2008年07月28日

カトリックのトリセツ:破門(excommunication)

破門(excommunication)

「破門」というと、カトリック教会の権威主義や組織主義といった悪い印象を増幅するマジックワードとして使われている。「A級戦犯」が比喩的にマイナス価値を表すために使用されているのと同じように、別の文脈で使われることも少なくない。むしろ、師匠が弟子を「破門」する、というような「縁を切る」意味での使い方が一般的であろう。
そうした巷間の通俗的な印象に引きずられてか、「破門」をあたかも教会からの「永久追放」であるかのように捉える者も少なくない。カトリック以外のキリスト教徒はもちろん、カトリック信徒内にもそういう誤解をしている人々がいる。
しかし、よくよく考えなければならないが、もし本当に「破門」が「永久追放」を意味するのであるならば、破門された人間は一人の例外もなく教会に復帰していてはならない。しかし、事実は違う。破門が撤回されたケースは歴史的に山ほどある。そうした事実を知っているにもかかわらず、なおこうした誤解をするのは何故なのか。あるいは、撤回されるケースは例外であるとでも思っているのだろうか。

とりあえず、標準的な教会法の教科書(James A.Coriden"An Introduction to Canon Law"Paulist1991年版)を引こう。

懲戒罰ないし譴責 名称が示唆するように、これらの罰は犯罪者を癒し、治療することが目的である(譴責という語(censure)は懲戒(reprimand)を意味する)。そのような罰には三つある。破門制裁、禁止制裁、停止制裁。破門の意味するところは、信徒の交わりからの部分的な排除である。それは教会から信徒を切り離すことではなく、制限された関係のことである。被破門者は秘跡の執行や受領を禁じられる。あるいは、すべての職務、奉仕職の行使を禁じられる(CIC 1331)。(中略)懲戒罰の目的は回心であるので、犯罪者が悔悛し、行われた傷害や躓きを改める意志がある場合は、譴責は解かれねばならない(CIC 1358)


Introduction to Canon Law,Paulist,1991,p177

ここで解説されている通り、破門によって信徒はほとんどの権利を喪失し、交わりから排除されもするが、にもかかわらず、破門は教会からの信徒の永久的な分離を意味しない。懲戒罰の一種であり、被破門者にとってはむしろ、教会との再度の一致のために下されている。
破門制裁における排除の範囲については、歴史的に変容しており、信徒の交わりからの完全で包括的な排除(いわゆる大破門)もあった(Summa Theologica Suppl.Q.21 A.1)。しかし、それとて「永久追放」ではない。悔悛によって交わりに復する可能性があったからだ。罰が重ければ重いほど、それを解除する権威者が制限されただけである。現行法でも最も重い懲戒罰は「聖座に留保された伴事的破門」(すなわち聖座以外には解除できない破門)である。
ここで注意しておくべきことは、犯罪者が悔悛すれば「譴責は解かれねばならない」ということである。指示されている教会法自体を引いておこう。

CIC 1358 (1)
懲戒罰の赦免は、第1347条第2項の規定に従って、命令不服従の態度を改めた犯罪者に対してのみ与えることができる。命令不服従の態度を改める者には、赦免を拒否することはできない

こうした規定があることから分かる通り、破門(懲戒罰)には常にあらかじめ赦免の可能性がセットされている。もし「永久追放」を意味するのであれば、こうした可能性は少なくとも法典からは排除してしかるべきであろう。しかるに実際には、被破門者のような犯罪者にも、一定のカトリック信徒としての権利が法的に留保されているわけである(これは市民法における犯罪者の権利の考えに類比できる)。
教会法は1917年の旧教会法典、1983年の新教会法典と、きわめてシステム化されてきており、それだけ裁治権者の恣意がまかり通る余地が減っている。もちろん現在でも法の具体的適用においては、解釈や運用における幅があることは言うまでもない。しかし、明文上も不文上も、法の適用において寛容の精神を旨としていることは、教会法を理解する上で忘れてはならない事実である。

