2008年07月28日

カトリックのトリセツ:破門(excommunication)

破門(excommunication)

「破門」というと、カトリック教会の権威主義や組織主義といった悪い印象を増幅するマジックワードとして使われている。「A級戦犯」が比喩的にマイナス価値を表すために使用されているのと同じように、別の文脈で使われることも少なくない。むしろ、師匠が弟子を「破門」する、というような「縁を切る」意味での使い方が一般的であろう。
そうした巷間の通俗的な印象に引きずられてか、「破門」をあたかも教会からの「永久追放」であるかのように捉える者も少なくない。カトリック以外のキリスト教徒はもちろん、カトリック信徒内にもそういう誤解をしている人々がいる。
しかし、よくよく考えなければならないが、もし本当に「破門」が「永久追放」を意味するのであるならば、破門された人間は一人の例外もなく教会に復帰していてはならない。しかし、事実は違う。破門が撤回されたケースは歴史的に山ほどある。そうした事実を知っているにもかかわらず、なおこうした誤解をするのは何故なのか。あるいは、撤回されるケースは例外であるとでも思っているのだろうか。

とりあえず、標準的な教会法の教科書(James A.Coriden"An Introduction to Canon Law"Paulist1991年版)を引こう。

懲戒罰ないし譴責 名称が示唆するように、これらの罰は犯罪者を癒し、治療することが目的である(譴責という語(censure)は懲戒(reprimand)を意味する)。そのような罰には三つある。破門制裁、禁止制裁、停止制裁。破門の意味するところは、信徒の交わりからの部分的な排除である。それは教会から信徒を切り離すことではなく、制限された関係のことである。被破門者は秘跡の執行や受領を禁じられる。あるいは、すべての職務、奉仕職の行使を禁じられる(CIC 1331)。(中略)懲戒罰の目的は回心であるので、犯罪者が悔悛し、行われた傷害や躓きを改める意志がある場合は、譴責は解かれねばならない(CIC 1358)


Introduction to Canon Law,Paulist,1991,p177

ここで解説されている通り、破門によって信徒はほとんどの権利を喪失し、交わりから排除されもするが、にもかかわらず、破門は教会からの信徒の永久的な分離を意味しない。懲戒罰の一種であり、被破門者にとってはむしろ、教会との再度の一致のために下されている。
破門制裁における排除の範囲については、歴史的に変容しており、信徒の交わりからの完全で包括的な排除(いわゆる大破門)もあった(Summa Theologica Suppl.Q.21 A.1)。しかし、それとて「永久追放」ではない。悔悛によって交わりに復する可能性があったからだ。罰が重ければ重いほど、それを解除する権威者が制限されただけである。現行法でも最も重い懲戒罰は「聖座に留保された伴事的破門」(すなわち聖座以外には解除できない破門)である。
ここで注意しておくべきことは、犯罪者が悔悛すれば「譴責は解かれねばならない」ということである。指示されている教会法自体を引いておこう。

CIC 1358 (1)
懲戒罰の赦免は、第1347条第2項の規定に従って、命令不服従の態度を改めた犯罪者に対してのみ与えることができる。命令不服従の態度を改める者には、赦免を拒否することはできない

こうした規定があることから分かる通り、破門(懲戒罰)には常にあらかじめ赦免の可能性がセットされている。もし「永久追放」を意味するのであれば、こうした可能性は少なくとも法典からは排除してしかるべきであろう。しかるに実際には、被破門者のような犯罪者にも、一定のカトリック信徒としての権利が法的に留保されているわけである(これは市民法における犯罪者の権利の考えに類比できる)。
教会法は1917年の旧教会法典、1983年の新教会法典と、きわめてシステム化されてきており、それだけ裁治権者の恣意がまかり通る余地が減っている。もちろん現在でも法の具体的適用においては、解釈や運用における幅があることは言うまでもない。しかし、明文上も不文上も、法の適用において寛容の精神を旨としていることは、教会法を理解する上で忘れてはならない事実である。

さて、おまけとして、ラッチンガー(現教皇ベネディクト16世)の破門についての発言を引いておこう。
ラッチンガーはあるインタビューにおける「異端」の質問に答える形で、教会は共同体として、共通善である信仰を守るための社会的行動をとる必要(すなわち信徒に対する刑罰を課す必要)があるという主旨のことを説明したのち、以下のようにつけ加えている。

