2007年12月08日

無原罪の御宿り(4)

スコトゥスの弁証に移ろう。
著名な神学者たちによってこの「無原罪の御宿り」の教義が拒否されていたのは、アダムの子孫である全人類にとって原罪の伝達は不可避であると考えられていたことと、キリストの贖罪の普遍性に反すると考えられていたからであった(1)。
自然な生殖行為の結果形成された肉体に伝わった原罪は、注入の際、自動的に理性的魂に感染する。それを防ぐためには、肉体の懐胎(能動的懐胎)と魂の注入(受動的懐胎)の間に時間的な隔たりがあるとして、注入以前において肉体(胎児)に対する聖化が起こっていなくてはならない(2)。しかし、アクィナスが述べるように、魂なしの肉体は、罪の主体にもならないが、同時に、贖罪の対象にもならない(3)。
贖罪が理性的魂に対する普遍的な原罪の感染を前提にする限り、袋小路であり、解決手段はないように見える。しかし、無原罪で懐胎することが、それにもかかわらず一種の贖罪でもありうるのであれば、「無原罪の御宿り」論の難点二つは、ともに解消できる。

ここで考えなくてはならないのは、一般的に言って「救い」とは何かということだ。キリスト教的思考に慣れ親しんでいると、「救い」は常に罪からの解放と反射的に考えてしまう。つまり、いったん陥った罪のくび木から、人を自由にすることが「救い」であると思う。しかしこれは、言ってみれば「原罪」、すなわち、生まれながらに神の恩寵を失った人間の状態を当たり前のものと見なしているからこその、結論である。
古典的カトリック護教家ニューマン枢機卿は、マリアの無原罪受胎を信じることよりも、むしろすべての人間が原罪とともに生まれてくることの方が大いなる謎であると言っている(4)。これを踏まえて、現代の著名なカトリック護教家デーヴ・アームストロングは、堕落以前のアダムとイブ、天使達の例を挙げて被造物が無原罪で生まれることはあると指摘したうえで、つまるところ「堕落が人類にとって異常なのであり、マリアの無原罪懐胎は異常ではない。それは単に正常な状態への回帰なのだ」と述べている(5)。
「無原罪」という言い方は「原罪」の否定だから、何か「原罪」の方が積極的な概念であるかのように見える。しかし、本当はむしろ「無原罪」の方が積極的な概念であり、「原罪」こそ、その否定なのである。「原罪の本質は、アダムの堕罪の結果としての、聖化する恵みの欠如である」(6)。
こうした観点からすれば、「救い」とは人間の本来の状態への回復を意味する。そうであれば、確かにマリアにもまた、「救い」があったのだと言えるのである。
デーヴ・アームストロングは、非常にわかりやすくこのことを説明している。

中世の神学者たちは、マリアはすべての人間と同じく救われた(イエスはすべての救済と贖罪の源として彼女のためにも死んだ)と論じた。他の人間とは別の仕方ではあるが。彼らは森にある穴にたとえた。もし、誰かが穴に落ちたとして、他の誰かがロープをたらして上に引き上げて助けたとしたら、彼は「救われた」と言える。しかし、落ちてしまう前に、誰かが引き止めて救助したとしても、やはり彼は「救われた」と言える。穴は罪(と原罪)を意味し、救助は神とその恩寵である。マリアは決して穴に落ちなかった。だがだからといって、彼女が救われなかったとか、そこから救助されなかったとは結論できない。彼女は確かに救われた。それが起きたのは、彼女の存在の最初の瞬間であったわけだから、その救いは徹頭徹尾神の恩寵によるものであるし、またそうでなくてはならない。

"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"(7)

数多くの神学者たちが行き詰ってしまったのは、「浄化の贖罪」の場合、魂の注入と聖化との間には、ごくわずかであっても時間的隔たりがなくてはならないからであった。スコトゥスはこの時間的隔たりを、まるで極限のように限りなくゼロに近づけ、最終的にはゼロであっても贖罪が成り立つことを示したのだ。いわば、ゼロも数字であることを、はじめて証明したようなものである。
神学者たちが上記の時間的隔たりを想定せざるをえなかったのは、原罪と贖罪の先後関係を実際の時間軸上に置いていたからである。それゆえ、原罪(穴)に落ちてからしか、救いはないと思い込んでいた。しかし、ほっておけば原罪に落ちるにしても、原罪(穴)に落ちる前に救うことができるとすれば、この先後関係は、実際の時間軸上にある必要がなくなる。たとえば仮定法過去完了時制で考えれば、想像上の先後性でしかなくなるわけである。これを文章の形で述べれば、次の通りである。

