2008年08月05日

「破門されたら叙階は無効になる」という異端説

今回はpinpinkorori氏が信じてやまない「破門されたら叙階は無効になる」という異端説にスポットを当てたい。
これが異端説であることは次の教義に反するゆえに、明白である。以下『カトリック教会のカテキズム』邦訳版から引用する。

CCC 1581 叙階の秘跡は、キリストの道具となって教会に奉仕させるため、聖霊の特別な恵みによって人をキリストに似た者とします。叙階によって、祭司・預言者・王というキリストの三職を、教会の頭であるキリストの代理者として果たすことができるようになります。


CCC 1582 洗礼や堅信の場合と同様、このキリストの任務への参与はただ一度ゆるされるだけです。叙階の秘跡もまた、消えない霊印を与えるので、繰り返し受けることも、期限付きで授けることもできません。

CCC 1583 重大な理由があれば、有効に叙階された者が、叙階に伴う義務や職務から解かれるか、この行使を禁止されることがあります。しかし当人は、厳密な意味では、もはや信徒の身分に戻ることはできません。叙階によってしるされた霊印は消えることがないからです。叙階の日に受けた召命と使命とは、その人に消えないしるしを刻むのです。

CCC 1584 叙階された役務者を通して働き救いをもたらされるのはキリストですから、彼らにふさわしくない行動があったとしても、キリストの働きが妨げられることはありません

この「叙階の永遠性」の教義はトリエント公会議の教義決定に基づいている。

叙階の秘跡において、洗礼と堅信におけると同様、消されることも、除去されることもない霊的印章が与えられるのであるから、聖なる公会議は次のように主張する者の意見を排斥する。すなわち、新約の司祭は一時的な権能だけを持つものであり、神のことばの奉仕に従事しない者は合法的に叙階されていても再び一般信徒になることができる。


トリエント公会議第23総会第4章(DS 1767)

「破門されたら叙階は無効になる」というのは、司祭(司教)を「一時的な権能だけを持つもの」と見なすことであり、トリエント公会議によって排斥された考えである。従って異端説である。Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"(TAN)でも、「叙階の秘跡は受領者に霊印を印す」「叙階の秘跡は受領者に永久的な霊的力を伝える」(p457)とあり、どちらも不可謬的教義(de fide)としている。異端は「受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に否定するか、またはその真理について執拗な疑いを抱くこと」(CCC 2089)であり、教会法によれば「自動破門」を受ける(CIC 1364(1))。

ところでこのpinpinkorori氏が奉じている「破門されたら叙階は無効になる」という異端説から、ドナティストの事例を想起する者もいるだろう。ドナティストは4世紀頃、皇帝の迫害に屈した者たちを「裏切り者」と見なし、彼らの洗礼や叙階を無効と見なした人々である。
『キリスト教史 2』(平凡社ライブラリー)からさわりをご紹介しよう。

ドナトゥス説の出発点はごく限られたものであったが、その結果はメレティオスの離教よりはるかに重大であった。今度は離教者(ラプシ lapsi)の問題ではなく、ただ、ディオクレティアヌス帝の第一勅令のよって命令された<引渡し>(トラディティオ traditio)に同意し、教会の家宅捜索に来た行政官に聖書を「引き渡した者」、信仰を「裏切った者」(二重の意味のトラディトーレス traditores)として告発された司教たちの運命に関することであった。すでに三〇五年三月五日にキルタで開かれたヌミディアの教会会議は、アフリカの司教たちがいかに熱狂的に相互に放逐し合っていたかを示している(良くあるように、他人を最も熱心に告発する者が、かならずしも非難すべき点のない人間とは限らない。
すべて事件の出発点は、三一二年、カルタゴの司教に、カエキリアヌス助祭長(Caecilianusu 三四二年頃没)が選ばれた時の選挙にあった。これはヌミディア司教団によって支持されている、より厳格主義の傾向をもつその土地の一派の反対をかき立てた。この反対派は、先の叙階で働いた三名の司教の一人アプトゥンギのフェリックス(Felix)が、<引き渡し>の罪人と考えられることで、きわめて丹念なやり方をもってカエキリアヌスの司教叙階の有効性に抗議をしたのである。カエキリアヌスに対抗して別の司教が選ばれた。やがてこの司教を継ぐのが、その初任地カサエ・ニグラエ司教座から移された大ドナトゥス(Donatus 三五五年没)である。彼は精力的で強い影響力をもつ人物で、歴史がその名を冠した<離教教会>の真の組織者だった。
ドナトゥス派は実際に、<引渡し>の罪を非常に重大視したため、この有罪人の一人と交わりを結んでいるという一事で(時がたつにつれ、かつてこうした有罪人と交わったことのある人物の後継者と交わったという一事でさえも)十分に同じ汚名を着せ、今度はその人物を<裏切り者>(トラディトル traditor)、背教者としてキリスト教徒の名に値しないものとすることができるのである。この<裏切り者たち>(トラディトーレス traditores)から授けられ、あるいは受けた一切の秘跡は無効とみなされた。ドナトゥス派は、自発的であれ強制的であれ、自分たちの列に参加してきたカトリック教徒に再洗礼を施した。


上智大学中世思想研究所編訳/監修『キリスト教史 2』、平凡社ライブラリー、1996年(原書1963年)、pp60-62

つまり、一度有効に叙階された者も、迫害に屈服し背教した者は、神に対する裏切り者だから、彼らによる秘跡は無効になる、とドナティストは考えたようである。
この考えは次のpinpinkorori氏の極めて感情的な反発と共鳴している。
http://defencecatho.seesaa.net/article/103704778.html

教皇に反抗した行為が有効などと思うほうが異常な感覚なのです。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月28日 07:31


「裏切り者(背教者)による秘跡は無効である」とするドナティストがどうなったかはみな承知のことであろう。アウグスティヌスが論陣を張って彼らに反駁し、アルル教会会議(314年)によって彼らの説は異端として排斥された。秘跡の有効性に関する事効説(ex opere operato)の原則はまさにこのことによって確立したのである(同上p66参照)。その不可謬決定はトリエント公会議まで待たなければならないが。
お分かりの通り、「教皇に反抗した行為が有効などと思う」のはぜんぜん「異常な感覚」ではない。まったく逆である。むしろpinpinkorori氏のように、「教皇に反抗した行為」によって「叙階が無効になる」などと思う方が「異常な感覚」なのだ。教会の不可謬的教義に反するがゆえにである。

