2008年08月21日

Francis A. Sullivan "The Church We Believe in: One, Holy, Catholic, and Apostolic"

フランシス・A・サリバン『私たちの信じる教会:一、聖、公、使徒継承の』は、斬新且つ緻密且つ非護教的な本を出版しつづけている著者による、現代カトリック教会論を探求した本である。
裏表紙から。


教会論における違いがキリスト教徒の一致を阻害する最も頑強な障害物の内の一つであることが徐々に理解されている一方、ほとんどのキリスト教徒が「一、聖、公、使徒継承の教会」の信仰を告白することに同意しているという事実は、希望の良き基礎である。たしかに、「一なる教会」についての私たちの信仰の間にある矛盾にまじめに直面することは、エキュメニカル運動の主要なモチーフである。
もちろん、キリスト教徒が教会についての信仰告白において同じ語を使用しているという単なる事実は、教会論に関する大きな違いを除去しない。「『教会』と呼ぶ時、何を意味しているのか」「教会を一、聖、公、使徒継承であるということを以下に理解しているのか」と問われた際、実に様々な答えがある。そこで、エキュメニズムの発展には、私たちの告白する信仰の共通理解に達するための努力が必要である。ここでは神学が重要な役割を持つ。なぜなら、神学は「理解を求める信仰」と定義されているからだ。エキュメニカルな対話が最も実りあるものとなるのは、それぞれ異なった神学的伝統に属する人々の側での、共通の信仰として告白している信条のより深い理解を探求するために協力して努力する場合である。深い理解によって、違いにもかかわらず自分たちが一つであるという共通の基礎を得るだろうという希望を持って。
このプロセスにとって決定的な一歩は、キリスト教徒が各自の伝統に照らして、信仰の理解を深め、明らかにしようとすることである。この本の目的はそれだ。ここで探求していることは、ローマ・カトリックの伝統に照らして、教会に関する信仰告白の理解なのである。


フランシス・A・サリバン(イエズス会士)はローマのグレゴリアン大学進学教授である。


第二バチカン公会議がカトリック教会論の新たな地平を創出したというのは事実で、それはとりわけ教会を表現するために「救いの普遍的秘跡」(「教会憲章」48)という語を導入したことに現れている。秘跡という言葉から、秘跡論の文脈での深化を示唆しているだろうし、教会の神秘的性格(sacrament=mystery)の強調ということもあろう。この本で著者は、普遍性(catholicity)が新たな形で表明されているのだと見る。

教会を「救いの普遍的秘跡」と描く時に表現されている普遍性の新たな側面は、全ての救いの恵みが教会へと秩序づけられているだけでなく、いくつかの仕方で教会からまた教会を通して来るということでもある。すべての救いの記しであり道具として、教会は恵みが向けられる単なる目標ではなく、恵みが与えられる経路ないし媒介物である。


"The Church We Believe in",Paulist,1988,p110

してみるとこの新たな普遍性の側面は、救いにおける教会の絶対的必要性をより深く開示したものと受け取られる。ここで問題になるのはもちろん、有名な「教会の外に救いなし」という格言だろう。
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2008年08月20日

井上洋治『キリスト教がよくわかる本』

「キリスト教がこの一冊でよくわかる、というような本」(まえがき)をという要望を受けて書いたとあるが、到底その任を果たしていない。
キリスト教の信仰に関して言うと、キリスト教徒が共同で信ずべきものとして伝えてきた信仰箇条があり、例えば三派が共通して信仰の基準と見なしている「二ケア・コンスタンチノープル信条」に集約されている。こうした信条(クレド)を元にして公的な信仰内容を説明し、その上で必要なら私的意見をそうことわって書くなら問題ないだろう。しかるに井上は「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(同上)と豪語するすぐそばから「やはり私の考え方が、いたるところににじみでてしまっている」(同上)とあらかじめ言い訳めいたことを平気で言う。
「まえがき」から前途多難だが、中身は予想通り、客観的なキリスト教などではぜんぜんなくて、単に井上が個人的に信じたいキリスト教像が描かれているだけである。
まず、井上は信仰内容をいちいち矮小化している。「創造」について、「神さまが天地を創造したというのは、天地自然は、一瞬一瞬神さまの力にささえられて存在しているということ」(p.111)だと記述している。まったくの間違いとは言えないが、これでは肝心要の「神の全能性」「無からの創造」が説明されていない。「聖霊」は「神さまの慈愛の息吹」(p.114)とされ、なぜか芭蕉や西行を持ち出して、「私たち(註・日本人)が「大自然の生命の風」としてとらえた風を、キリスト教では「聖霊」と呼んでいるのだと言ってもよい」(p.117)と説く。言ってもよいかも知れないが、これでは聖霊の神性(非被造性)がまったく分からない。いちおう三一性についての解説もあるが、「三つの存在様態において自己を示される」(p.119)という、よくあるサベリウス的理解(様態論的モナルキア主義)に傾いており、正確ではない(「「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称では」ない(CCC 254))。
キリスト論に至っては矮小化どころではなく、まったくの歪曲である。キリストの復活の客観的事実性はきっぱり否定されている(井上は同様の調子で「処女懐胎」(p.34)、「奇跡」(p.101)、「死者の復活」(p.205)の客観的事実性も否定している)。

「イエスが復活したということは、墓からでてきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界を歩きまわったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、永遠の生命に復活した、よみがえったということなのです」(p.66)

キリストの復活の客観的事実性がキリスト教の信仰箇条であることは、いちいち言うまでもない(例えばCCC 639-646を見よ)。復活の客観的事実性の否定自体も問題だが、その私的見解の立証のために、とんでもなく無理気味の聖書読解をしていることに、非常な知的不誠実を感じる。

「いま『ルカによる福音書』の表現を追ってみましょう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスがあらわれたとき、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されています。何故弟子たちはそんなに恐怖にふるえあがったのでしょうか」(p.67)

この疑問に対する井上洋治先生の解答がすこぶるふるっている。

「弟子たちはイエスの怨霊があらわれたのだと思ったのではないでしょうか。
「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません、一緒に死にます」などと言っていた弟子たちは、いざとなると命が惜しくて完全に師イエスを見殺しにしてしまいました。イエスが十字架を背負って倒れたときも、ただ何処からか見ているだけで手伝いにはでていきませんでした。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死をとげてしまったのでした。さぞかし先生は我々のことを怨みながら死んでいかれたにちがいない、そのような意識にさいなまれて、弟子たちは嫌悪と恐怖の時間をすごしていたにちがいないのです。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していたでしょう。
ところが、この物語の表現によれば、そこにあらわれた師イエスは弟子たちを罰したり怨んだりせず、魚をとって一緒に食事をしたというのです。これは弟子たちを裁かずにゆるしているということです」(p.67)

ここから井上は「裏切った私たちをゆるし、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなす」(p.68)と断言する。
井上によれば「宗教の世界における真実は」「主体的真実を求める」(同上)ものだそうな。それにしてもなんとも胡乱な「主体的真実」であることか。そもそも、井上の記述する弟子たちの心理なるものは全くの憶測でしかない。ルカ伝該当箇所を引こう(フランシスコ会訳)。