今日でさえ異端者に課せられている破門は、矯正のための刑罰として理解されるべきです。すなわち、その人を罰するのではなく、むしろ彼を正し、良くするための罰だということです。自らの誤謬を理解し認める人はいつでも教会との完全な交わりへと再び受け入れられます


The Ratzinger Report,Ignatius,1985,pp25-26

いつでも教会との完全な交わりに受け入れられるとされる「破門」が、果たして教会からの「永久追放」でありえようか? むしろ「破門」は間違いを犯した者に対する、教会へ再び戻って来て欲しいという愛を込めた叱責だと言えよう。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。

↓ちなみに下は改版の方です。




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2008年04月18日

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(文責・金田一輝)
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2008年03月13日

カトリックのトリセツ:教皇不可謬権

教皇不可謬権

「無原罪の御宿り」と並んで、字面で誤解される率100パーセント近いカトリックの教義の一つ。
一例として「日本キリスト教団 須賀川教会のホームページ」から引こう。

カトリック教会とプロテスタント教会の解釈が別れる代表的な聖書箇所。カトリック教会は、この18節「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」を根拠に、主は、「岩」と呼ばれたペテロを後継者として認め、天国の鍵を渡した。そのペテロの正当な後継者であるのがカトリック教会の教皇であると。これを「教皇の首位権」と言います。つまり、カトリック教会だけが、代々の正当なキリスト教だという意味になります。現在のヨハネ・パウロ二世は、使徒ペテロから数えて264代目となります。更に教皇の首位権を強化するあまり、1870年には、「教皇の不可謬性」が教義とされました。「教皇の不可謬性」とは、信仰や道徳に関して教皇が教皇座から教示するとき、すべての誤謬から守られると言うもの。簡単に言えば、教皇は間違がったことは絶対に言わないし、間違いも犯さないということ

説教ワンポイント「わたしの教会を建てる」

文章から判断して、この教義について十分調べたことは明らかである。従って、概ね正しい記述になっている。しかし、肝心要の最後のまとめの文がおかしい。
まず、不可謬権は教皇のすべての言動には及ばない。「教皇座から教示するとき」とある通り、公式に、教皇職の発動として、全信徒を拘束する形でなされる場合に限定される。また、不可謬性は不可罪性を意味しない。「信仰や道徳に関して」とある通り、教義を宣言する時以外の、教皇の個人的な言動に間違いがあり得ないなどということではない。
教皇不可謬権の定義(Pastor Aeternus)を自ら読んだに違いないにもかかわらず正確な理解に達しないのは不思議と言えば不思議だが、もともとカトリックの教義全体に不案内なプロテスタントの方ならば、仕方がないとは言える。しかしプロのカトリックですら、故意かそうでないかはともかく、とんでもない誤読をしていることある。
『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』(春秋社、2005年)の訳者でラッチンガーの弟子でもあった里野泰昭氏は同書解説において、あくまでラッチンガーが述べたこととして次のように書いている。

ラッチンガー教授は、不謬性を教皇個人の問題としてでなく、全教会の問題として考えます。信徒を含んだ全教会がまず不謬であるのです。ついで全司教の問題としてとらえます。不謬性を定義した、第一ヴァチカン公会議の文書を分析することによって、不謬性の条件として、全司教との一致において決定するという言葉が入っていることを指摘します。

(・・・)

ローマの司教は自分ですべてを決めるのではなく、常にほかの司教たちとの一致において決定したのです。しかし一致が得られないとき、全教会の一致の保証として、ローマの司教が決断を下したのでした。

『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』、pp223-234

前後のつじつまがあっていないので後半は置くとして、「不謬性の条件として、全司教との一致において決定する」という文言は聞き捨てならない。

教皇が教皇座から宣言する時、言換えれば全キリスト信者の牧者として教師として、その最高の使徒伝来の権威によって全教会が守るべき信仰と道徳についての教義を決定する時、救い主である神が、自分の教会が信仰と道徳についての教義を定義する時に望んだ聖ペトロに約束した神の助力によって、不可謬性が与えられている。そのため、教皇の定義は、教会の同意によってではなく、それ自体で、改正できないものである

Pastor Aeternus(DS 1839)