(文責・金田一輝)




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2008年08月02日

秘跡の有効性の条件について

今回は少々マニアックな話である。

pinpinkorori氏は当ブログコメント欄で以下のように述べている。
http://defencecatho.seesaa.net/article/102215744.html#comment

「叙階は違法であるが有効である。」
以上の理解ですと秘跡の次元では彼らは教会内部ですか?私は、1988.6.30の聖別の「瞬間」の破門通達の事実から(破門宣告7.1の前でした)有効でなくそのため
ex opere operato(秘跡の事効的効力)「なされた行為そのものによる効力」は、瞬間で不完全でありなされていないと解釈していました。
したがって破門された瞬間に ex opere operantis(人効的効力)「行為する人の人格によって効力がある」となって、lefebvreは破門者で人格がないから秘跡は無効であると20年以上理解してきました。lefebvre自身そう自覚して無効と思っていたと思います。いかがでしょう?。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月08日 23:12

冒頭の6.30の「瞬間」の破門通達云々は、おそらくpinpinkorori氏が「自動破門」をよく理解していないための混乱であり、ここでは扱わない。
(詳しくは以下を参照。
「犯罪の前に刑罰が下るという怪奇」
http://defencecatho.seesaa.net/article/103978764.html
目を引くのはここでpinpinkorori氏が唐突に事効的効力という概念を持ち出していることで、よほど知っていることがうれしいのか、その後もこの語を何度か大した必然性もなしに持ち出している。しかし、正直言って、何のためにこの用語を持ち出しているのか、ぜんぜんぴんとこない。おそらく、使っている本人自身この用語の意味をあまり正確には理解してないのだろうと推察する。
「事効的効力」とは「行われた秘跡の儀式によって、秘跡は常に恩恵を与える」ということを意味する("Pocket Catholic Dictionary"'EX OPERE OPERATO'(Doubleday))。「秘跡の恩恵を決定するのは秘跡を授ける者や受ける者の徳ではない」(ibid.)。「真の意味で、秘跡は恩恵の道具因である」(ibid.)。それゆえ、「事効的効力」に関して問題となるのは秘跡が正しく行われたかどうかであって、その執行者が破門されたか否かではない
pinpikorori氏は上記コメントにおいて、破門された瞬間に「人効的効力」となった、と言っているがこれもまったく意味不明である。「lefebvreは破門者で人格がない」というのもひどい話で、破門されても人格を喪失するなどということはない。もし、本当に人格が失われるのならば、被破門者は罪を悔いる機会も奪われるし、かりに死刑にされても文句は言えないはずである。「第二バチカン公会議が懲罰を捨てた」と主張している当人にしては、あまりに厳しい厳罰主義である
「人効的効力」は、「事効的効力」と対になった概念であり、「主に秘跡を受領する者の善き性向(good disposition)に適用される」("Pocket Catholic Dictionary"'EX OPERE OPERANTIS'(Doubleday))。pinpinkorori氏は、破門によって「事効的効力」が「人効的効力」に転換するという、今まで誰も見たことも聞いたこともない摩訶不思議な理論を繰り出しているが、こんな教えはカトリック教会には存在しない。というのは、「事効的効力」と「人効的効力」は対概念ではあるが、必ずしも常に背反的なわけではないからだ。

よくある曲解や非難に対して、強調されねばならない教会の教えは、事効的な秘跡の効果を機械的ないし魔術的効果と解釈しては決してならないということである。人効的効力は排除されていない(The opus operantis is not excluded.)。反対に、成人の受領者の場合は明白に要求されることである。それにもかかわらず、受領者の主観的性向は恩恵の原因ではない。それは単に、恩恵が伝わる際の不可欠な条件に過ぎない。


Ludwig Ott"Fundamentals of Catholic Dogma"TAN,1955,p330

つまり、事効的効力なしには有効な秘跡は成立しないが、その際人効的効力がぜんぜん無関係であるということでもないのである。
20年もの間本人以外にはまったく意味不明の考えpinpinkorori氏はよくも抱き続けたものであると感心する。

さて、秘跡が有効であるためには質料(matter)、形相(form)、意向(intention)の三つの条件が必要である。

すべての秘跡は三つの要素によって完成する。質料としての物。形相としての言葉。教会が行うことを行うという意向を持って秘跡を授ける人。これらの要素の一つでも欠ければ、秘跡は効力を持たない。


Exsultae Deo(アルメニア人合同の大勅書)(DS 1312)

叙階の秘跡で言えば、質料は司教による「按手」であり、形相は叙階の際の秘跡書に従った言葉である。
三要素の内、残りの意向は少々理解しがたく、拡大解釈をする者が多々見られる。「異端者や離教者の叙階は、彼らが教会の信仰に逆らっているがゆえに、教会の意向に反している、だから無効である」と誤謬推論する人があとを絶たない。
詳しい説明は専門家にまかせるが、まず理解しておくべきことは、「質料」と「形相」が揃っていれば、通常「意向」もあると仮定されるということである。

意向は本来内的なものであって、教会はそれについて判断をくださないが、それが外部に現れる時、それを判断しなければならない。秘跡を挙行し、これを授ける場合、正当な質料と形相とを慎重に正しく使用することによって、教会が行うことを行おうという意向があると考えられる。この原則から、異端者あるいは非受洗者によって授けられた場合でも、カトリック教会の儀式によって授けられたものであれば、真の秘跡であるという教理がある。


Apostolicae curae et caritatis(英国国教会の叙階の無効性)(DS 3318)

これで分かる通り、秘跡執行者の思想が何であるかは、秘跡の有効性に必要とされる「意向」には直接は関係がない(お分かりの通り、人効的効力で言うところの「主観的性向」(subjective disposition)とも混同できない)。
これは極端な例を見てみれば理解できる。例えば、洗礼において授与者が、洗礼は霊魂に何の効果も与えないと表明した場合(メソジスト派)でも、その洗礼は有効である(DS 3100-3102)。

