2008年03月13日

カトリックのトリセツ:教皇不可謬権

教皇不可謬権

「無原罪の御宿り」と並んで、字面で誤解される率100パーセント近いカトリックの教義の一つ。
一例として「日本キリスト教団 須賀川教会のホームページ」から引こう。

カトリック教会とプロテスタント教会の解釈が別れる代表的な聖書箇所。カトリック教会は、この18節「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」を根拠に、主は、「岩」と呼ばれたペテロを後継者として認め、天国の鍵を渡した。そのペテロの正当な後継者であるのがカトリック教会の教皇であると。これを「教皇の首位権」と言います。つまり、カトリック教会だけが、代々の正当なキリスト教だという意味になります。現在のヨハネ・パウロ二世は、使徒ペテロから数えて264代目となります。更に教皇の首位権を強化するあまり、1870年には、「教皇の不可謬性」が教義とされました。「教皇の不可謬性」とは、信仰や道徳に関して教皇が教皇座から教示するとき、すべての誤謬から守られると言うもの。簡単に言えば、教皇は間違がったことは絶対に言わないし、間違いも犯さないということ

説教ワンポイント「わたしの教会を建てる」

文章から判断して、この教義について十分調べたことは明らかである。従って、概ね正しい記述になっている。しかし、肝心要の最後のまとめの文がおかしい。
まず、不可謬権は教皇のすべての言動には及ばない。「教皇座から教示するとき」とある通り、公式に、教皇職の発動として、全信徒を拘束する形でなされる場合に限定される。また、不可謬性は不可罪性を意味しない。「信仰や道徳に関して」とある通り、教義を宣言する時以外の、教皇の個人的な言動に間違いがあり得ないなどということではない。
教皇不可謬権の定義(Pastor Aeternus)を自ら読んだに違いないにもかかわらず正確な理解に達しないのは不思議と言えば不思議だが、もともとカトリックの教義全体に不案内なプロテスタントの方ならば、仕方がないとは言える。しかしプロのカトリックですら、故意かそうでないかはともかく、とんでもない誤読をしていることある。
『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』(春秋社、2005年)の訳者でラッチンガーの弟子でもあった里野泰昭氏は同書解説において、あくまでラッチンガーが述べたこととして次のように書いている。

ラッチンガー教授は、不謬性を教皇個人の問題としてでなく、全教会の問題として考えます。信徒を含んだ全教会がまず不謬であるのです。ついで全司教の問題としてとらえます。不謬性を定義した、第一ヴァチカン公会議の文書を分析することによって、不謬性の条件として、全司教との一致において決定するという言葉が入っていることを指摘します。

(・・・)

ローマの司教は自分ですべてを決めるのではなく、常にほかの司教たちとの一致において決定したのです。しかし一致が得られないとき、全教会の一致の保証として、ローマの司教が決断を下したのでした。

『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』、pp223-234

前後のつじつまがあっていないので後半は置くとして、「不謬性の条件として、全司教との一致において決定する」という文言は聞き捨てならない。

教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神が、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである

Pastor Aeternus(DS 1839)

教皇は、単に全司教を「代表」して教義を定義決定するのではない。それでは教皇不可謬権は単なる形式に過ぎず、実質的意味を失う。首位権を名誉的に認めることが実際には首位権の否定になるのと同様、不可謬権を形式的にのみ認めることは実はその否認なのである。教皇不可謬権は、あくまで教皇単独で不可謬権を行使できるということである。
しかしここで、逆方向の誤解をしてはならない。不可謬権は教皇のみに与えられたわけではない。不可謬性はキリストの建てた教会全体に付与されているのであって、それを保証するものとして司教団とその目に見える頭という位階秩序がある。それゆえ、不可謬権はその行使の仕方に存すると言える。不可謬権は公会議において司教団によって行使されることもあるし、聖座宣言において教皇単独で行使されることもある。さらに言えば、通常普遍教導権によっても、すなわち荘厳宣言による定義なしにも、行使されうる。
このように見ていくと、教皇不可謬権は、教皇首位権と教会についての幾つかの教義から合理的に推論できるとはいえ、教義全体の秩序においては例外的あるいは周辺的な位置にあると言える。実際、はっきり聖座宣言で定義されたと確証できる教義がどれなのかについては、神学者間に不一致が見られる。かろうじて合意に達している数は十前後とごくわずかであり、最低限に見積もれば「無原罪の御宿り」と「聖母被昇天」の二つのみになる(Francis A. Sullivan "Creative Fidelity: Weighing and Interpreting Documents of the Magisterium"WIPE and STOCK,1996 pp80-92参照)。
教皇不可謬権の教義は単なる誤解の的であるばかりでなく、エキュメニズムの主要な障害の一つでもある。しかし、それならばそもそも教皇首位権からしてそうであるし、こちらの方が教義全体においても、信仰生活においても、重要度は格段に高い。つまるところ、教皇首位権の正当な再解釈を通じてのみ、不可謬権の教義の意義のさらなる解明が進むのであろう。それまでは、教皇不可謬権の理解に対する可謬を可能な限り避けることが、とりあえずまず必要なことなのである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。



posted by kanedaitsuki at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | カトリックのトリセツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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