教皇は、単に全司教を「代表」して教義を定義決定するのではない。それでは教皇不可謬権は単なる形式に過ぎず、実質的意味を失う。首位権を名誉的に認めることが実際には首位権の否定になるのと同様、不可謬権を形式的にのみ認めることは実はその否認なのである。教皇不可謬権は、あくまで教皇単独で不可謬権を行使できるということである。
しかしここで、逆方向の誤解をしてはならない。不可謬権は教皇のみに与えられたわけではない。不可謬性はキリストの建てた教会全体に付与されているのであって、それを保証するものとして司教団とその目に見える頭という位階秩序がある。それゆえ、不可謬権はその行使の仕方に存すると言える。不可謬権は公会議において司教団によって行使されることもあるし、聖座宣言において教皇単独で行使されることもある。さらに言えば、通常普遍教導権によっても、すなわち荘厳宣言による定義なしにも、行使されうる。
このように見ていくと、教皇不可謬権は、教皇首位権と教会についての幾つかの教義から合理的に推論できるとはいえ、教義全体の秩序においては例外的あるいは周辺的な位置にあると言える。実際、はっきり聖座宣言で定義されたと確証できる教義がどれなのかについては、神学者間に不一致が見られる。かろうじて合意に達している数は十前後とごくわずかであり、最低限に見積もれば「無原罪の御宿り」と「聖母被昇天」の二つのみになる(Francis A. Sullivan "Creative Fidelity: Weighing and Interpreting Documents of the Magisterium"WIPE and STOCK,1996 pp80-92参照)。
教皇不可謬権の教義は単なる誤解の的であるばかりでなく、エキュメニズムの主要な障害の一つでもある。しかし、それならばそもそも教皇首位権からしてそうであるし、こちらの方が教義全体においても、信仰生活においても、重要度は格段に高い。つまるところ、教皇首位権の正当な再解釈を通じてのみ、不可謬権の教義の意義のさらなる解明が進むのであろう。それまでは、教皇不可謬権の理解に対する可謬を可能な限り避けることが、とりあえずまず必要なことなのである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり。



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2008年03月05日

カトリックのトリセツ:伴事的破門(自動破門)

伴事的破門(自動破門)

excommunicatio latae sententiaeにあてられた邦語。
かつて某巨大掲示板で、ある方が「自動破門」という用語を使ったところ、そんなものは教会法典には出てこないなどと大勢に散々こき下ろされていたことがある。件の人物は、automatic excommunication(自動破門)はexcommunicatio latae sententiaeの通称として一般に使われ、検索にかければいくらでも出てくる、と反論したが、大方の支持は得られなかった。
非難する側の無知無教養ぶりには苦笑せざるをえないが、そもそも「自動破門」は教会法典に出てこないが「伴事的破門」なら出てくるという短絡的な結論もどうかと思う。というのは、正式な法文はラテン語であって、日本語ではないからである。
latae sententiaeは直訳すれば「判決が言い渡された」という意味で、ferendae sententiae「判決が言い渡されるべき」と対として使われている。お分かりの通り、どこにも「伴事的」などという訳語にあたる部分はない。「伴事的破門」も「自動破門」と同じ程度の意訳に過ぎないのである。
Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2"(Servant)で確認しておこう。

教会法が犯罪に対する罰を自動的に下す場合(例えば堕胎をした者に下る破門)、法によればこれは「判決が言い渡された(latae sententiae)」罰である。著者たちを含む多くの教会法家は「判決が言い渡された(latae sententiae)」という語と交換可能なものとして、「自動的な(automatic)」という語を使っている。したがって、「判決が言い渡された破門(latae sententiae excommunication)」と「自動破門(automatic excommunication)」は同じものである。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",Servant,2007,p94

しかしこの場合「自動的な」とはどういう意味なのか、いまひとつ判然としない方もいるだろう。おそらくそうした分かりにくさは、一般の市民法とは違った教会法の特異性に原因がある。
まず、該当する教会法典の条文を見ておこう。

CIC can.1314
多くの場合、刑罰は「判決が言い渡されるべき」刑罰であり、刑罰が科せられた後でなければ犯人を拘束しない。ただし、法律又は命令が、犯行が行われた事実そのものによって刑罰が下ると明白に規定していれば、伴事的刑罰である。
(註・英訳を参照に私訳した)