トレント公会議は、規定第11条全体で、秘跡の目的を述べてもいないし、秘跡授与者は教会が意図することを意向せねばならないとも言わないで、ただ、教会が行うことを行えと言っているのである。さらに、教会が行うこととは、目的ではなく、行為を意味しているのである。……このことから、イノケンチウス4世が『洗礼について』の第2章、第9項で述べているように、浸水によって人を濡らすだけであると信じているが、洗礼を授けるほかの人々が行う通りに自分も行うという意向をもっているサラセン人によって授けられた洗礼は有効である」。


中部太平洋代表教区長にあてた検邪聖省の解答(DS 3102)

それゆえ、ルフェーブルが教皇に従わなかったという事実は、たしかに違法であり、離教行為だが、そのことは秘跡の有効性に必要な「意向」の要素を喪失させない。ルフェーブルは有効な叙階の秘跡に関して、教会が行うことを行っているからである。
ルフェーブルは有効に叙階された司教であり(もちろん破門によってもその叙階は無効にならない)、教会の秘跡書に従って行ったから、質料も形相も意向も揃っている。従って、ルフェーブルによる司教聖別は、正しく儀式が行われたがゆえに、まさしく「事効的に」有効なのである。

(註・DSはデンツィンガー・シェーンメッツァー資料集の略称。カトリック教会の信経および信仰と道徳に関する重要な文章を収録している。エンデルレ書店から邦訳されている。)

(文責・金田一輝)



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2008年08月01日

犯罪の前に刑罰が下るという怪奇

pinpinkorori氏の、ルフェーブル一派への破門に関する次の論は、もはや盲説の域を超えてオカルトの域に達している。
http://defencecatho.seesaa.net/article/103704778.html

はっきりしているのは前教皇は司教叙階を阻止するために破門としたので、それを有効とすることは前教皇の意思に反するということです。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月28日 22:23


(2008/08/06註・
「司教叙階を阻止するために破門? 何それ。
破門したのは司教叙階の後ですよ。まあ、自動破門の場合は、司教叙階の瞬間と言えますが、いずれにせよ、犯罪行為の前ではない。」
以下は、上記の私のコメントに対するレスである)



金田さんのその性急な独断は相手にされない。(一言居士で相手を必要としない議論のようですが)
犯罪行為の前といってもよい。車で式場に行けない配慮までしていたのですから。
司教叙階を阻止するための破門でした。これは別に私個人の意見ではありませんし馬鹿みたいに当たり前の話です。


Posted by pinpinkorori at 2008年07月29日 22:23

pinpinkorori氏の住んでいる世界ではどうやら時空が曲がっているらしい。もちろん、犯罪事実なしには、それに対する刑罰は成立しない。すなわち、時間的に犯罪事実以前に、刑罰が下ることなどあるわけがない。
ルフェーブル一派に対する破門宣告は、1988年6月30日の違法の司教聖別の翌日7月1日に司教省長官名で布告されている。
http://www.cin.org/users/james/files/l-excomm.htm

ルフェーブルは、去る6月17日の公式の教会法的警告と計画を取り下げるようにと繰り返した訴えにもかかわらず、教皇の指令なく、また教皇の意志に反して、四人の司祭を司教聖別するという離教行為を実行した。その結果、ルフェーブルは...教会法1364の1及び1382に基づいた罰を受けた。
すべての裁治上の効力を斟酌した上で私は宣言する。...(ルフェーブルと4人の司教たち)は(犯罪行為の)事実そのものによって使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けた。


DECREE OF EXCOMUNICATION

適用されている教会法は以下の通り。

カノン1364(1) 信仰の背教者、異端者及び離教者は、伴事的破門制裁を受ける。ただし、第194条第1項第2号の規定を順守しなければならない。かつまた、聖職者については、第1336条第1項第1号、第2号及び第3号所定の刑罰によって処罰することができる。


カノン1382 教皇の指令なしに、司教叙階を行う司教、かつ、その司教から司教叙階を受ける者は、使徒座に留保された伴事的破門制裁を受ける。

注意しなければならないのは、カノン1364(1)もカノン1382も「伴事的破門」いわゆる「自動破門」であるということだ。「伴事的」と邦訳されているように、これは「事に伴って」、つまり、「犯罪事実そのものによって(ipso facto)」下る刑罰である。
(詳しくは以下を参照乞。
http://defencecatho.seesaa.net/article/88364180.html
これから分かる通り、犯罪事実が存在しなければ伴事的刑罰は決して発生しない。法理上は犯罪事実の瞬間に下ると考えられるが、実際厳密にどの時点でかをここで詮索する必要はない。いずれにせよ、自動破門が犯罪事実以前に下ることは絶対にありえない。これは「馬鹿みたいに当たり前の話」だ。

pinpinkorori氏の主張があまりにオカルトチックで怖いので、少々考えて見たが、あるいは「破門警告」と「破門宣告」を混同しているのかも知れない。
「破門警告」なら、犯罪の前に行われている。なるほどこれは「司教叙階を阻止するため」だったと言える。実際、「DECREE OF EXCOMUNICATION」でも自発教令「ecclesia dei」でも、1988年6月17日に公式の教会法上の破門警告があったと記されている。
他の見方もできよう。pinpinkorori氏教会の公式見解に逆らって、「聖ピオ十世会の叙階は無効」だと主張している。また、それに関連して、教会の不可謬的教義を否定して、「破門されれば叙階は無効になる」という異端説を奉じている。
pinpinkorori氏にとってはこの思い込みが本当であるために、ぜひとも犯罪事実の前に破門が下ってないといけないようなのだ。pinpinkorori氏の頭の中にある妄想論理を推測するとこうだろう。