「人類共通の生殖の結果として、マリアは原罪に陥っていたはずであった、もし仲介者の恵みによってあらかじめ保護されていなかったらならば。」(8)

この原罪からのあらかじめの救いを「先―贖罪」(praeredemptio)と呼ぶ。そしてこれは、既にアクィナスの念頭にあった「保護の聖化」という考え方の、まさに受動的懐胎の瞬間への適用であった。このようにしてスコトゥスは、「無原罪の御宿り」の教義を弁証することができた。(9)
ルードヴィヒ・オット博士の簡明な要約を引こう。

この問題の最終的な解決への正しいアプローチは、まずフランシスコ会の神学者ウェアのウィリアムによって手がつけられ、彼の偉大な弟子ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによって完成された。スコトゥスは、生命活動の聖化への先行は、時間上である必要はなく、概念上であればよいと教えた。先―贖罪というこの考え方を導入することで、マリアの原罪からの免除と贖罪の必要性とを調和させることに、彼は成功した。スコトゥスによれば、原罪からの保護は、最も完全な種類の贖罪である。それゆえ、キリストがこの仕方で彼の母を贖ったのは相応しいことだった。スコトゥスと一体となったフランシスコ会は、ドミニコ会とは対照的に、マリアの無原罪の御宿りの祝日を断固として擁護した。

Fundamentals of Catholic Dogma(10)


「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」と矛盾しない。なぜなら、それは、通常とは違う仕方ではあるが、やはりある種の「贖罪」(先贖罪、保護の贖罪)であるからだ。スコトゥスの偉大さは、「無原罪の御宿りの」を、単に別の「贖罪」であるとしただけでなく、さらに進んで、むしろ「最も完全な種類の贖罪」であるとしたことだった。スコトゥスはいわば次の公式を生み出した。

無原罪の御宿り=最も完全な贖罪(IC=MPR)

この一見平凡な公式の背後に、それまでの様々な教義の歴史が横たわっている。オイラーの公式のように、まったく別々に発見された重要な概念が、一つにまとめられている。結果的には単純に見えるものにおいてこそ、天才の叡智が秘められている。
「無原罪の御宿りの祝日」は、神の救いの経綸の神秘とともに、天才神学者の思想の神秘の記念でもあるのだ。

(この項つづく)

(1)Gambero,op.cit,p.249
(2)『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)「聖母マリアの無原罪の宿り」項によれば、「生命の付与、または胎児(embryo)に魂の注入されるのは、女児の場合には受胎の瞬間ではなく、約3ヶ月後であるとされていた」。
(3)Gambero,op.cit,p.238
(4)「無原罪の教義よりも難解な教義はいくらでもある。原罪がそうだ。マリアには難解なところはない。原罪なしに魂が身体と結びつくということを信じるのは困難ではない。幾百万もの人間が原罪とともに生まれるということこそ、大いなる謎である。われわれのマリアについての教えは、一般的な人類の状態についての教えに比べればまったく理解するにたやすい。」
(Dave Armstrong"A Biblical Defence of Catholicism",Sophia Institute Press,2003,pp.186-187)
Dave Armstrong"More Biblical Defence of Catholicism",1stBooks,2002,p.121も参照
また、フルトン・J・シーンも次のように述べている。
「この時代の何者であれ、「無原罪の御宿り」に反対するのを、私は決して理解できない。現代のすべての非キリスト者は、彼らが無原罪で受胎したことを信じている。もし原罪が存在しないのであれば、その場合人類全員が無原罪で受胎したことになる。なぜ彼らは、自らに帰するものをマリアに許すことにしり込みするのだろう?」
(Fulton J.Sheen"The World's First Love",Ignatius,1952,p.17)
(5)"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"
ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(6)Ott,FCD,p.199
(7)ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(8)Gambero,op.cit,p.249
参考のため英語原文を載せておく。拙訳はわかりやすさのために、語を補っている。
"As a consequence of common generation, Mary would have had to contract original sin had she not been preserved by the grace of the Mediator."
(9)ジョン・ハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店、1986年)「無原罪の宿り」項は次のように説明しているが、「保護」の観点が欠けているため、非常にわかりにくい。
「スコトゥスは、マリアに原罪がなかったことと、マリアがキリスト降誕前に懐胎したことを調和させるために、キリストの功績を先取りして事前に救われたという考えをとり入れた」
『岩波 キリスト教事典』(岩波書店、2002年)「無原罪の宿り」項にいたっては、ほとんどあさっての方向に行っているように見える。
「ドゥンス・スコトゥスは「キリストの功徳の予見」という概念を導入し、神の選びによってマリアがキリストによる救いにあらかじめ参与させられたと説明した」
(10)Ott,FCD,p.202