つまり、通常は、一般の市民法と同様教会法でも、刑罰は裁判による審理ののちはじめて下る。しかし、一部の刑罰は、審理なしに、従って裁判なしに下る。それが教会法特有の「伴事的刑罰(自動刑罰)」である。直訳の「判決が言い渡された」からも分かる通り、「自動刑罰」の場合、いわば法文そのものがすでに判決文なのである。未来にあるであろう犯罪に対して、あらかじめ判決を告げているわけである。
それゆえ、自動刑罰は、その犯罪事実そのものによって、あるいは、法そのものによって、自動的に下る。つまり、法理から言えば、犯罪を実行したまさにその瞬間に下る。

can.1314は、それらが科せられるか宣告されるまでは犯人を拘束しない「判決が言い渡されるべき」刑罰と、即時に拘束する「判決が言い渡された(自動的な)」刑罰とを区別している。それゆえ、意図的に教皇を殴ったカトリック教徒は、拳が教皇の鼻先に触れた瞬間に破門制裁を受ける。もちろん、教皇が単に空き時間にボクシングの親善試合を楽しんでいたわけではないということが前提であるが。


Pete Vere & Michael Trueman"Suprised by Canon Law vol.2",p95

ここから奇妙な事もたしかに生じうる。完全に秘密に行われた犯罪の場合、仮にそれが自動刑罰に値するものであっても、本人以外はその事実を知りえないから、事実上刑罰の法的強制力がないかのような状態が生じうるのである。この場合、法は単に犯人の良心を拘束するだけである。
実際は、自動刑罰であっても、権能のある裁治権者による宣告が成されるのが通常である。例えば1988年6月30日、違法の司教叙階を実行した瞬間に、ルフェーブルは使徒座に留保された伴事的破門制裁を受けた(CIC can.1382)。ルフェーブルはあらかじめこの犯罪を実行するとメディアを通して予告もした上、公衆の面前で公然と犯罪行為を成した。従って、ルフェーブルが自動破門を受けたことはすでに誰の目にも明らかであったが、翌7月1日司教省長官名によって「破門宣告」が公布されて確定的となった。
can.1331では、宣告されていない自動破門(non-declaerd latae sententiae excommunication)と宣告された自動破門(declared latae sententiae excommunication)を区別している。自動破門も、宣告されてはじめて十全な法的効力(full legal effects)を持つのである("New Commentary on the Code of Canon Law",Paulist,2000,p1536参照)。
それにしても、裁判なしに刑罰が下されるなどということは、近代法にもとるとも思われる。ここで念頭に置かねばならないのは、教会法上の刑罰の第一の目的が何であるかということである。たしかに、刑罰が自動的なものとなっているのは、その犯罪の重大性を鑑みてである。しかしそれは、まずもって犯罪者を重罰に課すことが目的なのではなく、むしろそもそも犯罪を犯すことのないようにという抑止効果を期待してのことである。実際の抑止効果がどれほどのものか客観的に測ることは難しいが、少なくとも裁判なしの刑罰の方が裁判ありの刑罰よりも抑止効果が高いであろうことは推測できるだろう。
もちろんこうした抑止効果は、究極的には信徒の良心を前提にしている。ホセ・ヨンパルトが言うように、教会法の拘束力はあくまで「一人ひとりの信者の自由意志によるものであり、教会の権威を自発的に認めることにその根拠がある」(『教会法とは何だろうか』、成文堂選書、1997年、p9)からである。
これらのことから言えるのは、信徒にとって重要なのは、自動破門が法理上何であるかや、ある犯罪について実際に自動破門が生じたかいなかを、教会法典の文字面にこだわって侃々諤々することよりも、自動破門を規定した教会当局の意図を汲み取って、それに相応しい行動を採ることであろう。例えば前教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令「ecclesia dei」の「(ルフェーブルの)離教を公式に支持することは、神に対する重大な攻撃であり、教会法によってあらかじめ定められた破門という罰を受ける」という言葉は、そのような勧告として受け取られるべきである。

(文責・金田一輝)

*この項は本文改訂の可能性あり



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2008年01月09日

聖ピオ十世会の叙階は有効である



聖ピオ十世会の叙階は「違法だが有効」という事に関して、一部で混乱や誤解が見られるようなので、ここで整理しておこう。
「違法だが有効」な叙階について理解するためには、前提となる二つの事柄を知っておく必要がある。
T.叙階の秘跡の永遠性
U.合法性(licitness)と有効性(validity)の差異
以下、順次、説明しよう。