「二人が、こう話していると、イエズスご自身が皆のまん中に立ち、「あなたたちに平安があるように」と仰せになった。弟子たちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思った。「なぜおびえているのか。どうして心に疑いを抱くのか。わたしの手や足を見なさい。まさしく私自身である。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなたたちが見ているように、わたしにはそれがある」。こう言って、イエズスは手と足をお見せになった。弟子たちは喜びのあまり、まだ信じられず、不思議に思っていると、イエズスは、「ここに何か食べる物があるか」と仰せになった。それで焼いた魚の一切れをさしあげると、イエズスはそれを受け取って、皆の前で召し上がった」(ルカ24:36-43)

実際に聖書のこの箇所を読んだ者であれば十中八九「事実として信じるか信じないかはともかく、井上のようには解釈できない」と思うだろう。というのもここでイエスは、弟子の裏切りをゆるしているのではなく、まさに物理的な「復活」を信じないことをとがめているのだからである。マルコ伝にも「その後、イエズスは彼ら十一人が食卓についているところに現われ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活したイエズスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」(マルコ16:14)とある。弟子たちが幽霊を見たと思ったのは、それを「怨霊」(!)と考えたからではなく、イエスの物理的な復活が信じられなかったからだ。それゆえ、明らかにキリスト教信仰の「復活体験の核」は「カメラの写真にそのままうつるかのような」(p.68)復活の客観的な事実性にある。井上はそれを否定するだけでなく、聖書の記述を我流に解釈してそうするのだから始末が悪いというしかない。
おそらくこの本の根本的欠陥は、人類の罪の贖いとしての十字架上の死というキリスト教の中心思想を明確に述べてないことだろう。たしかに井上も原罪の解説の中で「破壊された平和と連帯の美をお互いの間に再建したのがイエスであり、その十字架の死なのだとパウロはその手紙の中で述べています」(p.145)と、この中心思想に軽く触れてはいるが、まさしく軽く触れているだけなので、不案内な読者なら単にパウロの個人的見解と受け取ってさっさと通り過ぎてしまうだろう。
しかしながら、この「キリストの受難による贖い」という教えが説明されていなければ、受肉の意味も復活の意味も、救いの経綸の中でのそれらの連関も、さっぱり分からなくなる。この本を読んでも、キリスト教は漠然と「隣人愛」を説いた宗教だとしか理解できまい。あるいは「「裁き」ではなく「許し」を」、といった平板極まりない心理カウンセリング本にでもありそうなスローガンしか出てこない。しかし、そうしたものはせいぜい「井上教」とは言えても、決して「キリスト教」ではない。まったく、「できるだけ私個人の考えを述べるのをひかえて、客観的にキリスト教というものを示そうとした」(まえがき)という言葉が泣いている。
余談になるが、「エホバの証人」を正統キリスト教ではないとするのは良しとして、輸血を拒否して死ぬことを個人の信念であり自殺ではないなどとまで述べている(p.190)のは完全に余計である。本の主旨を逸脱している。また、「無教会主義」をご熱心に説明(pp.187-189)する一方、肝心の「教会」についての説明はこれぽちもない。どう考えてもバランスを失している。
そういう次第で、これは「キリスト教がよくわかる本」ではない。むしろ「キリスト教がよくわからなくなる本」と改名すべきである。

(文責・金田一輝)



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2007年11月20日

Dave Armstrong"A Biblical Defense of Catholicism"

デーヴ・アームストロング『カトリックの聖書的擁護』。アマゾンでの紹介文から。



このエキサイティングな本が示すのは、カトリックは聖書から逸脱しているどころか、際立って、また徹底的に聖書的であるということだ。実の所カトリックは、聖書が明らかに教えていることに完全に合致している唯一のキリスト教である。これを論証するために、カトリックの著作家デーヴ・アームストロング(元プロテスタントの大学伝道師)は、カトリックとプロテスタントの間で最も合意が成り立っていない事柄に焦点を当てている。例えば、信仰の基準としての聖書の役割、信仰のみによって義とされるか、教義は発展するか、ほんとうの聖餐とは何か、マリア崇敬や聖人への祈り、煉獄の存在、救いにおける悔悛の役割、教皇不可謬権の本質などである。

著者について
デーヴ・アームストロングは、二十年以上キリスト教信仰を証している、カトリックの護教家であり福音家である。アームストロングは以前はプロテスタントの大学伝道師であり、1991にカトリック教会に入信した。彼はカトリックについての複数の著書があり、多くのカトリック雑誌に記事も書いている。



プロテスタントは「聖書」のみ、カトリックは「聖書」と「聖伝」、と簡単に片づけられることが多い。これでは、カトリックが教義の源泉として「聖書」をそれほど重要視していないかのようであり、実際、幾つかの教義は「聖書に基づかない」としてプロテスタント側から批判を受けている。これに対して「聖伝」を持ち出しても平行線ではある。
プロテスタント福音派からの改宗者であるカトリック護教家デーヴ・アームストロングはこの本で、その聖書的知識を駆使して、カトリックの教義は「聖書」に反しないこと、従って、「聖書」に基礎づけられうることを論証している。一見聖書に基づかないように見える教義の理解に欠かせない「教義の発展」という概念についても紙幅をさいて説明している。
また、日本ではなじみの少ない、古典的なカトリック護教家の書から多く引用しているのもこの本の特徴であろう。聖書の理解とともに教義の理解も深められるコストパフォーマンスの高い一書である。

(文責・金田一輝)




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Pope Benedict XVI"Jesus of Nazareth: From the Baptism in the Jordan to the Transfiguration"

教皇ベネディクト16世『ナザレのイエス:ヨルダン川での洗礼から変容まで』。Amazonでの紹介文から。



イエスの生涯へのこの豊かで洗練された手引きで、イエスが世界にもたらしたのは世界の繁栄でも平和でもなく、神だと教皇は論じる。たしかに、イエスは「彼の人格の真の中心である」父なる神との関係抜きには理解できない。ラッチンガーは、イエスの誘惑、変容、そして山上の説教などの、福音書の鍵となる出来事の意味を探求し、イエスがパウロ神学を暗示している箇所を指示している。彼はイエスの存在が旧約に根づいていることを強調し、例えば真福八端が詩篇やエレミヤ書などに例示された祝福の祈りの長い伝統の中にあることを解き明かす。ラッチンガーは新約に対する歴史批判学を利用しているが、聖書の厳密な歴史的読解の有用性には限界があることを警告している。聖書を神学的に読むことも、聖書の各箇所を正典全体の一部として見ることも必要である。この学術的な本は気軽に読むことはできない。ラッチンガーはずらっと並ぶ研究成果を利用しているし、彼は「キリスト論」といった神学概念に通じていることを当然だと思っている。しかし、ゆっくりでもラッチンガーの文に取り組む用意のある人にとっては、ほとんどすべてのページから有益な洞察を得るだろう。



現教皇ベネディクト16世による「イエス伝」シリーズ第一巻。序文で、教皇の教導権によるものではなく、個人的著作とことわっている。教皇はここで、近代聖書学の否定面である「信仰」と「歴史」の分裂状態を、近代聖書学の肯定的成果によって、再び和解させようとしている。
福音書記者の語り、そしてまたイエスの言動を、深くヘブライズムの淵源から生い茂ってきたものとした上で(これは共感福音書のみならずヨハネ伝にも当てはまる)、旧約から新約へと連続する救済史の中でイエスを描いている。そこに浮かび上がってくるのは、モーセにならい山上に上り父なる神と友のように親しく会話するイエスであり、なにより(父との一致、神の国の到来を)「祈る」イエスだ。教皇の筆致は、極端に学術的でもなければ教理教育的でもなく、あわてずさわがず丁寧に聖書を読み解いている。そして若かりしころの作品『キリスト教入門』をなぞるかのように、形成された教義から溯って歴史の中に埋め込まれた信仰の根源的場へと下り立ち、あたかも見てきたかのように歴史を「現在」化している。
エキュメニズムや諸宗教との対話についての書、あるいは典礼関係の書などは、ある種マニアックで専門的ゆえに「変化球」ともいえようが、同じように力をこめて、しかし「直球」で勝負しようというのが、この本だろう。何しろ腐るほど世にある「イエス伝」の海に、あえてさらに一石投じようというのだから。続刊が楽しみである。