大前提:「破門されればルフェーブルの叙階は無効」
小前提:「教皇は司教聖別の前にルフェーブルを破門した」
結 論:「ルフェーブルによる司教聖別は無効」

たしかにこの妄想論理に従うなら、破門は司教聖別の前でなくてはならない。なぜなら、その後に破門したとしても、ルフェーブルの叙階がまだ無効になっていない時点で行われたので、司教聖別自体は有効だということになるからだ。もちろん、これは完全に狂った理屈だ。
それにしても、凡人は正しい前提から誤謬推論によって間違った結論を導き出すものだが、pinpinkorori氏の場合、前提から何からすべて間違いなのだからもの凄い。間違うことについての天才だ。もちろん、こんな「独断は相手にされない」。
pinpinkorori氏は「個人的意見ではない」という。では他に誰がこのような主張を支持しているのか、具体的にソースを挙げて欲しいものである。あるいは、それは、単なる妄想の中のお友達かも知れないが(怖い怖い)。
そもそもpinpinkorori氏の主張によれば、「第二バチカン公会議によってカトリックは懲罰を捨てた」(http://defencecatho.seesaa.net/article/103914995.html
はずなのに、なぜ教皇は懲戒罰である破門をルフェーブルに下すことができたのだろうか? 謎である。

(文責・金田一輝)



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2008年01月09日

聖ピオ十世会の叙階は有効である



聖ピオ十世会の叙階は「違法だが有効」という事に関して、一部で混乱や誤解が見られるようなので、ここで整理しておこう。
「違法だが有効」な叙階について理解するためには、前提となる二つの事柄を知っておく必要がある。
T.叙階の秘跡の永遠性
U.合法性(licitness)と有効性(validity)の差異
以下、順次、説明しよう。


T.叙階の秘跡の永遠性

叙階の秘跡はいったん受ければ取り消しえない。つまり、誰も一度有効に成された叙階を無効にすることはできない。これはカトリック教会において、教義として教えられている。"Catechism of the Catholic Church"(以下CCC)を見てみよう。

CCC 1582 洗礼と堅信と同様に、このキリストの職能の分与は一度かぎりで完全に伝えられる。他の二つと同じように、叙階の秘跡は取り消しえない霊印を与え、繰り返すことはできないし、一時的に授けることもできない。

教会法はより簡明である。

第290条 聖なる叙階は、一度有効に授けられたならば決して無効にはならない。

叙階の秘跡の主体は究極的には神であり、叙階の秘跡そのものは、いわば客観的事実である。
それゆえ教会は、叙階の有効性についての事実判断はできるが、有効な叙階を無効にすることはできない。教会ができるのは、ただ、その権限の行使を教会法的に禁止することだけである。

CCC 1583 有効に叙階された者は、正当な理由によって、叙階に結びついた義務と職務が解かれたり、それらの行使を禁止されうる。それは正しい。しかし、彼は厳密な意味において俗信徒になることはできない。叙階の日に受けた召命と宣教の使命は、彼に永遠に印づけられている。


第1338条 (2)叙階による権限を剥奪することはできない。ただし、その権限の全面的行使、又はその権限の部分的行使のみを禁止することができる。

聖ピオ十世会の司祭たちは、教会によって聖職権停止(suspension a divinis)を受けている。従って、現在彼らが司祭の職務を行うことは違法である。しかし、彼らの叙階の秘跡そのものを教会は無効にできないから、聖職権停止を受けた後も、彼らの叙階は有効のままである。これは叙階の教義そのものから論証できる。


U.合法性(licitness)と有効性(validity)の差異

合法性と有効性の違いは、特に教義として教えられることはないが、教会法の言語に慣れ親しんでいれば、ほぼ常識に属する
ここではPete Vere/Michael Trueman"Surprised by Canon Law"(SERVANT Books)を見てみよう。Vereは元聖ピオ十世会員で現在教会法学者の著述家。ちなみにこの本は教会検閲済(Nihil Obstat&Imprimatur付)である。

問7 教会法における有効(valid)と合法(licit)という語の違いとは何か?


有効性はその行為の実質にかかわり、合法という語は法に適っているかどうかにかかわる。例えば、溯ること1988年に、ルフェーブル大司教は、前もって教皇ヨハネ・パウロ2世からの委任状を得ることなく、四人の司祭を聖別した。この行為は有効(valid)である。なぜなら、ルフェーブル大司教は有効に司教に叙階されており、したがって、他の司教を聖別する権能を有するからである。しかし、大司教は教皇許可なしの司教聖別に対する教会法による禁止命令を守らなかっただけでなく、実際、そうしないようにという聖座の直接の命令の後に、司教聖別を実行した。この違法行為の結果として、教会はルフェーブル大司教と違法に聖別された四人の司教を破門した。
それにもかかわらず、聖ピオ十世会のためにルフェーブル大司教が聖別した司教たちは本物の司教(real bishops)である。カトリックの司教がすべてそうであるのとまったく同じように、彼らは秘跡を執行する力を有する。ルフェーブル大司教の離教運動を離れてカトリック教会に戻ってきた諸個人を、教会は再堅信しない。また、聖座に歩み寄り、カトリック教会との和解を求める聖ピオ十世会の司祭職(Priesthood)を、教会は承認している


"Surprised by Canon Law",SERVANT Books,2004,pp7-8

非常に明瞭な解説であり、誤読の余地がない。要するに、合法性と有効性は別の概念であり、叙階に関して言えば、違法性は有効性にまったく影響しない。それゆえ、ルフェーブルによる違法の司教叙階も、秘跡としては有効である。なぜなら、ルフェーブルは有効に叙階された司教であり、定まった形相と質料によって叙階を行ったからである。
デンツィンガー・シェーンメッツァー資料集から例を引こう。

離教した司教アカキウスが洗礼を授けた者、また彼が規定に従って司祭、聖職者に叙階した者はアカキウスの離教によって影響を受けない。秘跡の恩恵は悪人によって授けられても弱められないことは明らかだからである。(略)
したがって、悪人は善を取扱うことによって自分自身だけを傷つける。悪人によって授けられた秘跡は神聖さを汚されることなく、それを受けた者にその力を与える。


Exordium pontificatusu mei(DS 356)

