2008年03月05日

カトリックのトリセツ:伴事的破門(自動破門)

伴事的破門(自動破門)

excommunicatio latae sententiaeにあてられた邦語。
かつて某巨大掲示板で、ある方が「自動破門」という用語を使ったところ、そんなものは教会法典には出てこないなどと大勢に散々こき下ろされていたことがある。件の人物は、automatic excommunication(自動破門)はexcommunicatio latae sententiaeの通称として一般に使われ、検索にかければいくらでも出てくる、と反論したが、大方の支持は得られなかった。
非難する側の無知無教養ぶりには苦笑せざるをえないが、そもそも「自動破門」は教会法典に出てこないが「伴事的破門」なら出てくるという短絡的な結論もどうかと思う。というのは、正式な法文はラテン語であって、日本語ではないからである。
latae sententiaeは直訳すれば「判決が言い渡された」という意味で、ferendae sententiae「判決が言い渡されるべき」と対として使われている。お分かりの通り、どこにも「伴事的」などという訳語にあたる部分はない。「伴事的破門」も「自動破門」と同じ程度の意訳に過ぎないのである。
Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2"(Servant)で確認しておこう。

教会法が犯罪に対する罰を自動的に下す場合(例えば堕胎をした者に下る破門)、法によればこれは「判決が言い渡された(latae sententiae)」罰である。著者たちを含む多くの教会法家は「判決が言い渡された(latae sententiae)」という語と交換可能なものとして、「自動的な(automatic)」という語を使っている。したがって、「判決が言い渡された破門(latae sententiae excommunication)」と「自動破門(automatic excommunication)」は同じものである。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",Servant,2007,p94

しかしこの場合「自動的な」とはどういう意味なのか、いまひとつ判然としない方もいるだろう。おそらくそうした分かりにくさは、一般の市民法とは違った教会法の特異性に原因がある。
まず、該当する教会法典の条文を見ておこう。

CIC can.1314
多くの場合、刑罰は「判決が言い渡されるべき」刑罰であり、刑罰が科せられた後でなければ犯人を拘束しない。ただし、法律又は命令が、犯行が行われた事実そのものによって刑罰が下ると明白に規定していれば、伴事的刑罰である。
(註・英訳を参照に私訳した)

つまり、通常は、一般の市民法と同様教会法でも、刑罰は裁判による審理ののちはじめて下る。しかし、一部の刑罰は、審理なしに、従って裁判なしに下る。それが教会法特有の「伴事的刑罰(自動刑罰)」である。直訳の「判決が言い渡された」からも分かる通り、「自動刑罰」の場合、いわば法文そのものがすでに判決文なのである。未来にあるであろう犯罪に対して、あらかじめ判決を告げているわけである。
それゆえ、自動刑罰は、その犯罪事実そのものによって、あるいは、法そのものによって、自動的に下る。つまり、法理から言えば、犯罪を実行したまさにその瞬間に下る。

can.1314は、それらが科せられるか宣告されるまでは犯人を拘束しない「判決が言い渡されるべき」刑罰と、即時に拘束する「判決が言い渡された(自動的な)」刑罰とを区別している。それゆえ、意図的に教皇を殴ったカトリック教徒は、拳が教皇の鼻先に触れた瞬間に破門制裁を受ける。もちろん、教皇が単に空き時間にボクシングの親善試合を楽しんでいたわけではないということが前提であるが。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",p95

ここから奇妙な事もたしかに生じうる。完全に秘密に行われた犯罪の場合、仮にそれが自動刑罰に値するものであっても、本人以外はその事実を知りえないから、事実上刑罰の法的強制力がないかのような状態が生じうるのである。この場合、法は単に犯人の良心を拘束するだけである。
実際は、自動刑罰であっても、権能のある裁治権者による宣告が成されるのが通常である。例えば1988年6月30日、違法の司教叙階を実行した瞬間に、ルフェーブルは使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けた(CIC can.1382)。ルフェーブルはあらかじめこの犯罪を実行するとメディアを通して予告もした上、公衆の面前で公然と犯罪行為を成した。従って、ルフェーブルが自動破門を受けたことはすでに誰の目にも明らかであったが、翌7月1日司教省長官名によって「破門宣告」が公布されて確定的となった。
can.1331では、宣告されていない自動破門(non-declaerd latae sententiae excommunication)と宣告された自動破門(declared latae sententiae excommunication)を区別している。自動破門も、宣告されてはじめて十全な法的効力(full legal effects)を持つのである("New Commentary on the Code of Canon Law",Paulist,2000,p1536参照)。
それにしても、裁判なしに刑罰が下されるなどということは、近代法にもとるとも思われる。ここで念頭に置かねばならないのは、教会法上の刑罰の第一の目的が何であるかということである。たしかに、刑罰が自動的なものとなっているのは、その犯罪の重大性を鑑みてである。しかしそれは、まずもって犯罪者を重罰に課すことが目的なのではなく、むしろそもそも犯罪を犯すことのないようにという抑止効果を期待してのことである。実際の抑止効果がどれほどのものか客観的に測ることは難しいが、少なくとも裁判なしの刑罰の方が裁判ありの刑罰よりも抑止効果が高いであろうことは推測できるだろう。
もちろんこうした抑止効果は、究極的には信徒の良心を前提にしている。ホセ・ヨンパルトが言うように、教会法の拘束力はあくまで「一人ひとりの信者の自由意志によるものであり、教会の権威を自発的に認めることにその根拠がある」(『教会法とは何だろうか』、成文堂選書、1997年、p9)からである。
これらのことから言えるのは、信徒にとって重要なのは、自動破門が法理上何であるかや、ある犯罪について実際に自動破門が生じたかいなかを、教会法典の文字面にこだわって侃々諤々することよりも、自動破門を規定した教会当局の意図を汲み取って、それに相応しい行動を採ることであろう。例えば前教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令「ecclesia dei」の「(ルフェーブルの)離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法によってあらかじめ定められた破門という罰を受ける」という言葉は、そのような勧告として受け取られるべきである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり



posted by kanedaitsuki at 12:32| Comment(0) | TrackBack(0) | カトリックのトリセツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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