(文責・金田一輝)




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2007年11月15日

Jean-Pierre Torrell "Aquinas's Summa: Background, Structure, & Reception"

ジャン=ピエール・トレィユ『アクィナスの「神学大全」 その背景、構造、受容』。裏表紙より。



この簡明な新作において、聖トマス・アクィナスの伝記で評価の高い著者、ジャン=ピエール・トレィユはその専門的知識をもってアクィナスの「神学大全」にとりくんだ。その内容、歴史的、文献的、教義的背景、そして永続的な意義について書かれたこの本は、アクィナスの代表作への短くて大衆向きの入門書として、読者が繰り返し参照するものになるだろう。
トレィユはアクィナスの人生の専門的な解説から入り、それから「神学大全」の全体構成と個々の内容へと移る。彼は「神学大全」の文献的・教義的文脈を考慮し、天使的博士の文書全体の中にその仕事を据え、アクィナスの使ったキリスト教、ギリシャ、ユダヤ教、アラブの典拠史料を調査している。
本の後半は、1274年のアクィナスの死から二十世紀までの、「神学大全」の受容の歴史を概観する。トレィユはアクィナスの「神学大全」の運命を、そのゆっくりとした出発から、最終的なトミズムの興隆を経て、その広範な受容に至るまでを追跡している。十九世紀と二十世紀は、回勅「アエテルニス・パトリス」によるアクィナスの仕事の究極的勝利の時代であり、第二バチカン公会議ののち、その内容と方法に新たな関心が集まっている。
この本は簡潔にして完結している傑作である。「神学大全」の内容、方法、影響を理解し評価したいと思っている読者たちにとって、大変興味深いものとなるだろう。

ジャン=ピエール・トレィユはトゥルーズ県のドミニコ会の司祭であり、フライブル大学の教義神学の教授である。彼はCUA出版による、高い評価を受けている「聖トマス・アクィナス」シリーズの編集者である。



非常に薄い本(156ページ)であるが、重要な情報の詰まった凝縮された一冊。さすがプロの仕事だ。
肝心の「神学大全」の内容解説は、50ページにも満たないが、簡にして要を得ており、比較的新しい知見にもことかかず、アンチョコとして使える。下手な「入門書」に手を出すくらいなら、この本を熟読した方がよい。
また、常に神学大全の全体構造から細部を読み解いており、第三部にかかわる「キリストの生の奥義」についての解説などに特徴的に表れている。トレィユによれば、アクィナスは「イエスの人生」を、キリスト論的統合の中で扱った最初にして唯一の中世神学者ということになる。私は、父なる神との関係性に裏打ちされた「人間イエス」について叙述した、教皇ベネディクト16世の近刊『ナザレのイエス』(ダブルデイ)を想起しながら読んだ。
その他、アクィナスの小伝記、「神学大全」の文献的・教義的環境や、受容の歴史についても至れり尽くせりだが、終章の2005年までの最新のアクィナス研究についての書誌紹介が非常にありがたい。志あるひとにとって、さらに深く研究するための土台を提供している。
「神学大全」についてまず一冊という場合、文句なくこの本をすすめられる。体裁は「入門書」だが、「入門書」の格ではない。

(文責・金田一輝)




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2007年11月07日

Fergus Kerr"Twentieth-Century Catholic Theology: From Neoscholasticism to Nuptial Mysticism"

ファーガス・カー『二十世紀のカトリック神学:新スコラ主義から結婚の神秘主義へ』。裏表紙より。



この本は1900年から今日までのカトリック神学の、新鮮で簡潔な説明を提供している。フランスの労働者司祭運動の指導者であるシェヌの仕事で始め、現教皇ベネディクト16世のような現代の神学者の著作で締めくくっている。
彼自身英語圏での一流の神学者であるカーは、それぞれの人物と、彼らのカトリックの教えとの関係についての、神学上の発展を論じている。過去100年はカトリック教会における、巨大な刷新と改革の時代であり、カーは、特に第二バチカン公会議によって導入された広範囲に渡る変化について、それぞれの思想家がこの過程でいかに貢献したかを描いている。
その成果が、生き生きとして情報豊かなこの一冊であり、二十世紀において最も重要なカトリック神学者たちの、時折動乱に満ちた人生、仕事、遺産を探求している。この書は、現代のカトリシズムに興味のある学生、学者、一般読者によって広く読まれるだろう。

ファーガス・カーは、説教者修道会の一員であり、エジンバラ英国学士院の会員であり、エジンバラ大学の神学研究所の名誉会員である。また、英国ドミニコ会の会報誌『ニュー・ブラックフライアーズ』の編集者である。彼の本には、『アキナス以後:様々なトミズム』(ブラックウェル、2002年)がある。




知り合いのK神父に進められて読んだ。現代神学にうといので、大変蒙を啓かれ、見通しがよくなった思いがする。
序章と終章を除いて、主要な現代カトリック神学者を一人一章ごとに論じている。登場するのは、マリ=ドミニク・シェヌ、イブ・コンガール、エドワード・シュリベークス、アンリ・ド・リュバック、カール・ラーナー、バーナード・ロナーガン、ハンス・ウルス・フォン・バルサザール、ハンス・キュンク、カロル・ウォイティワ、ジョゼフ・ラッチンガーの十人である。一人一人まとまって取り上げているといっても、決して行き当たりばったりではなく、副題「新スコラ主義から結婚の神秘主義へ」とある通り、一つの筋が通っている。
二十世紀初頭は良くも悪くも新スコラ主義あるいはネオ・トミズム全盛の時代であった。ここに登場する現代神学者は、ほとんどが義務的に新スコラ主義の教育を受け、それに反発してきた人々だ。それはシェヌによるトマス・アクィナスの歴史文脈的再解釈から始まる。ガリグ・ラグランジュに代表されるネオ・トミストたちは、トマス哲学の永遠性を称揚するのに対し、歴史文脈的解釈は、トマスの時代性に焦点を当てる。同時代の中世の他の思想との関係性や、古代やギリシャ哲学などの歴史的水脈をたどり直すことで、新たなトマス像が出来してくる。それに応じて、理性と信仰、哲学と神学の新たな関係、とりわけアンリ・ド・リュバックに代表される、階層秩序的ではない両者の新たな総合が模索されていく。
これら「新スコラ主義の乗り越え」によって、ネオ・トミストによって排除され抑圧されてきた、忘れられてきたカトリックの豊かな精神的遺産が再発見されてきた。とりわけ、大胆にカール・バルトの思考を吸収したバルサザールなどにより、オリゲネスの「結婚の神秘主義」が練り直されている。その結果、現代カトリック神学のフロントに、神と教会、神と人との婚姻性(nuptiality)という古代的テーマが踊り出ている。婚姻性の射程は実際には非常に広く、神と世界、創造と贖罪との関係性、マリア論から、もちろん今日の男性と女性の関係性や、家族や性の問題にまで及んでいる。
この点でよく知られていないのは、ヨハネ・パウロ2世の功績だ。そのパーソナリティの強烈さに目がくらんで、彼の神学者としての仕事は軽視ないし無視されがちである。しかし、現代カトリック神学に対する彼の貢献は、いまだ正当に評価されてはいないものの、巷間考えられているよりもはるかに大きい。
彼はアクィナスを引きながら、しかしネオ・トミスムが捨ておいてきた、「身体」と「精神」の相互協同性という観念を強調した。そのことで、「身体」は精神と対立するものであるどころか、人間の「婚姻性」、すなわち自己譲与による愛を表現するものとなる。彼によれば、創世記の「神の像」という表現は、単に創造主である神の主権を継いだ人間の被造物への支配権を意味するだけではなく、神との親しい交わりの可能性、従って、隣人に対する神的愛の可能性の刻印として理解されねばならない。
パウロ6世の回勅『フマネ・ヴィタエ』による堕胎と避妊の禁止に対する彼の擁護は、ヨハネ・パウロ2世の「保守性」として非難されることがあるが、それは創世記の人間創造譚の再解釈による「身体」の婚姻性についての思考と関連づけて理解されねばならない事柄だ。逆に言えば、彼の「革新性」は単に教皇としての、エキュメニズムや諸宗教との対話に関する身振りに限定されるわけではなく、神学者としての、新たな次元の開発にも示されている。
この本で、あらためてカトリック神学の豊かさを確認することができた。現代の神学の動向を知りたい方、また、私のようにネオ・トミスムに郷愁を覚えるひとも、一度は目を通しておきたい一冊であろう。