したがって、ルフェーブル大司教が聖職権停止を受けた1975年から破門される1988年までの司祭の叙階のみならず、それ以降の、破門された聖ピオ十世会の司教たちによる司祭の叙階も、やはり有効である。「離教」(状態)は叙階の有効性に影響しないからである。
破門された司教をVereが「本物の司教」(real bishops)と呼ぶことに抵抗を覚えるローマ・カトリック信徒は少なくないであろうが、秘跡の観点から見れば完全に正しい記述である。
だいいち、教会のさる高官も同様の発言をしている。それは誰あろう教皇ベネディクト16世であり、教理省長官時代に次のように語っている。

教会法によれば、違法ではあるが有効な叙階があります。私たちはこれらの若い人々の人間的側面をも考慮しなくてはなりません。彼ら(聖ピオ十世会の司祭たち)は、教会の目から見れば、「真の」司祭('true'priests)です。正常ではない状況下にいますが。


"The Ratzinger Report",Ignatius,1985,pp32-33

この発言は、1988年の違法の司教叙階前であるが、すでに聖職権停止を受けているルフェーブル大司教によって違法に叙階された司祭たちについてである。合法性と有効性の差異から、Vereが聖ピオ十世会の司教たちを「本物の司教」と述べたのと同じ理屈で、ラッチンガーが聖ピオ十世会の司祭たちを「真の司祭」と言っていることは明白である。もちろんここでラッチンガーは、単に教会法的観点からだけではなくて、司牧的観点からもこのように語っている。


結論

見てきた通り、ローマ・カトリックの立場から見て、「聖ピオ十世会の叙階は有効である」ことは疑いない。しかし、だからどうだというのか? 有効であることは事実でも、聖ピオ十世会の司祭たちは聖職権停止を受けており、彼らのミサは違法である。それゆえ、「カトリック信徒は聖ピオ十世会のミサには行くべきではない」ということも、あいかわらず真である。
聖ピオ十世会の叙階が有効であるという事実は、たしかに彼らの宣伝の道具になってはいるが、正確に理解していれば、特に彼らに有利に働くわけではない。むしろ、この事実を否認し、不正確な知識に基づいて聖ピオ十世会を批判することの方が、論者にとって不利になるだろう。根拠のない偏見からは、ただしい批判は生まれないからである。

(文責・金田一輝)



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2007年09月13日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」・補足

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性について、教会文書以外の記事について幾つか見てみよう。教会文書ではないので、教義の典拠にはならないが。

まず、現在最もポピュラーと思われる総合辞典『岩波 キリスト教辞典』。


【望みの洗礼】 実際に洗礼を受けることがなかった人も、キリストや洗礼について聞く事ことがあれば洗礼を望んだに違いないと思われる人々の場合、その状態は、神の救いの意志とキリストの救いの業を考えて、実質的に洗礼を受けたに等しいものとみなされる。これを「望みの洗礼」(baptism of desire)と呼ぶ。洗礼を準備している者が迫害や他の原因で受洗前に死亡した場合、その状態をどうみなすかという問いから成立した概念である。しかし、より根本的には、神がすべての人を救いへと招いている〔Tテモテ2:4、「現代世界憲章」22参照〕とするなら、キリストも教会も知らずに神を求めている人々はどのように位置づけられるのか、そのような人々にとって、洗礼の秘跡や教会への加入、また入信式そのものがどのような意味をもつのかを問いかけている。
〔石井祥裕〕


『岩波 キリスト教辞典』「洗礼」の項、岩波書店、2002年




神の普遍救済意志から見た場合の教理教育中の未受洗者の救いの問題という教義史的前提を踏まえた上で、さらに進んで新たな神学的地平を展望している。
つづいてアメリカの著名なカテキスト、ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』(Jhon.A.Hardon "Pocket Catholic Catechism"(doubleday))から。


洗礼は救いにとって必要であるという教会の教えは、その義務は例外なく全人類に適用されるということを意味する。洗礼の恵みを通して再生するのでなければ、至福直観に達することはできない。
この洗礼の普遍的な必要性についてのキリストの教えは、緊急の場合には、望みの洗礼ないし血の洗礼が水の洗礼の代用となりうると、教会によって解釈されている。望みの洗礼とは、明示的もしくは、少なくとも暗黙的な(implicit)洗礼の秘跡への望みのことであり、自らの罪に対する完全な悲嘆、すなわち、愛徳つまり神の愛に基づく悔恨に結びついている。

ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』、ダブルデイ、1989年、p130




「緊急の場合」という限定条件、「完全なる悔恨」という必要条件がついている。望みには「暗黙的な」ものも含めるというのもポイント。
同著者の『カトリックの教理』("Catholic Catechism"(doubleday))ではさらに詳細に解説してある。


「使徒行伝」のコルネリウスについての聖書の記述によれば、彼は洗礼していなかったが「正しく立ち、神を恐れる者」であった。それゆえ、キリスト教の囲いの外部に「神を恐れる者」がおり、なかには
自らの落度でなしにカトリックの遺産に欠く人たちがいるということが徐々に明らかになってきた。そこで、そのような人たちは、カトリックの告白をしていない、あるいは必要とされる洗礼を受けてさえいなかったとしても、救いに対して開かれていると考えるという伝統が生じた。
アンブロシウスやアウグスティヌスはそうした区別のための道をつけた。12世紀までには、洗礼や教会への参入に立ちふさがる「克服できない障害」(invincible obstacle)がある場合は、そのような人は救われる可能性があるという考えが、広く受け入れられるようになっていた。
トマス・アクィナスは、教会の一般的必要性について繰り返し教えている。しかし、彼は、特別の秘跡として望みの洗礼によって救われうるということも認めていた。つまり、教会に属したいという、少なくとも暗黙の望み(implicit desire)によって、実際上の成員であることなしに、ひとは救われうると。
しかしながら、これら二つの伝統(引用者註・教会の必要性と教会外での救いの可能性)を対立的にとらえるのは適切ではないだろう。これらは、救いの普遍的秘跡としての教会という単独の神秘を表現している。教会教導権は、一見矛盾に見えることが、実は両立する論理(paradox)であるという形で、それを表現してきた。
「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」と1215年の第四ラテラン公会議で教義決定されて以来、1302年教皇ボニファティウスによるものと、1442年のフロレンス公会議での二つの荘厳決定がある。カトリックの妥協の無さの象徴と一般に見なされているトリエント公会議で、こんにち慣れ親しんだ形での望みの洗礼の教義が荘厳に決定された。教会の実際的成員(actual membership)であることは永遠の運命に達するために必要ではない。その後のすべてのこうした認識は、このトリエントの教えによって支持されている。