T.叙階の秘跡の永遠性

叙階の秘跡はいったん受ければ取り消しえない。つまり、誰も一度有効に成された叙階を無効にすることはできない。これはカトリック教会において、教義として教えられている。"Catechism of the Catholic Church"(以下CCC)を見てみよう。

CCC 1582 洗礼と堅信と同様に、このキリストの職能の分与は一度かぎりで完全に伝えられる。他の二つと同じように、叙階の秘跡は取り消しえない霊印を与え、繰り返すことはできないし、一時的に授けることもできない。

教会法はより簡明である。

第290条 聖なる叙階は、一度有効に授けられたならば決して無効にはならない。

叙階の秘跡の主体は究極的には神であり、叙階の秘跡そのものは、いわば客観的事実である。
それゆえ教会は、叙階の有効性についての事実判断はできるが、有効な叙階を無効にすることはできない。教会ができるのは、ただ、その権限の行使を教会法的に禁止することだけである。

CCC 1583 有効に叙階された者は、正当な理由によって、叙階に結びついた義務と職務が解かれたり、それらの行使を禁止されうる。それは正しい。しかし、彼は厳密な意味において俗信徒になることはできない。叙階の日に受けた召命と宣教の使命は、彼に永遠に印づけられている。


第1338条 (2)叙階による権限を剥奪することはできない。ただし、その権限の全面的行使、又はその権限の部分的行使のみを禁止することができる。

聖ピオ十世会の司祭たちは、教会によって聖職権停止(suspension a divinis)を受けている。従って、現在彼らが司祭の職務を行うことは違法である。しかし、彼らの叙階の秘跡そのものを教会は無効にできないから、聖職権停止を受けた後も、彼らの叙階は有効のままである。これは叙階の教義そのものから論証できる。


U.合法性(licitness)と有効性(validity)の差異

合法性と有効性の違いは、特に教義として教えられることはないが、教会法の言語に慣れ親しんでいれば、ほぼ常識に属する
ここではPete Vere/Michael Trueman"Surprised by Canon Law"(SERVANT Books)を見てみよう。Vereは元聖ピオ十世会員で現在教会法学者の著述家。ちなみにこの本は教会検閲済(Nihil Obstat&Imprimatur付)である。

問7 教会法における有効(valid)と合法(licit)という語の違いとは何か?


有効性はその行為の実質にかかわり、合法という語は法に適っているかどうかにかかわる。例えば、溯ること1988年に、ルフェーブル大司教は、前もって教皇ヨハネ・パウロ2世からの委任状を得ることなく、四人の司祭を聖別した。この行為は有効(valid)である。なぜなら、ルフェーブル大司教は有効に司教に叙階されており、したがって、他の司教を聖別する権能を有するからである。しかし、大司教は教皇許可なしの司教聖別に対する教会法による禁止命令を守らなかっただけでなく、実際、そうしないようにという聖座の直接の命令の後に、司教聖別を実行した。この違法行為の結果として、教会はルフェーブル大司教と違法に聖別された四人の司教を破門した。
それにもかかわらず、聖ピオ十世会のためにルフェーブル大司教が聖別した司教たちは本物の司教(real bishops)である。カトリックの司教がすべてそうであるのとまったく同じように、彼らは秘跡を執行する力を有する。ルフェーブル大司教の離教運動を離れてカトリック教会に戻ってきた諸個人を、教会は再堅信しない。また、聖座に歩み寄り、カトリック教会との和解を求める聖ピオ十世会の司祭職(Priesthood)を、教会は承認している


"Surprised by Canon Law",SERVANT Books,2004,pp7-8

非常に明瞭な解説であり、誤読の余地がない。要するに、合法性と有効性は別の概念であり、叙階に関して言えば、違法性は有効性にまったく影響しない。それゆえ、ルフェーブルによる違法の司教叙階も、秘跡としては有効である。なぜなら、ルフェーブルは有効に叙階された司教であり、定まった形相と質料によって叙階を行ったからである。
デンツィンガー・シェーンメッツァー資料集から例を引こう。

離教した司教アカキウスが洗礼を授けた者、また彼が規定に従って司祭、聖職者に叙階した者はアカキウスの離教によって影響を受けない。秘跡の恩恵は悪人によって授けられても弱められないことは明らかだからである。(略)
したがって、悪人は善を取扱うことによって自分自身だけを傷つける。悪人によって授けられた秘跡は神聖さを汚されることなく、それを受けた者にその力を与える。