(文責・金田一輝)




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2007年11月04日

Allyne Smith,etc"The Philokalia: The Eastern Christian Spiritual Texts--selections Annotated & Explained"

裏表紙より。


四世紀から十五世紀までの修道僧の著述を集めた「フィロカリア」は、東方教会の聖書の解釈を他のものよりよく写し出している。簡単に訳せば、このタイトルの意味は「美への愛」であり、私たちのすべての感覚を総動員した礼拝と祈りのための神秘的かつ観想的実践を反映している。
この「フィロカリア」の知恵への入門書は、今までギリシャ語やロシア語からの学術的訳で一般の読者に敬遠されてきた文書を明るみに出している。アライン・スミスは五巻を通して浮かび上がってくる七つのテーマ(悔悛、心、祈り、イエスの祈り、熱情、静寂、神化)に絞って練りに練った選別をしている。スミスの啓蒙的で、ページごとにあって把握しやすい註釈は、歴史的・精神的文脈に満ち、救いについての東方的理解を含む枢要な教えを明かしており、観想的祈りのような現代的実践に結びつけている。
今、あなたは「フィロカリア」の霊的知恵を経験することができる、たとえあなたが東方キリスト教についてこれまで知らなかったとしても。このスカイライト・イルミネーション版は、この愛すべき書物を通した旅にあなたを連れて行き、東方の修道僧の教えが、本質において神であるところのものに、恵みによってあなたがなることに資するだろう。


「フィロカリア」は、カトリックで言えば、十字架の聖ヨハネやアビラの聖テレサ、あるいは『キリストにならいて』などのような、神秘家による霊的修養書を、ひとつにまとめたものであると言える。もともとは、正教会の霊的中心地であるアトス山の修道僧、ニコディモスとマカリオスが、観想的伝統の復興を願って十七世紀に編纂したものである。以後、各国語に訳され、正教会教徒のみならず、他のキリスト教徒や異教徒にまで精神的影響を及ぼしている。
このスミス版は、五巻にものぼる「フィロカリア」から重要箇所を、七つのテーマに従って200ページほどの本に抄録したものであり、見開きごとに右に本文、左に註釈を入れたスタイルで、非常に読みやすくなっており、かっこうの入門書と言えよう。さらに進んで学びたい方は、Faber & Faberによる完訳版がある(現在4巻まで出版されている)。
月並な感想ではあるが、ここで説かれている観想法は、仏教などの東洋的瞑想法に驚くほど似ている。頭を垂れて臍のあたりに目を向けよ、などというヨーガのような指示まである。身体を使った修行を強調したり、精神を落ち着けて、概念やイメージを取り払うことを奨めるところなど、まるで座禅である。これらの修行の究極目標は「神化」(テオーシス)であるが、仏教ならば「成仏」と呼ぶ所だ。
とはいえ、安易に宗教的類似性を持ち出す必要はないだろう。それは理解の助けになることもあれば、妨げになることもあるからだ。あまり知られていない東方の霊性の豊かさをここに確認できれば、おそらく十分なのである。

(文責・金田一輝)




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2007年10月10日

Scott&Kimberly Hahn"Rome Sweet Home :Our Journey to Catholicism"

(注・この記事は『金田一輝のWaby-Saby』2006年11月16日記事の再掲である。)

長老派プロテスタント夫妻がともにカトリックに改宗するまでの物語。こういう「改宗もの」は欧米ではポピュラーだが、相対的にクリスチャンの人口比率が低い日本ではあまりニーズはなさそうではある。
福音派からの改宗者Dave Armstrongもそうだが、この方々もプロテスタントらしく聖書の徹底した読みをするにつけて、カトリックの方が聖書と整合的であることに気づいてしまう。「聖書のみ」とは聖書に書いてないのでは、という問いかけに対するプロ教授の回答「そりゃあんた、プロテスタントにとっては証明不能の公理だよ」。疑問視する方がおかしいと一蹴。ならば何の権威あっての公理か。
プロテスタントの分裂に次ぐ分裂の歴史を「父親不在の兄弟たち」になぞらえるのも面白い。著者は旧新約を通して、神の契約の家族的拡大を見ている。教会はまさに民族的枠を超えたイスラエルであり、この世の象徴的父親たる教皇を頭にした神の子供たちによる「大家族」であると。
またこれを読むと、プロテスタントにとって、カトリックへの改宗の主要な障害の一つがマリア信仰であることもよくわかる(極端な原理主義者にとっては、それあるがためにカトリックは悪魔の巣窟だ)。Kimberlyも最後までそこにこだわる。すでに改宗したScottはこともなげに弁証してみせる。父母を敬えと十戒にある。マリアはイエス・キリストの母である。それゆえキリストを崇める者がその母も敬うのは当然である。Q.E.D.
プロカトの差異などを理解するうえでも貴重。ページ数も少なく文字も大きい。小説のように書かれており、軽い読み物としても手頃であろう。

(文責・金田一輝)




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2007年09月27日

Ludwig Ott "Fundamentals of Catholic Dogma"

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』は1952年にドイツ語で出版された神学入門者用の教義解説書である。カトリックの教義について最低限必要な、しかも正確な知識を一冊に圧縮している。
裏表紙より。



「ルードヴィッヒ・オットー博士によるこの本は、全教義神学の概要であり、私が出会ったこの種のものの中では最もすぐれた要約となっている。この本はとくに、教義の各々の箇所について、聖伝や聖書、そして理性的根拠からすばやく再確認しようとやきもきしている、忙しい司祭たちに気に入られることだろう。また、ことのほか学生に役立つだろうし、教養ある平信徒に、カトリックの教えの全領域についての詳細な科学的説明を与えている。最後に言っておくと、オットー博士のこの仕事は、カトリック教会の教えを、体系的なやり方で学生に提示する義務のある司祭たちが、教科書として使用するのにとても貴重なものとなるだろう」