さて、おまけとして、ラッチンガー(現教皇ベネディクト16世)の破門についての発言を引いておこう。
ラッチンガーはあるインタビューにおける「異端」の質問に答える形で、教会は共同体として、共通善である信仰を守るための社会的行動をとる必要(すなわち信徒に対する刑罰を課す必要)があるという主旨のことを説明したのち、以下のようにつけ加えている。

今日でさえ異端者に課せられている破門は、矯正のための刑罰として理解されるべきです。すなわち、その人を罰するのではなく、むしろ彼を正し、良くするための罰だということです。自らの誤謬を理解し認める人はいつでも教会との完全な交わりへと再び受け入れられます


The Ratzinger Report,Ignatius,1985,pp25-26

いつでも教会との完全な交わりに受け入れられるとされる「破門」が、果たして教会からの「永久追放」でありえようか? むしろ「破門」は間違いを犯した者に対する、教会へ再び戻って来て欲しいという愛を込めた叱責だと言えよう。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。

↓ちなみに下は改版の方です。




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2008年03月13日

カトリックのトリセツ:教皇不可謬権

教皇不可謬権

「無原罪の御宿り」と並んで、字面で誤解される率100パーセント近いカトリックの教義の一つ。
一例として「日本キリスト教団 須賀川教会のホームページ」から引こう。

カトリック教会とプロテスタント教会の解釈が別れる代表的な聖書箇所。カトリック教会は、この18節「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」を根拠に、主は、「岩」と呼ばれたペテロを後継者として認め、天国の鍵を渡した。そのペテロの正当な後継者であるのがカトリック教会の教皇であると。これを「教皇の首位権」と言います。つまり、カトリック教会だけが、代々の正当なキリスト教だという意味になります。現在のヨハネ・パウロ二世は、使徒ペテロから数えて264代目となります。更に教皇の首位権を強化するあまり、1870年には、「教皇の不可謬性」が教義とされました。「教皇の不可謬性」とは、信仰や道徳に関して教皇が教皇座から教示するとき、すべての誤謬から守られると言うもの。簡単に言えば、教皇は間違がったことは絶対に言わないし、間違いも犯さないということ

説教ワンポイント「わたしの教会を建てる」

文章から判断して、この教義について十分調べたことは明らかである。従って、概ね正しい記述になっている。しかし、肝心要の最後のまとめの文がおかしい。
まず、不可謬権は教皇のすべての言動には及ばない。「教皇座から教示するとき」とある通り、公式に、教皇職の発動として、全信徒を拘束する形でなされる場合に限定される。また、不可謬性は不可罪性を意味しない。「信仰や道徳に関して」とある通り、教義を宣言する時以外の、教皇の個人的な言動に間違いがあり得ないなどということではない。
教皇不可謬権の定義(Pastor Aeternus)を自ら読んだに違いないにもかかわらず正確な理解に達しないのは不思議と言えば不思議だが、もともとカトリックの教義全体に不案内なプロテスタントの方ならば、仕方がないとは言える。しかしプロのカトリックですら、故意かそうでないかはともかく、とんでもない誤読をしていることある。
『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』(春秋社、2005年)の訳者でラッチンガーの弟子でもあった里野泰昭氏は同書解説において、あくまでラッチンガーが述べたこととして次のように書いている。

ラッチンガー教授は、不謬性を教皇個人の問題としてでなく、全教会の問題として考えます。信徒を含んだ全教会がまず不謬であるのです。ついで全司教の問題としてとらえます。不謬性を定義した、第一ヴァチカン公会議の文書を分析することによって、不謬性の条件として、全司教との一致において決定するという言葉が入っていることを指摘します。

(・・・)

ローマの司教は自分ですべてを決めるのではなく、常にほかの司教たちとの一致において決定したのです。しかし一致が得られないとき、全教会の一致の保証として、ローマの司教が決断を下したのでした。

『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』、pp223-234

前後のつじつまがあっていないので後半は置くとして、「不謬性の条件として、全司教との一致において決定する」という文言は聞き捨てならない。

教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神が、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである

Pastor Aeternus(DS 1839)