(文責・金田一輝)



posted by kanedaitsuki at 20:24| Comment(12) | TrackBack(0) | 感傷的マリア論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
無原罪の日に無原罪エントリとは粋ですね。

スコトゥスについての説明として、今まで聞いた中で一番わかりやすいです。感謝。
Posted by あんとに庵 at 2007年12月10日 23:53
あんとに庵さん、コメントありがとうございます。

>無原罪の日に無原罪エントリとは粋ですね。

いちおう、ピークがここに来るよう調整してました(笑

>スコトゥスについての説明として、今まで聞いた中で一番わかりやすいです。感謝。

たぶん一番わかりやすいのは上のデーヴ・アームストロングの比喩でしょうね。
ちなみにスコトゥス編はまだ続きます。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月11日 09:40
はじめまして。
このブログを拝見していて浮かんでくる素朴な疑問なのですが、「カトリックの擁護」と「趣味としてのカトリシズム」というのは、金田様の中でどのように両立しているのでしょうか?

Posted by 素朴な疑問 at 2007年12月22日 11:13
連投になってしまいすみません。
金田様はニューマン枢機卿を「古典的カトリック護教家」と考えておられるようですが、これはどのような根拠に基づくものでしょうか。四十代半ばで英国国教会からカトリックとなったニューマンにそのような表現を用いるのがはたして妥当なのでしょうか? また例えば下記サイトでは「長らく続いたJ・H・ニューマン枢機卿への異端の疑惑が晴れた」という表現が用いられていますが、これらの疑問について金田様はどのようにお考えになりますか?
Posted by 素朴な疑問 at 2007年12月22日 11:34
「下記サイト」とは以下のものです。たいへん失礼いたしました。
http://www.kyoyusha.com/tokinonagare-tachiyomi.html

Posted by 素朴な疑問 at 2007年12月22日 12:50
素朴な疑問さん、

個人的な心証として、「素朴な疑問」さんは「荒らし」の類だとは思いませんが、しかし、「素朴な疑問」のような捨てハンは今後ここでは使用しないでください。

>このブログを拝見していて浮かんでくる素朴な疑問なのですが、「カトリックの擁護」と「趣味としてのカトリシズム」というのは、金田様の中でどのように両立しているのでしょうか?

わからないです。
ブログタイトルはあえて直線的なものがかっこいいかなと思いました。
「趣味」というのは、以前から私は「神学が趣味」と公言していたので、説明文として入れました。
あとは中身を読んで読者が勝手に判断すればいい話かと思います。

>金田様はニューマン枢機卿を「古典的カトリック護教家」と考えておられるようですが、これはどのような根拠に基づくものでしょうか。

たしかにそう思ってますが、それは大部分はデーヴ・アームストロングを読んだ印象からです。あるいは間違っているのかも知れません。
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月22日 19:09
お返事ありがとうございました。名前は変えます。
「感傷的マリア論」とありますが、ここまで読んできて、少しも「感傷的」でないことにびっくりしています。 Dave Armstrongの論考はCatholic Answersなどで時々見掛けるくらいですが、この人もまたいろいろな思想遍歴をたどってきた人物のようですね。
こちらからの勝手な疑問にお時間を割いてくださり、ありがとうございました。いろいろと興味をひかれる内容のブログですので、そのうちまたお訪ねすることもあるかと思いますが、今後もよろしくお願いいたします。
Posted by 素朴な疑問 改め Arensky at 2007年12月22日 20:14
Arenskyさん、コメントありがとうございます。

>「感傷的マリア論」とありますが、ここまで読んできて、少しも「感傷的」でないことにびっくりしています。

話せば長くなるので端折りますが、「感傷的マリア論」は仮の記事カテゴリなので変更するかも知れません。
というか、素人のマニアックな話を読んでいただけて、大変光栄です。別の記事の投稿で忙しく、続きがなかなか書けません。
私はおどろくほど記憶力がないので、いったんリセットしてしまうと、次に書くためには、かなり長いチャージが必要なんです。
なるべく年明けには再開したいです。

>Dave Armstrongの論考はCatholic Answersなどで時々見掛けるくらいですが、この人もまたいろいろな思想遍歴をたどってきた人物のようですね。