ジェイムズ・カノン・バスティブル神学博士の序文より



カトリックの教えについて知りたい方は、CCC("Catechism of the Catolic Church")以外に、ぜひともこの本を持っておくべきだ。単なるおすすめではなく、必携である
正統教義について、聖書はもちろん、教父らや、公会議と教皇の公文書から豊富に引いて解説しているのが特色である。何が正統教義なのかだけでなく、歴史的・理論的に、なにゆえ正統なのかが分かる。ディンツィンガー資料集をまだ入手していない方は、込み入った教義に関する疑問点を調べるために、かわりにこの本で典拠を確認することができる。
アメリカの著名なカトリック護教家(プロテスタント福音派からの改宗者)であるデーブ・アームストロングの代表作『カトリックの聖書的擁護』("A Biblical Diffence of Catholicism"SOPHIA)をはじめとして、多くの英語カトリック護教書や文献において、さかんに引証されているのもこの本だ。引用回数は、その文献の価値基準の一つであるから、これだけでもこの本の価値がうかがえよう。
CCC同様辞書としても使えるが、通読にも向いている。ただ小さい文字でぎっしり詰まっており、活字欠けもちらほらある(TANにはありがち)のが難点ではある。

(文責・金田一輝)




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2007年09月25日

山田晶『トマス・アクィナスのキリスト論』

独創的且つ世界的アクィナス研究者山田晶教授による、長崎純心大学三日間の連続講演をおさめたものである。もともとこなれた分かりやすい文章家であるが、話し言葉ゆえさらに近づきやすくなっている。裏表紙より。



イエス・キリストとは何か?「我は誰なりと思うや」とのイエスの問いに、弟子たちは「生ける神の子キリストです」と答えた。「イエス・キリストは真の人間であり神である」という使徒伝承はキリスト論の原点であり、その教義(ドグマ)は4世紀から6世紀にかけて異端論争を通して形成されてきた。トマス・アクィナスは「神学大全」第3部でキリスト論の全貌を語っているが、著者はその註解の仕事を通して、トマスが独自な存在論の観点からイエス・キリストを存在と働きの両面から総合的に捉えていることを解明し、その独創性を高く評価する。近世以降に盛んになった歴史的実証的なイエス伝研究の限界を明らかにして、新たなキリスト論を展望し、さらに信仰と理性のあり方を平易にといた講演。



ここで山田教授がまず念頭においているのは、いわゆる「人間イエス」「歴史的イエス」を強調することで、ドグマ的キリスト像を批判する勢力である。ドグマ的キリスト像とは、「二性一位格」のキリスト、すなわち「まことの神にしてまことの人」なるキリストのことである。歴史的イエスに焦点を当てることで、たしかにキリストの「人性」の側面はより明らかになってくるが、「神性」の側面はだんだん視野の外に放逐されていく。それが独断的な形で出てくると、現代的アリウス主義となって現れるわけである。最終的には、イエスが「神」とされたのは、初期教会が自己正当化のために成した作りごとであり、本当の(!)イエスは、そうした制度的宗教を批判し、民族を超えた愛を説いただけなのである、という話になる。これでは、どれほど多く見積もっても、イエス・キリストは「偉大なる道徳的教師」以上に出ない。
ところで、ドグマについて、巷間何か誤解があるのではないか。ドグマは形式化されたものであり、純粋な信仰とは相容れない、極端にいえば、表現しえざるもの、言語化できないものを信仰は含むが、ドグマはそれを無理やり言語表現化してしまっている。従って、どうしてもドグマは内容の乏しい形骸化に至らざるをえない。こうした誤解である。
しかし、信仰が信仰である以上、そこにはやはり信仰の対象があるはずで、何を信じるかが問題となる。信仰は単なる感情ではなく、認識の一形態であるからだ。さらに、それが個人の内部で自己完結して終わらず、共同的に信仰された場合、「何を」の部分が客観化される必要が生じる。「イエスは神の子である」という事実を信じることがクリスチャンの要件であるが、そこでも、「神の子」とは何であるかについての合意がなければ、それは同一の信仰を持っていることにはならない。信仰が共同的に行われる場合、つまり「教会」の下に行われる限り、信仰のドグマ化は避けられない道だ。

「従来のドグマを否定したルターでも、ドグマなしではありえない。やはりドイツ国教会のドグマができるわけです。それは必然的なんです。アンセルムスはfides quaerens intelectumつまり「理解を求める信仰」と言いましたけど、同じような事がドグマについて言えると思います。fides quaerens dogma(ドグマを求める信仰)。信仰が教会の信仰である限りは、ドグマは存在する。ドグマというのは本質的に「教会のドグマ」ですからね。ですから、このドグマは気にくわぬ、大事なのは信仰だけと言うことは、各人の勝手でありますが、ドグマなしの信仰というのは、教会の信仰であるかぎりはあり得ないのです」p120

それゆえ、山田教授によれば、ドグマが軽視されつつある今こそ、ドグマ的キリスト像に再び目を向け、その意義を探求する時節だということになる。そこで注目されるのは、まさにその「まことの神にしてまことの人」という様相を究明したトマス・アクィナスのキリスト論である。
キリストの二性一位格のドグマはカルケドン公会議で提示され、次の第二コンスタンチノープル公会議で確定したが、この二性の結合の仕方(いわゆるhypostatic union)については、そう述べるだけで、詳細な弁証は欠いていた。もちろん、二つの本性の結合などということは理性を超えた事柄ではあって、本質的に信仰によってのみ受け入れられることは改めて言うまでもない。しかし、信仰の光に照らされた理性は、神秘についてよりよく知ることを欲す。そこには深く豊かな神学的領域が広がっている。
この位格的結合は、肉となった言(ロゴス)の様相である。これは神性が人性を摂取(assumere)したことを意味するが、ともすれば、人性は神性に吸収同化され、一体となったという解釈(単性論誤謬)を生じやすい。山田教授はトマスの論を敷衍して説明している。

「そこでトマスの独自な解釈が現れます。それは、言のペルソナが人間本性をassumereするというのは、言が人間本性を自分のうちに「取り込む」ことではなくて、かえって反対に、言が自分を人間本性に「伝える」communicareことであるというのです。では自分の何を伝えるのかというと、言は自分の有している「ペルソナ的存在」esse personaleを人間本性に伝えるのです。そこでキリストは、「本性」の次元においては神でありかつ人間でありながら、その「存在」esseにおいては一つであることなる。存在において一つとは、ヒポスタシスないしペルソナにおいて一つということです。(・・・)
ですから、トマスにとって、神が人間をassumereするとは、神が人間を自分に「取り入れ」てこれを自分の本性たらしめるという仕方で神化することではなくて、かえって反対に、自分の存在を人間本性に「与える」ことによって、人間本性を少しも変えることなくこれを神化することになります。すなわち神は受肉において、人間から人性をうばい取ることなく、かえって人間に御自分の存在を与えることによって、これを御自分のものとなさるのです。これは、トマスにおいてはじめてなされえた、受肉の存在論的説明であります」pp88-89