教皇は、単に全司教を「代表」して教義を定義決定するのではない。それでは教皇不可謬権は単なる形式に過ぎず、実質的意味を失う。首位権を名誉的に認めることが実際には首位権の否定になるのと同様、不可謬権を形式的にのみ認めることは実はその否認なのである。教皇不可謬権は、あくまで教皇単独で不可謬権を行使できるということである。
しかしここで、逆方向の誤解をしてはならない。不可謬権は教皇のみに与えられたわけではない。不可謬性はキリストの建てた教会全体に付与されているのであって、それを保証するものとして司教団とその目に見える頭という位階秩序がある。それゆえ、不可謬権はその行使の仕方に存すると言える。不可謬権は公会議において司教団によって行使されることもあるし、聖座宣言において教皇単独で行使されることもある。さらに言えば、通常普遍教導権によっても、すなわち荘厳宣言による定義なしにも、行使されうる。
このように見ていくと、教皇不可謬権は、教皇首位権と教会についての幾つかの教義から合理的に推論できるとはいえ、教義全体の秩序においては例外的あるいは周辺的な位置にあると言える。実際、はっきり聖座宣言で定義されたと確証できる教義がどれなのかについては、神学者間に不一致が見られる。かろうじて合意に達している数は十前後とごくわずかであり、最低限に見積もれば「無原罪の御宿り」と「聖母被昇天」の二つのみになる(Francis A. Sullivan "Creative Fidelity: Weighing and Interpreting Documents of the Magisterium"WIPE and STOCK,1996 pp80-92参照)。
教皇不可謬権の教義は単なる誤解の的であるばかりでなく、エキュメニズムの主要な障害の一つでもある。しかし、それならばそもそも教皇首位権からしてそうであるし、こちらの方が教義全体においても、信仰生活においても、重要度は格段に高い。つまるところ、教皇首位権の正当な再解釈を通じてのみ、不可謬権の教義の意義のさらなる解明が進むのであろう。それまでは、教皇不可謬権の理解に対する可謬を可能な限り避けることが、とりあえずまず必要なことなのである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。



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2008年03月05日

カトリックのトリセツ:伴事的破門(自動破門)

伴事的破門(自動破門)

excommunicatio latae sententiaeにあてられた邦語。
かつて某巨大掲示板で、ある方が「自動破門」という用語を使ったところ、そんなものは教会法典には出てこないなどと大勢に散々こき下ろされていたことがある。件の人物は、automatic excommunication(自動破門)はexcommunicatio latae sententiaeの通称として一般に使われ、検索にかければいくらでも出てくる、と反論したが、大方の支持は得られなかった。
非難する側の無知無教養ぶりには苦笑せざるをえないが、そもそも「自動破門」は教会法典に出てこないが「伴事的破門」なら出てくるという短絡的な結論もどうかと思う。というのは、正式な法文はラテン語であって、日本語ではないからである。
latae sententiaeは直訳すれば「判決が言い渡された」という意味で、ferendae sententiae「判決が言い渡されるべき」と対として使われている。お分かりの通り、どこにも「伴事的」などという訳語にあたる部分はない。「伴事的破門」も「自動破門」と同じ程度の意訳に過ぎないのである。
Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2"(Servant)で確認しておこう。

教会法が犯罪に対する罰を自動的に下す場合(例えば堕胎をした者に下る破門)、法によればこれは「判決が言い渡された(latae sententiae)」罰である。著者たちを含む多くの教会法家は「判決が言い渡された(latae sententiae)」という語と交換可能なものとして、「自動的な(automatic)」という語を使っている。したがって、「判決が言い渡された破門(latae sententiae excommunication)」と「自動破門(automatic excommunication)」は同じものである。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",Servant,2007,p94

しかしこの場合「自動的な」とはどういう意味なのか、いまひとつ判然としない方もいるだろう。おそらくそうした分かりにくさは、一般の市民法とは違った教会法の特異性に原因がある。
まず、該当する教会法典の条文を見ておこう。