ジョン・A・ハードン『カトリックの教理』、ダブルデイ、1981年、pp234-235




救いのためには必ずしも実際に教会に属する必要はない、と言い切っているところに目を引かれるが、これは「教会の普遍的必要性」と矛盾しない範囲で、慎重に理解されねばならないところでもあろう。
しかし、それにしても踏み込み過ぎではあり、これもまた第二バチカン公会議の悪影響であると勘ぐる向きもあるかと思うので、より古いルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』(Ludwig Ott "Fundamentals of the Catholic Dogma"(TAN))も見ておこう


カプ・フィルミエにおいて、第四ラテラン公会議(1215)は宣言している。「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」D430。この教えと同様のものは次の通り。フローレンス合同会議(D714)、教皇イノセント3世(D423)、ボニファティウス8世「ウナム・サンクトゥム」(D468)、クレメント6世(D570b)、ベネディクト14世(D1473)、ピウス9世(D1647,1677)、レオ13世(D1955)、ピウス12世「ミスティチ・コルポリス」(D2286,2288)。近代の宗教無差別主義に対するものとして、教皇ピオ九世は次のように宣している。「使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは洪水により滅びる。にもかかわらず、等しく確かに信じられねばならないことがある。真の宗教に対する不可抗的無知(invincible ignorance)に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない、ということである。」(D1647)。後半の命題は事実として(in point of fact)教会に属していない者の救いの可能性を述べている(D1677;796参照)。
教会への所属の必要性は、単に教えの必要性であるだけでなく、手段の必要性でもある。聖書の洪水からの救いの手段である箱舟との比較で明らかなように。しかしながら、手段の必要性は絶対的な必要性ではなく、仮定的な(hypothetical)必要性である。特定の状況、すなわち、不可抗的無知や不能性の場合、実際上の教会の成員であることは、望みのそれに代えられうる。この必要性が明示的に現れておらず、神の意志を実現しようという忠実な道徳的意向の中に含まれていることもありうる。このような仕方で、事実上教会の外側にいる人々も救いに達しうる

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、p312




ここでもまた、救いにとって実質的な教会の所属は絶対的に必要なことではないことがはっきり述べられている(もちろん、ハードンがこの書を参照しているのだ)。
同著の「望みの洗礼」も念の為に見ておく。


緊急の場合、望みの洗礼、あるいは血の洗礼は、水の洗礼に代わりうる

a) 望みの洗礼
望みの洗礼とは、(愛徳に基づく)完全なる悔恨をともなった、明示的ないし暗黙的な洗礼の秘跡への望みである
トリエント公会議は、原罪からの義化が「再生の洗礼、もしくはその望みなしには」可能ではないということを教えている(D769、D847,388,413参照)。
聖書の教えによれば、完全な愛は義化の力を持つ。ルカ7:47「彼女の多くの罪は許された。彼女が多く愛したからである」。ヨハネ14:21「私を愛する者は、私の父に愛される。私も彼を愛し、彼に私を示すだろう」。ルカ23:43「今日、あなたは私とともに天国にいるだろう」。
伝統における主要な証人は、聖アンブロシウスと聖アウグスティヌスである。洗礼なしに亡くなったヴァレンチヌス2世の葬儀の式辞で、
聖アンブロシウスは述べている。「彼は待ち望んだ恵みを得なかったのだろうか? 望んだのだから、確かに彼はそれを得たのだ。彼の敬虔な望みは彼を赦した」(De obitu Valent.51,53)。聖アウグスティヌスは言う。「もし時間的な不足により洗礼の秘儀の儀式が許されなかったとしても、キリストの功徳によって、殉難死だけでなく、心からの信仰と回心もまた、洗礼の欠如を補いうる」(De bapt.W 22,29)。初期スコラ学の時代には、クレルヴォーの聖ベルナール(Ep.77 c.2 n 6-9)、聖ヴィクトルのフーゴー(De sacr.U 6,7)、そして命題論集(V5)が、ピーター・アベラールに反対して望みの洗礼の可能性を擁護している(神学大全V68,2参照)。

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、pp356-357




さらにさかのぼって、ドナルド・アットウォーター編『カトリック辞典』(Donald Attwater ed."A Catholic Dictionary"(TAN))でも、「望みの洗礼」(Baptism of desire)の項に次のように書いてある。


望みの洗礼

水の洗礼に代わりうるもののうちの一つ。洗礼が不可能である場合、完全な悔悛と純粋な神への愛によって洗礼の省略が認められるだろう。そのような行為は、聖化する恵みの注入を求める完全で究極的な意向であり、もしその機会が提供されたなら水の洗礼を受けたいという望みと意図を、少なくとも暗黙的に(implicitly)含む。幼児には望みの洗礼はありえない。異教徒については、混乱した仕方であったとしても、何であれ神の意志はなされるべきであり、なそうと望んでいるという仕方で、神を信じているならば、おそらく望みの洗礼を受けている。そのような仕方で、水の洗礼を受けていない多くの人々が至福直観を得ることができるようになったと想定するのは理にかなったことだろう

ドナルド・アットウォーター『カトリック辞典』、タン、1931年(オリジナル版)




最後に、ハードンとオットーがともに挙げている、真打トマス・アクィナスの『神学大全』も確認しておこう。


洗礼なしに救われることはありうるか?