これぞまさしく「恩寵は自然を破壊せずかえって完成する」の受肉論版と呼ぶべきか。受肉は贖罪の前提であるから、キリストにおける人間神化という出来事は、決して独立的な、他と関連を持たない周縁的な事柄ではない。むしろ人間性の回復に直接的にかかわりを持つ。ここに神学が人間学へ寄与する一つの契機が見られる。
神とは何か、という問いは、実は、人間とは何か、という問いと不可分である。キリストを「ただの人」の次元に引き下ろすことは、人間への問いを、あらかじめ限られた空間に限定してしまうことになってしまう。ドグマを独断的と決めつけ拒否することが、かえって独断的人間論をまねく。ドグマ的キリスト論は、人間的地平から離れた雲の上の清談のごときものではない。それは人間性のもっとも核心的な部分を貫く鋼の矢のようなものだ。ドロシー・セイヤーズが言うように、「ドグマこそドラマ」なのである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月22日

Patrick Madrid and Pete Vere"More Catholic Than the Pope: An inside Look At Extreme Traditionalism"

(注・この記事は『金田一輝のWaby-Saby』2007年3月22日記事の再掲である。)


『教皇よりもカトリック』とはいかにも皮肉の効いたタイトルである。アメリカで有名な護教家と元SSPXerの教会法学者の共著。三部と余録から成る。
第一部では聖ピオ十世会の歴史を一瞥している。これはVereによるオンライン上のテクストA CANONICAL HISTORY OF THE LEFEBVRITE SCHISMとかぶっている。第二部では第二バチカン公会議という議題について、第三部ではその他の議題について、聖ピオ十世会の誤謬を扱っている。ただ、ひとつひとつが(特に第三部)コンパクトすぎる。伝統原理主義への共感者に対して読んで欲しいというのが著者の意図のようだが、その点ではあまり成功しているようには思えない。ただし、洗脳されきっているのではなく、迷いがあるひとならば有益な情報を得ることが出来よう。
個人的に面白いと思ったのは、第六章の「第二ヴァチカンは「単なる司牧的公会議」だったか?」である。というのも、私自身かようなテーゼを信じ込んでいた時期があるからだ。たまたま、畏敬するDave Armstrongがpastoral(司牧的)公会議/dogmatical(教義的)公会議というのは虚構の区別であると言っていることを知って、考え直しはじめた(例えばDialogue on Vatican II, Conciliar Infallibility, and the SSPX)。
この章を要すれば、pastoralとdogmaticalは相互に排他的なわけではなく、相互に関連している、ということに尽きる。

第二バチカン公会議の純粋に司牧的な教えでさえ、教会の教導権に属す。結局、教会の三つの機能とは、教化すること、統治すること、聖化することである。これらの機能はそれぞれ独自のものであるが、(・・・)それにもかかわらず、それらは相関している。同様に、教会の純粋に教義的教えは、いかにその教えを実施するかということと関係している。言いかえれば、教会の統治の機能は、決して教会の教化の機能と完全に切り離されるというわけではない。そしてそれゆえ、第二バチカン公会議の諸宣言は、同時に教義的でもあり司牧的でもある。


"More Catholic Than the Pope",p86

この第二バチカン=「司牧的」公会議説は、もともとは教皇パウロ6世自身が繰り返し公会議の「司牧」性を唱えたことによる。例えば1966年1月12日のスピーチで、「公会議の司牧的性格から、不可謬性の刻印を付与する特別な仕方で教義を宣言することは避けた」としている。

dato il carattere pastorale del Concilio, esso ha evitato di pronunciare in modo straordinario dogmi dotati della nota di infallibilità; ma esso ha tuttavia munito i suoi insegnamenti dell’autorità del supremo magistero ordinario il quale magistero ordinario e così palesemente autentico deve essere accolto docilmente e sinceramente da tutti i fedeli, secondo la mente del Concilio circa la natura e gli scopi dei singoli documenti.


UDIENZA GENERALE DI PAOLO VI(1966/01/12)

この前半部分を反公会議派は好んで引用しているが、後半も実は重要である。イタリア語については不案内であるが、ma(しかし)以下は、通常教導権の権威による教えなので、個々の文書の性質と視野についての第二バチカン公会議の意向(mente)に沿って、素直な真摯な気持で信者は公会議の決定に従わなければならない、という主旨だろう。当たり前のことながら、第二バチカン公会議が不可謬でないとしても、それらの宣言に対して信者に不同意の権利はない。要するに、この教皇パウロ6世のスピーチは、公会議の個々の文書、あるいは個々の箇所について、これは気に喰わないから採用しない、などと伝統原理主義者のように私的判断によって勝手きままに選別することを正当化していない。

聖ピオ十世会問題において、このような彼らの「第二バチカン公会議」に対する主張について、ことの是非を完全に見極めるのは実際にはそう簡単ではないことは確かである。教義や歴史についての広範で正確な知識を要するからだ。「聖伝ミサ」や「エキュメニズム」についてもそれは言えよう。
しかし、違法の司教聖別をはじめとした、教会法違反については、ごく普通の常識の範囲内でも聖ピオ十世会の行動や主張のおかしさはわかる。私はどちらかというと聖ピオ十世会に対して同情的な方だったと思うが、調べていくうちにスタンスがかなり変った。以前、会の聖職者や彼らのミサに与る信徒について、「離教者」ではないというホヨス枢機卿のインタビューを紹介したが、私は今では、会は(少なくとも質料的に)「離教状態」にあるのではないかと疑っている。たとえば、Is the SSPX in Schism? Four Reasons why the SSPX is in SchismWhat is Jurisdiction?(Does the SSPX have any Jurisdiction?)などの記事を見る限り、聖ピオ十世会による裁治権無視・教会法違反は現在進行形である。しかも、ルフェーブル逝去以後さらにひどくなっている(ちなみに、件の記事の筆者は違法聖別自体は「離教」ではないという説を採用している)。この件については、彼らの言っていること(プロパガンダ)ではなく、彼らの行っていることを見なければならない
そもそも、かりに完全に離教ではなかったとしても、聖ピオ十世会のミサにカトリック信徒は与らないようにということが、前教皇ヨハネ・パウロ2世による使徒書簡「エクレジア・デイ」(1988年)以来の聖座の明示的な意向であることは、はっきりしている(エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1995/9/29)エクレジア・デイ委員会ペルルの書簡(1998/10/27)も参照)。

In the present circumstances I wish especially to make an appeal both solemn and heartfelt, paternal and fraternal, to all those who until now have been linked in various ways to the movement of Archbishop Lefebvre, that they may fulfil the grave duty of remaining united to the Vicar of Christ in the unity of the Catholic Church, and of ceasing their support in any way for that movement. Everyone should be aware that formal adherence to the schism is a grave offence against God and carries the penalty of excommunication decreed by the Church's law.(8)
(現今の状況において、今までルフェーブル大司教の運動にいろいろな仕方で結びついていたすべての人々に対して、厳かに心から、父として兄弟として私が特に訴えたいことがあります。カトリック教会と一体であるキリストの代理者との一致に留まるという重大な義務を果たし、どんな形でもこの運動への支持を止めるように。みな知っておくべきです。離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法(1382条)によって規定された破門という罰を生じさせるということを)