Exordium pontificatusu mei(DS 356)

したがって、ルフェーブル大司教が聖職権停止を受けた1975年から破門される1988年までの司祭の叙階のみならず、それ以降の、破門された聖ピオ十世会の司教たちによる司祭の叙階も、やはり有効である。「離教」(状態)は叙階の有効性に影響しないからである。
破門された司教をVereが「本物の司教」(real bishops)と呼ぶことに抵抗を覚えるローマ・カトリック信徒は少なくないであろうが、秘跡の観点から見れば完全に正しい記述である。
だいいち、教会のさる高官も同様の発言をしている。それは誰あろう教皇ベネディクト16世であり、教理省長官時代に次のように語っている。

教会法によれば、違法ではあるが有効な叙階があります。私たちはこれらの若い人々の人間的側面をも考慮しなくてはなりません。彼ら(聖ピオ十世会の司祭たち)は、教会の目から見れば、「真の」司祭('true'priests)です。正常ではない状況下にいますが。


"The Ratzinger Report",Ignatius,1985,pp32-33

この発言は、1988年の違法の司教叙階前であるが、すでに聖職権停止を受けているルフェーブル大司教によって違法に叙階された司祭たちについてである。合法性と有効性の差異から、Vereが聖ピオ十世会の司教たちを「本物の司教」と述べたのと同じ理屈で、ラッチンガーが聖ピオ十世会の司祭たちを「真の司祭」と言っていることは明白である。もちろんここでラッチンガーは、単に教会法的観点からだけではなくて、司牧的観点からもこのように語っている。


結論

見てきた通り、ローマ・カトリックの立場から見て、「聖ピオ十世会の叙階は有効である」ことは疑いない。しかし、だからどうだというのか? 有効であることは事実でも、聖ピオ十世会の司祭たちは聖職権停止を受けており、彼らのミサは違法である。それゆえ、「カトリック信徒は聖ピオ十世会のミサには行くべきではない」ということも、あいかわらず真である。
聖ピオ十世会の叙階が有効であるという事実は、たしかに彼らの宣伝の道具になってはいるが、正確に理解していれば、特に彼らに有利に働くわけではない。むしろ、この事実を否認し、不正確な知識に基づいて聖ピオ十世会を批判することの方が、論者にとって不利になるだろう。根拠のない偏見からは、ただしい批判は生まれないからである。

(文責・金田一輝)



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2007年12月29日

投稿ガイドライン・更新

投稿ガイドラインを更新しました。
http://defencecatho.seesaa.net/article/74890506.html


以下の文章を追加しました。

一般的注意。

・初めて投稿される方は、挨拶と簡単な自己紹介をお願いします。


当たり前のマナーだと思いますが、自由に意見を交わす掲示板と個人のブログの投稿欄を混同する人たちが若干いるようなので、このような指示を入れました。

また、「削除対象」文の一部を修正しました。


・住所や電話番号などの「個人情報」(本人によるものも許可しません)。公共団体など、問題ない場合は除きます。


赤字が修正部分です。
「本人によるものも」というのは、何かトラブルが生じた場合に、当方では責任が取れないからです。

ゲストのみなさん、よろしくお願いします。

(文責・金田一輝)
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2007年12月27日

投稿ガイドライン

コメントの投稿数が増えてきたので、「ガイドライン」を発表しておきます。この記事をアップした時点から有効となります。今後更新する可能性はあります。


一般的注意。

・初めて投稿される方は、挨拶と簡単な自己紹介をお願いします。


以下の内容を含むコメントの投稿は、投稿文全体が削除対象になります。

・明らかに公序良俗に反したもの、明らかに法律に反したもの
・住所や電話番号などの「個人情報」(本人によるものも許可しません)。公共団体など、問題ない場合は除きます。
・アダルトサイトなどの有害サイトへのリンク


以下の行為は削除対象ではありませんが、控えてください。

・同一人物による複数のハンドルネームの使用
・「通りすがり」のような、いわゆる捨てハンの使用
・当ブログの記事と、まったく関係のない話題
・自分のブログやホームページなどの宣伝を、もっぱらの目的としている投稿


