とは単純には言えないのである。とりわけ、教会の意向に反対してまでそうしたという事実はない。カトリックにおける教義の歴史を考える上で、神学的発展と教会の態度決定の関係は、見逃してはならない重要なファクターなのだ。

(この項つづく)

(1)http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(2)ただし、幾つかの問題は残る。アクィナスは同じ項の第二異論回答において「聖処女は確かに原罪に感染した」と書いており、また、『命題論集註解』Vでは「魂の注入の瞬間でさえ、その時彼女に与えられた恩寵によって根源的欠陥を免れることはなかった。人類においてキリストのみが贖罪の必要性のない特典を有している」と言っている。
(Fr.Reginald Garrigou-Lagrange"The Mother of the Savior and our Interior Life",TAN,1993,pp60-61参照)
しかし、アクィナスの論証の根本前提は「贖罪の普遍的必要性」にあるので、彼が1854年の定義に反対しただろうという権利は確かにない。
(3)Garrigou-Lagrange,p.59
(4)ibid.,p.62
(5)ibid.,p.63
(6)Ott,FCD,pp.201-202
(7)「本性上の先後性と時間上の先後性を他の多くの場合ではそうしているのに、(『神学大全』第三部第27問第二項では)区別しなかった」
(Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.60)
「聖トマスは二つのことを主張している。@神の母は贖われた。A彼女の聖化は保護の聖化だった」
(Summa Theologica Editorial Note,Christian Classics,1981,p.2156)
(8)Summa Theologica Editorial Note,p.2156
(9)Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.61
実際、ここで取り上げている第27問第二項の第3反対異論回答で、アクィナスは以下のように述べている。
「ローマの教会は聖処女の受胎を祝していないけれども、この祝日を保つ幾つかの教会の慣習は黙認しており、それ故、この祝日はきっぱり否認されてはいない。しかしながら、この祝日の式典によって、彼女が受胎において聖なるものであったと私たちは理解しない。いつ彼女が聖化されたかは分からないので、彼女の受胎の祝日というよりも、彼女の聖化の祝日が、彼女の懐胎の日に続けられているのだ」
Summa Theologica V,q27,a2
http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(10)ベルナールも、この教義と祝日に反対する手紙の中で、この問題全体に対するローマの判定には従うつもりであると留保を入れている。
「教会から受けたものを、安心して保持し、安心して他に渡してきた。教会から受けたのではないものについては、容易には受け入れないだろうと私は告白する」
(Luigi Gambero"Mary in the Middle Ages:the Blessed Virgin Mary in the Thought of Medieval Latin Theologians",Ignatius,2005,p.138)
Pelikan,"Maria",p.193も参照

(文責・金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 16:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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