Ecclesia Dei 5c

聖ピオ十世会に対して心情的に共感するだけならまだしも、ネット上であれ実生活上であれ、はっきり会への支持を表明し、会のミサに与るならば、もはやカトリックではなくなる危険性がある。もちろん、そういう覚悟があってそうすることを止めるのは無駄であろう。しかし、カトリックの信者でありたいと願っている一方でそうしようと思うのならば、やめた方がよい。聖伝ミサに与りたいだけならば、聖座に認可された離教的でない団体のミサに行くことができる。「第二バチカン公会議」などの教義的問題は、とりえあえず括弧に入れておくことをお勧めする。素人が手を出す領域ではないからだ。
さて、1988年6月30日の「司教の違法聖別」について、「緊急状態」にあったから違法性は阻却されるという聖ピオ十世会の主張は、聖座自身がそのような解釈を認めなかったという事実からして無効であり無意味である(Archbishop Lefebvre and Canons 1323: 4and 1324 1:5(Pete Vere)参照)。しかし、いったん教会法を離れたうえで、なお「緊急状態」にあったのかどうかを問うことは可能である。少なくとも、聖座も含めて現在の教会に由々しき問題がぜんぜんないと考えるカトリック信徒はいない。聖ピオ十世会はこれを、聖伝、特に典礼の維持の危機と見る。彼らの申し立てによれば、いまや聖伝を保持することができるのは、聖ピオ十世会のルフェーブルとマイヤーくらいである(!!)。

Who are the bishops who have truly kept Tradition and the Sacraments such as the Church has conferred them for twenty centuries until Vatican II? They are Bishop de Castro Mayer and myself. I cannot change that.
(第二バチカン公会議まで20世紀間教会が伝えてきた聖伝と秘跡を真に守ってきた司教は誰でしょうか? それはカストロ・マイヤーと私です。これを変えることはできません。)


On the Occation of the Episcopal Consecrations(1988/6/30)

それゆえ、ルフェーブル大司教の老齢を鑑み、教皇の許可があってもなくても、司教聖別しなければならない「緊急性」があったということになる(!?)。
冷静にみて、かような主張は本人の思い込みとしかいえないが、無理に事実認定を争おうと思えば争えはしよう。ただ、聖座と和解するべく、ラッチンガー枢機卿とのプロトコルに署名したことからだけでも、彼の(悲壮な?)「覚悟」なるものは非常に疑わしいものだと思える。実際、「司教聖別」についてルフェーブルは一貫した考えを持っていなかったようである。

Michael Davies: It is alleged that you intend to consecrate one or more bishops to continue your work. Is this true?
Mgr. Lefebvre: It is totally untrue.
(マイケル・デイヴィス あなたの活動を続けるべく、ひとりかそれ以上の司教を聖別するつもりだといわれてますが、それは本当ですか?
ルフェーブル まったく間違いです。)


Apologia pro Marcel Lefebvre Vol.T Chap.16

これは1976年11月16日のインタビューから。また、本人の著作にも次のようにある。

It has also been said that after me, my work will disappear because there will be no bishop to replace me. I am certain of the contrary; I have no worries on that account. I may die tomorrow, but the good Lord answers all problems. Enough bishops will be found in the world to ordain our seminarians: this I know.
(私がいなくなった後、私の活動は消えてしまう、なぜなら私に代わる司教がいなくなるだろうから。こんな風に言う人もいます。私は反対のことを確信しています。ぜんぜん心配していません。私は明日にも死ぬかも知れませんが、善なる主はすべての問題に答えます。私の神学生たちを叙階する司教は世界中に見つかるでしょう。私にはわかってますよ。)

Open Letter to Confused Catholics Chap.23


序文によれば1986年出版である。つまり、ルフェーブル自身、1986年くらいまでは、教皇に逆らってまで違法に「司教聖別」せねばならない「緊急状態」にあったとは思っていなかったようなのである。それなのに、たった数年で、状況判断が大きく変わったらしい(!)。不可謬的でないルフェーブルの不可謬的でない言動に振り回されている方は、いまいちど自らの頭の中身を検討し直してみてはいかがであろうか。


(文責・金田一輝)




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2007年09月18日

沢田和夫『「神学大全」入門』

私のような凡人にはとうていあの難解で膨大な『神学大全』をきちんと読み通すことなどできない。ほんの少しの尻尾をつかむことさえ危ぶまれる。しかし、わずかなりともあのアッキーナの本心に近づきたいと願う人は少なくないはずだ。
あまたある入門書中、これほどそうした読者に寄り添い親身になって『神学大全』を解説してくれる本はない。果たしてアッキーナもこんなやさしいおじさんだったのではないかと錯覚させられかねない。まえがき冒頭から引こう。



最近、学生といっしょに読みながら、皆で「案外」におもしろい本だといっているのは、トマス・アクィナス『神学大全』(高田三郎訳、創文社刊)です。真理とは? 事実とどう違うのか、一貫性とか、全体があってはじめて真理というのではないか、というようなことを第一行から考えて行くような本です。カトリック的とは何か。一面的でないこと、全面的にキリストの救いの現実を伝えているのがカトリックということ、それではカトリック的真理とはどういうことかな。



以下、『神学大全』の勘所を、順序にそってわかりやすく教えてくれる。もちろん、それぞれが簡潔なものなので、ただしく「摘要」と呼ぶべきであろう。しかし、だからこそ、『神学大全』から長たらしく引用して、あれこれ論じてかえって要点が分からなくなるということがない。もちろん、『神学大全』以外の諸著作にも目配りして、じゅうぶん噛み砕いておられるので、上っ面の理解で終わっていない。
これで安心して『神学大全』を斜め読みできる、そんな希望を抱かしてくれる元気の出る一冊である。

(文責・金田一輝)




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2007年09月12日

Richard Peddicord "The Sacred Monster of Thomism"

フランスのドミニコ会士にして神学者であるレジナルド・ガリグ=ラグランジュの生涯と思想についての本である。
裏表紙より。



『トミズムの聖なる怪物』(フランソワ・モーリヤックによるあだ名からとられた)は、二十世紀前半で最も影響力のあったドミニコ会の神学者であり、自由神学者にとってはどこにおいても災いの種であった人物の、生涯と思想についての初めての本格的な研究である。
レジナルド・ガリグ=ラグランジュは50年間アンゲリクム(教皇立聖トマス大学)で教え、教会の歴史において最初の霊性哲学の教授職をもち、二十八の著作と六百以上の記事を書いた。彼は教皇ヨハネ・パウロ2世の博士論文の指導教授でもあった。
『トミズムの聖なる怪物』は 彼の生涯とその一般的な背景を素描し、彼の生涯における最も重要な要素―説教修道会(ドミニコ会)への入会―を詳細に論じ、アンリ・ベルグソンとモーリス・ブロンデルとの哲学的議論や、ジャック・マリタンやM・ドミニク・シェヌとの神学的(かつ政治的)議論を検討し、ガリグのトミズムと彼の神学と霊性へのアプローチを吟味して章を終える。

リチャード・ペッディコードは聖ルイ大学のアクィナス神学研究所の組織神学準教授である。



ドミニコ会の学風さながら、真理の探究を通して信仰を深めたラグランジュは無類の論争好きでもあった。その最大の敵の一つがベルグソニズムだ。
二十世紀初頭のフランスで隆盛を極めたベルグソンの哲学は、いわば当時最も流行した「現代思想」であったといえる。実際、今日からは想像することも難しいが、実証主義が席巻する中で新たな思想潮流を渇望していた青年哲学徒らは、そこにながらく待ち望んでいた精神性の回復を見たのだった。ベルグソンは、ひからびた存在概念を打破し、固定的な思考法ではとらえられない生き生きとした精神の流れ(純粋持続)こそが真実在であると主張した。簡単にまとめれば「存在に対する生成の優位」を唱えた。
厳格なトミストであったラグランジュは、神学者間にも浸透しはじめたベルグソニズムを、信仰の基礎を破壊するものとして攻撃した。こうした動きは、単なる護教的な、それゆえまさしく反動的な態度にも見えよう。実際、今に至るもトミズムは、そういう中世の遺物として見られがちである。しかし、ラグランジュからすれば、カトリック信仰の基礎の破壊は、人間の真理への意志を弱めるもの、したがって人間性を破壊するものだった。ラグランジュは勇気をもって、ベルグソニズムに対して、「生成に対する存在の優位」を対置する。