(・・・)

答えて言う。洗礼の秘跡が誰かに欠けている場合には、二通りある。一つ目は、事実上も望みの上でも欠けている場合である。洗礼を受けておらず、その望みも無い人物の場合。これは自由意志を使用しうる人間とすれば、この秘跡に対する侮蔑を明らかに示している。従って、救いを得ることはできない。なぜなら彼らは、救いに至る唯一の道であるキリストに、秘跡的にも霊的にも組み込まれていないからだ。
二つ目は、実際上には欠けているが望みにおいては欠けていない場合である。例えば、洗礼を受けたいと望んでいたのに、機会なく洗礼以前に死んでしまった人の場合。そのような人物は、洗礼への望みのゆえに、実際の洗礼なしに救いを得ることができる。そのような望みは、愛の力によって動かされた信仰の果実である。神の力は可視的な秘跡に拘束されない。この場合、神は人を内的に聖化している。それゆえに、アンブロシウスは、教理教育中の未洗礼者のまま亡くなったヴァレンチヌスについてこう言っている。「再生すべき人を私は失った。しかし、彼が祈り求めた恵みを彼が失うことはなかった」と。

(・・・)

洗礼の秘跡が必要であると言われているのは、少なくとも望みの洗礼なしには人は救われえないという限りでのことである

『神学大全』第三部第68問第2項




こうして「望みの洗礼」という教義についてさぐっていくと、たしかに疑問はわく。事実上の教会の成員と望みのそれが区別されているとしても、では、厳密に言って「教会」とは何か。目に見える教会の外にも、何かしら教会があるということなのか。しかし、それは「教会の可視性」という教義と矛盾しないか。
こうした疑問を解く鍵は、おそらくハードンが述べている「救いの普遍的秘跡としての教会という神秘」という表現にかかっている。これこそまさに第二バチカン公会議が改めて明示した教会の姿だ。そのほんとうの理解はまだ端緒についたばかりである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月10日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性についてまとめてみる。
問題となるのは、教会の必要性という救済の特殊性と、万人に対する神の救済意志の普遍性とのバランスであろう。この点で、2005年に教皇ベネディクト16世によって認可され公布された『カトリック教会の教理:大要』("Compendium:Catechism of the Catholic Church")は簡潔な要約をしている。

171 「教会の外に救いなし」の意味は?

これは、すべての救いは、頭であるキリストから、その体である教会を通して来るということを意味する。したがって、教会はキリストによって建てられ、救いのために必要であると知りながら、そこに入ることを拒んだり、そこにとどまることを拒むひとは救われえない。同時に、キリストと彼の教会のおかげで、自らの落ち度によらずキリストの福音や教会について無知であるが、真摯に神を求め、恵みに動かされ、良心の命令を通して知られる神の意志を行おうとする者は、永遠の救いに達することができる

『カトリック教会の教理:大要』




262 洗礼なしに救われることは可能か?

キリストはすべてのひとの救いのために死んだのだから、信仰のために死んだ者は洗礼なしにも救われうる(血の洗礼)。教理教育中の未洗礼者や、キリストと教会を知ってさえいないが、なお(恵みにうながされて)神を真摯に求め、神の意志を行おうと奮闘する者も、洗礼なしで救われうる望みの洗礼)。教会は典礼において、洗礼なしに死んだ子供たちを神の憐れみに託している。

『カトリック教会の教理:大要』




つづいて1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可され公布された『カトリック教会の教理』("Catechism of the Catholic Church")を見てみる(文中「教会憲章」は『第二バチカン公会議公文書全集』(中央出版社)の訳文を使用している。以下第二バチカン公会議公文書関係は同様)。


「教会の外に救いなし」
846 教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう」(「教会憲章」14節("Lumen Gentium"14))

847 この言葉は自らの落度でなくキリストや彼の教会を知らない人々には向けられていない。

本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(「教会憲章」16節("Lumen Gentium"16)

『カトリック教会の教理』




1260 「キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(「現代世界憲章」22節("Gaudium et spes"22)。キリストの福音および教会を知らないが、その理解に応じて真理を探究し神の意志を行っているすべての人は、救われうる。そのような人はその必要性を知っていたならば明示的に洗礼を望んでいたであろうと想定されよう。

『カトリック教会の教理』




1281 信仰のために死んだ者、教理教育中の未洗礼者、ならびに、教会を知らないが、恩恵の息吹のもとで、神を真摯に探し求め、神の意志を実行しようと努める者は、たとえ洗礼されていないとしても、救われうる(教会憲章16節参照)。

『カトリック教会の教理』



すでに部分的には引用されているので繰り返しになるが、1964年教皇パウロ6世によって認可され公布された「教会憲章」から引く。第二バチカン公会議に基づく教義宣言であり、数々の論争や誤解・曲解を引き起こした文書でもある。


16 なお、神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え(使徒行録17・25〜28参照)、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから(1テモテ2・4参照)、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認めれられる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また本人のがわに落ち度がないままに、まだ神をはっきりと認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。事実、教会は、かれらのもとに見いだされるよいもの、真実なものはすべて福音の準備であって、ついには生命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。

「教会憲章」




非常に簡単に言ってしまえば、カトリック教会は、カトリック教徒でなくても「良心に従って生きる人は救われうる」と説いている。すなわち、教会の外にも救いがありうる、と言っている。
こういう考えは、あるいは第二バチカン公会議によって初めて発せられた、従って、カトリック教会は第二バチカン公会議を境に教義を変更したのだと思われる方もおられるかも知れない。しかし、そうではない。この教えは既に公会議前からあるのだ。
カトリックの信仰と道徳に関する重要な定義、教令、書簡などをまとめた『デンツィンガー・シェーンメッツァー カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)で、公会議前の教えを確認してみよう。


3866 ・・・教会が常に教え続けてきたことの中に、「教会の外に救いは絶対にない」という不可謬の格言が含まれている。しかし、この教義は、教会自身が解釈している意味に解釈されるべきである。なぜなら、われわれの救い主は、信仰の遺産に含まれていることを、個人の判断によってではなく、教会の教導職によって説明するように定めたからである。

3869 神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。トレント公会議は、再生の秘跡と告解の秘跡に関連して、この点を明らかに決議している。

3870 同じことが教会についても言われなければならない。教会は救いのための一般的な助けである。永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者の場合のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

「ボストンの大司教にあてた検邪聖省の書簡」(1949年8月8日)『デンツィンガー資料集』



これは「教会の外には救いは絶対にない」を厳格に解して、非カトリック者を永遠の救いから除外した、フィーニー派(厳格主義者)に反対して出された書簡である。


2866 私も、あなたたちも次のことを良く知っている。すなわち、やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者が、神がすべての人の心に刻みつけた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵との働きによって、永遠の生命に達することができる。すべての人の心と魂、考えと習性を知っている神は、その大きな好意と憐みによって、意識して罪を犯さない人を永遠の苦しみによって罰することはない。