CIC can.1314
多くの場合、刑罰は「判決が言い渡されるべき」刑罰であり、刑罰が科せられた後でなければ犯人を拘束しない。ただし、法律又は命令が、犯行が行われた事実そのものによって刑罰が下ると明白に規定していれば、伴事的刑罰である。
(註・英訳を参照に私訳した)

つまり、通常は、一般の市民法と同様教会法でも、刑罰は裁判による審理ののちはじめて下る。しかし、一部の刑罰は、審理なしに、従って裁判なしに下る。それが教会法特有の「伴事的刑罰(自動刑罰)」である。直訳の「判決が言い渡された」からも分かる通り、「自動刑罰」の場合、いわば法文そのものがすでに判決文なのである。未来にあるであろう犯罪に対して、あらかじめ判決を告げているわけである。
それゆえ、自動刑罰は、その犯罪事実そのものによって、あるいは、法そのものによって、自動的に下る。つまり、法理から言えば、犯罪を実行したまさにその瞬間に下る。

can.1314は、それらが科せられるか宣告されるまでは犯人を拘束しない「判決が言い渡されるべき」刑罰と、即時に拘束する「判決が言い渡された(自動的な)」刑罰とを区別している。それゆえ、意図的に教皇を殴ったカトリック教徒は、拳が教皇の鼻先に触れた瞬間に破門制裁を受ける。もちろん、教皇が単に空き時間にボクシングの親善試合を楽しんでいたわけではないということが前提であるが。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",p95

ここから奇妙な事もたしかに生じうる。完全に秘密に行われた犯罪の場合、仮にそれが自動刑罰に値するものであっても、本人以外はその事実を知りえないから、事実上刑罰の法的強制力がないかのような状態が生じうるのである。この場合、法は単に犯人の良心を拘束するだけである。
実際は、自動刑罰であっても、権能のある裁治権者による宣告が成されるのが通常である。例えば1988年6月30日、違法の司教叙階を実行した瞬間に、ルフェーブルは使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けた(CIC can.1382)。ルフェーブルはあらかじめこの犯罪を実行するとメディアを通して予告もした上、公衆の面前で公然と犯罪行為を成した。従って、ルフェーブルが自動破門を受けたことはすでに誰の目にも明らかであったが、翌7月1日司教省長官名によって「破門宣告」が公布されて確定的となった。
can.1331では、宣告されていない自動破門(non-declaerd latae sententiae excommunication)と宣告された自動破門(declared latae sententiae excommunication)を区別している。自動破門も、宣告されてはじめて十全な法的効力(full legal effects)を持つのである("New Commentary on the Code of Canon Law",Paulist,2000,p1536参照)。
それにしても、裁判なしに刑罰が下されるなどということは、近代法にもとるとも思われる。ここで念頭に置かねばならないのは、教会法上の刑罰の第一の目的が何であるかということである。たしかに、刑罰が自動的なものとなっているのは、その犯罪の重大性を鑑みてである。しかしそれは、まずもって犯罪者を重罰に課すことが目的なのではなく、むしろそもそも犯罪を犯すことのないようにという抑止効果を期待してのことである。実際の抑止効果がどれほどのものか客観的に測ることは難しいが、少なくとも裁判なしの刑罰の方が裁判ありの刑罰よりも抑止効果が高いであろうことは推測できるだろう。
もちろんこうした抑止効果は、究極的には信徒の良心を前提にしている。ホセ・ヨンパルトが言うように、教会法の拘束力はあくまで「一人ひとりの信者の自由意志によるものであり、教会の権威を自発的に認めることにその根拠がある」(『教会法とは何だろうか』、成文堂選書、1997年、p9)からである。
これらのことから言えるのは、信徒にとって重要なのは、自動破門が法理上何であるかや、ある犯罪について実際に自動破門が生じたかいなかを、教会法典の文字面にこだわって侃々諤々することよりも、自動破門を規定した教会当局の意図を汲み取って、それに相応しい行動を採ることであろう。例えば前教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令「ecclesia dei」の「(ルフェーブルの)離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法によってあらかじめ定められた破門という罰を受ける」という言葉は、そのような勧告として受け取られるべきである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり



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