「この(実念論と名目論の)ジレンマを説く鍵は、人間の能力としての知性は感覚や意識よりも優位にあるのか劣位にあるのか、という問いにあるとガリグは論じた。つまり「哲学とは感覚的の下にある知性的なものの探求なのか、それを覆い隠す誤った知性的なものの下にある感覚的なものの探求なのか」という問いだ。
単純に言えば、後者、したがってベルグソンの側を選ぶということは、人間に固有なものを否定することになる。知性の働きの理解なしには、人間と他の動物の世界を区別するものは何もなくなる。ガリグは問いかける。「人間と動物を分けるものは何だろうか? 判断力、判断する精神、「ある」という語について、いかにひとは説明するのだろうか?」」 p59

さらに、モダニズムの危機に呼応して、カトリック神学の形而上学的基礎を保守するものとして、アリストテレス哲学によって信仰と理性を総合したトミズムの姿が浮かびあがる。モダニズムの立場では、教義は時と場合に応じて人間の宗教的欲求に合わせた象徴・記号に過ぎなくなる(例えばシュライエルマッハー)。しかし、厳格トミズムすなわちラグランジュによれば、「キリスト教信仰の真理は人間の宗教的渇望を超越した現実の表現である」 p121
こうした真理の客観性の主張はもの笑いの種にされて久しいが(例えば小田垣雅也『キリスト教の歴史』はトミズムを「客観主義」と要約している!)、そもそも真理への到達の可能性を一切否定するならば、信仰と迷信の区別はもはやつかなくなってしまうし、真理の相対主義(もし、そんなものが本当にありうるとしての話)は、容易にニヒリズムにいきつく。
実際、モダニズム、それに続くポストモダニズムに、ゆり戻しが生じ初めているのではないか。ヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、そうした相対主義的現状をふまえて、なお「哲学」への誘いを呼びかけている点で、一種の皮肉になりえている。というのは、通常「哲学は神学の碑女」と哲学を賤下しているとのしられ、哲学の抑圧者と世間的に見なされているキリスト教、しかも伝統保守的と思われているカトリックが率先して、哲学の価値を再認し、その再興をうながしているのだから。
「ファシズム」とすら罵倒された(事実ヴィシー政権やフランコを支持したのだが)、ラグランジュのトミズムは、実際、その特殊性を超えて、カトリシズムにおける哲学的思考の擁護を象徴してもいるのだ。

「ガリグ・ラグランジュの厳格トミズムの核心は、教皇(ヨハネ・パウロ2世)によって「人間の精神的遺産の一つ」―「正しき理性」それ自体と同一視された。このことが彼をして、教会はそれ固有の哲学を持たないし、特に決まった哲学を主張しているのでもないと言わしめた。しかし、「正しき理性」を拒否する哲学は、その場合はもちろん、ひどく不完全なおのれの姿をさらすことになるだろう」 p220

それにしても、真理への意志とは、ある特定の宗教への信仰ではあるまい、という疑問は起こる。しかし、岩下壮一が『カトリックの信仰』冒頭で述べたように、もし、カトリックの信仰こそが真理の実現そのものだとしたら? 

(文責・金田一輝)






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2007年08月24日

Dave Armstrong "Pansees on Catholic Traditionalism

オンラインで"Biblical Evidence for Catholicism"(現在"Cor ad cor loquitur"へ移行)も運営する、著名なカトリック護教家Dave Armstrongによる、伝統主義についての書。タイトル通り339の断片的考察を集めたものだが、テーマ別に幾つかのユニットに分けられているので、特に散漫というわけではない。
目次より。


T 「伝統主義」の一般的特性
U 信仰と楽観主義 vs 悲観主義
V 教会の完全性
W いわゆる「保守カトリック」 vs 「ネオカトリック」
X 教理の発展 vs 教義の進化
Y 私的判断と「カフェテリアのカトリック」
Z 原理主義者と不完全なカトリック改宗者
[ 「公会議前の」教会の「古き良き日々」
\ エキュメニズムと宗教の自由
] 進化論とカトリック
]T 第二ヴァチカンは「近代主義」の公会議か?
]U 第二ヴァチカン文書は「曖昧」か?
]V ヴァチカン後の「リベラルな」教皇たち
]W ノブス・オルド(新しい)ミサ
]X ヨハネ・パウロU世は「近代主義者」か?
]Y 離教、離教的精神、異端


Daveは教義や教会法の専門家ではないとことわっており、詳細で具体的な論評は避けている。いわゆる「伝統主義者」(通常extreme traditionalism とか integralistと称される立場)の思考の根を撃つという態度だ。従って、時に一般論的な言述ではあるが、核心に迫った洞察が見られる。

「私は常に主張してきた。こんにちよくある類のカトリック伝統主義とは、誤った思考の問題であり、おそらくまた第一には、(カトリック的意味で)超自然的信仰の喪失の問題でもあると」p12

「伝統主義者」は一見信仰深く、時に思考が足りないように思われることがある。Daveによれば逆だ。ごちゃごちゃ考えすぎて、信仰を失ってしまっているのだ。
彼の独創ではないが、伝統主義が、実はその対極にあるとされるプロテスタントと相似であるという指摘も面白い。右翼と左翼の例を考えても分かる通り、両極が一致してしまうのはありがちなことではある。

「『伝統主義者』は、教会の教導権や不可謬の教皇を超える究極の権威を持つのは良心だと主張する。これはプロテスタントよりプロテスタント的だし、初期ルター派より初期ルター派的だ。カトリックの立場(ただしい知識を有した良心というニューマンの見方)では、良心は教会の意向と指導の内で、表明され基礎づけられていなければならない。極端な状況においてのみそれに抗することができる。「伝統主義者」による不同意と不従順はこの正統な理解を踏みにじるものであり、権威に関するプロテスタントの原理(私的判断)や、さらには近代主義者の原理(恣意的選択)を採用しているのだ」p50

第二バチカン公会議の問題についても、新ミサについても、「自分たちこそが正統な解釈者である」と主張してしまう時点で、正統なカトリック的立場ではない。]U章で著者が解説している通り、第二バチカン公会議文書を解釈する権威も、究極的には教会教導権に属する。そうでないならば、聖書すら「曖昧」な、良心によってどうとでも解釈できるテキストに過ぎなくなる。それは信仰の基盤の破壊だ。
この本を読むと、伝統主義者は自らの基礎をこそ壊しつづけているのだということが分かる。Daveは教皇権を擁護したかどで、逆に伝統主義者によって「近代主義者」のレッテルを貼られたと苦笑している。教皇権の護持は狂信なのか? そうかも知れない。しかし、Daveによれば、それは神への楽観的な信頼なのである。なぜなら、カトリックの信仰によれば、教会は主が建てたものであり、世の終わりまで崩れないものだからだ。

(文責:金田一輝)




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