「イタリアの司教にあてた回勅」(1863年8月10日)『デンツィンガー資料集』




使徒伝来のローマ教会の外においては、誰も救われないということは信仰箇条であるが、・・・やむを得ない事情によって、真の宗教を知らないでいる者は、神の前に罪を犯していないことも、同じように確かなことである

「シングラーリ・クワダム」(1854年12月9日)『デンツィンガー資料集』 p437



上掲二編は教皇ピウス9世によるもので、「不可抗的無知」(やむをえない事情による無知)という考えを導入し、教会外の救いの可能性について明確な表現を初めて成し、以後の教会文書に大きな影響を与えた。
3869で言及されたトリエント公会議の決議文も参照しておこう。


1524(796) 以上の言葉によって罪人の義化の概略が述べられている。すなわち、義化とは、人間が第2のアダムの子として生まれた状態から、第2のアダムであるわれわれの救い主イエズス・キリストによる恩恵の状態、「神の養子」(ローマ8・15)としての状態への移行である。しかし、この移行は福音がのべ伝えられた後は「再生の水洗い」なしに、あるいはそれについての望みなしにはありえないのである(第5条、洗礼について)。聖書にも、「水と聖霊とによって新しく生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3・5)と書いてある。

「トリエント公会議 第6総会:義化についての教令(1547年1月13日)『デンツィンガー資料集』



「望みの洗礼」についての明示的言及は、神学的問題(すなわち神学者の個人的見解)としてはこれより前にまで遡りうるが、教会教導権によるものではこれが最初のようである。それゆえ、通常「望みの洗礼」という教義は、第一バチカン公会議とともにカトリックの伝統教義にとって最重要とされる公会議の一つである、このトリエント公会議の決議文が典拠になっている。
実際、過去の(あるいは現在でも)神学者の間では、厳格主義(教会至上説)と普遍主義(万人救済説)という両極端が見られる。しかし、教会はいつものように中庸の判断を下したのである。

(文責:金田一輝)




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2007年08月31日

教会論についての教理省の発表

知り合いの神父の方のご教示を受けて知ったが、教会論について以下のような文書が発表されていた。

教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答
「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」解説

ちょうどたまたま「カトリシズムって、結局のところ、主が建てた教会を信じることなんだよなあ」と思いはじめていた矢先のことで、これも聖霊のお導きか。
目を引いたのが(主の教会はカトリック教会に)「subusistit in」(存在する)という表現について解説しているところ。第二バチカン公会議の「教会憲章」にあるこの語は、多くの誤解を生み、リベラリストも伝統主義者も、立場は真逆といえど、これをもってカトリックは古典的(?)教会論を捨てたのだと解釈して勢いづいた。
解説のハイライト部分を引用する。


実際、キリストが望んだ教会はまさにカトリック教会のうちに存在する(subsistit in)がゆえに、この存在の連続性はキリストの教会とカトリック教会の本質的な同一性を表します。公会議が教えようと望んだのは次のことです。すなわち、わたしたちはカトリック教会において具体的な歴史的存在としてイエス・キリストの教会と出会うということです。それゆえ、「存在する(subsistit)」ものが多数あるようになるという考えは、けっして「存在する(subsistit)」という用語を選択した際にいおうと意図したものではありません。「存在する(subsistit)」ということばを選ぶことによって、公会議は、キリストの教会の独自性をいおうとしたのであって、「多数性」をいおうとしたのではありません。教会は歴史的現実の中に唯一の主体として存在するのです。
  それゆえ、根拠のない多くの解釈とは反対に、「ある(est)」から「存在する(subsistit)」への変更は、カトリック教会が自らを唯一のまことのキリストの教会であるとみなすことをやめたことを意味しません。むしろそれは、カトリック教会が、カトリック教会と完全な交わりをもたないさまざまなキリスト教共同体のうちに真の教会的性格と次元を認めたいというエキュメニカルな望みへと大きく開かれていることを表すにすぎません。これらのキリスト教共同体のうちには「数多くの成聖と真理の要素」があるからです。したがって、教会は唯一であり、唯一の歴史的主体のうちに「存在する」としても、この目に見える主体の外にも、真の意味での教会的現実が存在します。


「教会憲章」における教会論は、過去の教会の教えを変更せず、そこにあらかじめ含意されていた意味を開示したに過ぎない。ニューマンの言い方に習うならば、これは「教義の発展」であって、「変更」でも「発明」でも「堕落」でもない。そしてこうした含蓄的教義の明示は、教会教導権にまかされた権能であり、それを信頼することは、カトリックの信仰の一部を成す。
よく知られている通り、「教会憲章」は「教会の外に救いなし」という古くからの教義を堅く保持しつづける一方、他方で、教会外での救いの可能性について言及している。これは何も第二バチカン公会議で突然飛び出したものではなく、「望みの洗礼」という思想として胚胎していたものを、改めて明示し直したものに過ぎない。ドナティスト論争の頃から、あたかも相反するような両極への動きを調停し中庸を進んできたのが教会の歴史である。


カトリックのエキュメニズムは、一見すると逆説的なものに見えるかもしれません。第二バチカン公会議が「のうちに存在する(subsistit in)」ということばを用いたのは、二つの教理的言明を調和させようとするためでした。一方で、キリスト者の分裂にもかかわらず、キリストの教会はカトリック教会のうちにのみ完全なしかたで存在し続けます。他方で、カトリック教会の目に見える組織の外にも、すなわち、カトリック教会と完全な交わりをもたない部分教会や、教会共同体の中にも、数多くの成聖と真理の要素が存在します。


実際、理解されねばならないのは、カトリックによる「エキュメニズム」とは、「教会」という概念を弱体化させたり、ましてや廃棄したりすることを意味するのではないということだ。それどころではなく、「エキュメニズム」は徹頭徹尾「教会」論との交わりの中で理解され、展開されねばならない。この意味で、「教会憲章」で採用した「subsistit in」という教会論的表現は、実に含蓄深いものだと思われる。

(文責・金田一輝)

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