なお、当ガイドラインにかかわらず、管理人である「金田一輝」が必要と判断したならば、注意、警告、予告なしの削除を行います。


*2007年12月29日更新

(文責・金田一輝)
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2007年12月08日

無原罪の御宿り(4)

スコトゥスの弁証に移ろう。
著名な神学者たちによってこの「無原罪の御宿り」の教義が拒否されていたのは、アダムの子孫である全人類にとって原罪の伝達は不可避であると考えられていたことと、キリストの贖罪の普遍性に反すると考えられていたからであった(1)。
自然な生殖行為の結果形成された肉体に伝わった原罪は、注入の際、自動的に理性的魂に感染する。それを防ぐためには、肉体の懐胎(能動的懐胎)と魂の注入(受動的懐胎)の間に時間的な隔たりがあるとして、注入以前において肉体(胎児)に対する聖化が起こっていなくてはならない(2)。しかし、アクィナスが述べるように、魂なしの肉体は、罪の主体にもならないが、同時に、贖罪の対象にもならない(3)。
贖罪が理性的魂に対する普遍的な原罪の感染を前提にする限り、袋小路であり、解決手段はないように見える。しかし、無原罪で懐胎することが、それにもかかわらず一種の贖罪でもありうるのであれば、「無原罪の御宿り」論の難点二つは、ともに解消できる。

ここで考えなくてはならないのは、一般的に言って「救い」とは何かということだ。キリスト教的思考に慣れ親しんでいると、「救い」は常に罪からの解放と反射的に考えてしまう。つまり、いったん陥った罪のくび木から、人を自由にすることが「救い」であると思う。しかしこれは、言ってみれば「原罪」、すなわち、生まれながらに神の恩寵を失った人間の状態を当たり前のものと見なしているからこその、結論である。
古典的カトリック護教家ニューマン枢機卿は、マリアの無原罪受胎を信じることよりも、むしろすべての人間が原罪とともに生まれてくることの方が大いなる謎であると言っている(4)。これを踏まえて、現代の著名なカトリック護教家デーヴ・アームストロングは、堕落以前のアダムとイブ、天使達の例を挙げて被造物が無原罪で生まれることはあると指摘したうえで、つまるところ「堕落が人類にとって異常なのであり、マリアの無原罪懐胎は異常ではない。それは単に正常な状態への回帰なのだ」と述べている(5)。
「無原罪」という言い方は「原罪」の否定だから、何か「原罪」の方が積極的な概念であるかのように見える。しかし、本当はむしろ「無原罪」の方が積極的な概念であり、「原罪」こそ、その否定なのである。「原罪の本質は、アダムの堕罪の結果としての、聖化する恵みの欠如である」(6)。
こうした観点からすれば、「救い」とは人間の本来の状態への回復を意味する。そうであれば、確かにマリアにもまた、「救い」があったのだと言えるのである。
デーヴ・アームストロングは、非常にわかりやすくこのことを説明している。

中世の神学者たちは、マリアはすべての人間と同じく救われた(イエスはすべての救済と贖罪の源として彼女のためにも死んだ)と論じた。他の人間とは別の仕方ではあるが。彼らは森にある穴にたとえた。もし、誰かが穴に落ちたとして、他の誰かがロープをたらして上に引き上げて助けたとしたら、彼は「救われた」と言える。しかし、落ちてしまう前に、誰かが引き止めて救助したとしても、やはり彼は「救われた」と言える。穴は罪(と原罪)を意味し、救助は神とその恩寵である。マリアは決して穴に落ちなかった。だがだからといって、彼女が救われなかったとか、そこから救助されなかったとは結論できない。彼女は確かに救われた。それが起きたのは、彼女の存在の最初の瞬間であったわけだから、その救いは徹頭徹尾神の恩寵によるものであるし、またそうでなくてはならない。

"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"(7)

数多くの神学者たちが行き詰ってしまったのは、「浄化の贖罪」の場合、魂の注入と聖化との間には、ごくわずかであっても時間的隔たりがなくてはならないからであった。スコトゥスはこの時間的隔たりを、まるで極限のように限りなくゼロに近づけ、最終的にはゼロであっても贖罪が成り立つことを示したのだ。いわば、ゼロも数字であることを、はじめて証明したようなものである。
神学者たちが上記の時間的隔たりを想定せざるをえなかったのは、原罪と贖罪の先後関係を実際の時間軸上に置いていたからである。それゆえ、原罪(穴)に落ちてからしか、救いはないと思い込んでいた。しかし、ほっておけば原罪に落ちるにしても、原罪(穴)に落ちる前に救うことができるとすれば、この先後関係は、実際の時間軸上にある必要がなくなる。たとえば仮定法過去完了時制で考えれば、想像上の先後性でしかなくなるわけである。これを文章の形で述べれば、次の通りである。