プロテスタント福音派からのカトリック改宗者です。
護教に関して、かなりこの方の影響を私は受けています。ご存知かと思いますが、以下のブログから、彼の膨大な記事にアクセスできます。
http://socrates58.blogspot.com/
逆に言うと、影響を受けすぎているところがあると思うので、意識してバランスを取りたいとは思ってます。

>こちらからの勝手な疑問にお時間を割いてくださり、ありがとうございました。いろいろと興味をひかれる内容のブログですので、そのうちまたお訪ねすることもあるかと思いますが、今後もよろしくお願いいたします。

こちらこそよろしく。叱咤激励願います。叱咤は少なめで(笑
Posted by kanedaitsuki at 2007年12月23日 12:29



(2)『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)「聖母マリアの無原罪の宿り」項によれば、「生命の付与、または胎児(embryo)に魂の注入されるのは、女児の場合には受胎の瞬間ではなく、約3ヶ月後であるとされていた」。
Posted by りごり at 2008年08月04日 00:55
驚き、桃の木、山椒の木……40年以上もカトリック信徒ですのに、「無原罪の御宿り」の教義が、かくまで深いものとは存じませんでした。マリア様といえば、もう清い清いお方で、われわれとは違って、受胎の瞬間から原罪を免れていた、とは、心から信じていました。今でもそうなんですが、お説の論文を読んで、背後には、驚くべき神学があったのですね。こんな風には、教えられたことがありませんので、新鮮な感動です。トウシロですので、十分には分からないのですが、おっしゃる内容に梗概は、何となく分かった気がいたします。次の公式すばらしいですね。

無原罪の御宿り=最も完全な贖罪

ところで少し気になるのは、中世の神学者たちは、能動的受胎と受動的受胎の間に、時間的な間隔があると考えたのでしょうか。次の引用にもあるように……。

(2)『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)「聖母マリアの無原罪の宿り」項によれば、「生命の付与、または胎児(embryo)に魂の注入されるのは、女児の場合には受胎の瞬間ではなく、約3ヶ月後であるとされていた」。この時間的間隔によって、肉体に霊魂が注入される瞬間に、原罪が感染する……まあ、こんなことでしょうか。われわれの場合は、原罪は、洗礼によって清められると教えられましたが、マリア様の場合は、洗礼の必要はなかったようですね。


いずれにしても、私は、意味がよく分からないのに、この教義を深く尊敬しています。それは、ルルドで聖ベルナデッタにマリア様がおっしゃった「私は無原罪の宿りである」ことなどによります。ルルドと聖ベルナデッタを心から尊敬しています。どうも金田さんから見れば、あまりに感傷的な信心でしょうがね。要するに才がないのです。しかしながら、このようなすばらしい論文を発表して頂いて、心から感謝します。私の信仰が、大いに深まりそうです。



Posted by りごり at 2008年08月04日 01:24
りごりさん、コメントありがとうございます。

既に連載休止し、デッドストック化している記事をアゲてくれて、ありがとうございます。

>お説の論文を読んで、背後には、驚くべき神学があったのですね。こんな風には、教えられたことがありませんので、新鮮な感動です

教義は「結論」を表しているに過ぎませんから、その前の膨大な神学的論議の過程は背後に隠されたままです。その辺りを突っ込みたかったのだこの記事執筆の動機のひとつです。

>ところで少し気になるのは、中世の神学者たちは、能動的受胎と受動的受胎の間に、時間的な間隔があると考えたのでしょうか。

あると思っていたみたいですね。この間隔の問題は教義の上では未だ解決はしていないはずです。というのは、「無原罪の御宿り」の教義宣言では、マリアは「魂注入の瞬間から原罪を免れた」と表現するのみで、能動的受胎と受動的受胎の間の間隔については触れていないからです。間隔があろうがなかろうが、無原罪教義は成立します。
Posted by kanedaitsuki at 2008年08月04日 09:12
金田氏の以上の論文、4年前に読ませていただき、感動いたしました。それでコメントいたしましたが、たまたま明日無原罪の御宿りの祝日である今日、改めて読ませていただきました。
 
 前よりも少しよく理解出来たようです。特に福者ドゥンス・スコトゥスの素晴らしい論証は、カトリック教会の宝ですね。
 この論文を再読三読させていただきます。さらによく理解したいと思っています。
古希を越えた小生の、これまでの信仰の至らなさを補いたいと思います。神さまがどうかこの努力を祝福して下さいますように。

そして金田氏も、今後もますます、このような素晴らしい論文を発表していただくことを、心から期します。

ありがとうございました。
Posted by りごり at 2012年12月07日 17:06
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