「人類共通の生殖の結果として、マリアは原罪に陥っていたはずであった、もし仲介者の恵みによってあらかじめ保護されていなかったらならば。」(8)

この原罪からのあらかじめの救いを「先―贖罪」(praeredemptio)と呼ぶ。そしてこれは、既にアクィナスの念頭にあった「保護の聖化」という考え方の、まさに受動的懐胎の瞬間への適用であった。このようにしてスコトゥスは、「無原罪の御宿り」の教義を弁証することができた。(9)
ルードヴィヒ・オット博士の簡明な要約を引こう。

この問題の最終的な解決への正しいアプローチは、まずフランシスコ会の神学者ウェアのウィリアムによって手がつけられ、彼の偉大な弟子ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスによって完成された。スコトゥスは、生命活動の聖化への先行は、時間上である必要はなく、概念上であればよいと教えた。先―贖罪というこの考え方を導入することで、マリアの原罪からの免除と贖罪の必要性とを調和させることに、彼は成功した。スコトゥスによれば、原罪からの保護は、最も完全な種類の贖罪である。それゆえ、キリストがこの仕方で彼の母を贖ったのは相応しいことだった。スコトゥスと一体となったフランシスコ会は、ドミニコ会とは対照的に、マリアの無原罪の御宿りの祝日を断固として擁護した。

Fundamentals of Catholic Dogma(10)


「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」と矛盾しない。なぜなら、それは、通常とは違う仕方ではあるが、やはりある種の「贖罪」(先贖罪、保護の贖罪)であるからだ。スコトゥスの偉大さは、「無原罪の御宿りの」を、単に別の「贖罪」であるとしただけでなく、さらに進んで、むしろ「最も完全な種類の贖罪」であるとしたことだった。スコトゥスはいわば次の公式を生み出した。

無原罪の御宿り=最も完全な贖罪(IC=MPR)

この一見平凡な公式の背後に、それまでの様々な教義の歴史が横たわっている。オイラーの公式のように、まったく別々に発見された重要な概念が、一つにまとめられている。結果的には単純に見えるものにおいてこそ、天才の叡智が秘められている。
「無原罪の御宿りの祝日」は、神の救いの経綸の神秘とともに、天才神学者の思想の神秘の記念でもあるのだ。

(この項つづく)

(1)Gambero,op.cit,p.249
(2)『キリスト教神学事典』(教文館、2005年)「聖母マリアの無原罪の宿り」項によれば、「生命の付与、または胎児(embryo)に魂の注入されるのは、女児の場合には受胎の瞬間ではなく、約3ヶ月後であるとされていた」。
(3)Gambero,op.cit,p.238
(4)「無原罪の教義よりも難解な教義はいくらでもある。原罪がそうだ。マリアには難解なところはない。原罪なしに魂が身体と結びつくということを信じるのは困難ではない。幾百万もの人間が原罪とともに生まれるということこそ、大いなる謎である。われわれのマリアについての教えは、一般的な人類の状態についての教えに比べればまったく理解するにたやすい。」
(Dave Armstrong"A Biblical Defence of Catholicism",Sophia Institute Press,2003,pp.186-187)
Dave Armstrong"More Biblical Defence of Catholicism",1stBooks,2002,p.121も参照
また、フルトン・J・シーンも次のように述べている。
「この時代の何者であれ、「無原罪の御宿り」に反対するのを、私は決して理解できない。現代のすべての非キリスト者は、彼らが無原罪で受胎したことを信じている。もし原罪が存在しないのであれば、その場合人類全員が無原罪で受胎したことになる。なぜ彼らは、自らに帰するものをマリアに許すことにしり込みするのだろう?」
(Fulton J.Sheen"The World's First Love",Ignatius,1952,p.17)
(5)"Was Mary's Immaculate Conception Absolutely Necessary?"
ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(6)Ott,FCD,p.199
(7)ttp://socrates58.blogspot.com/2005/01/was-marys-immaculate-conception.html
(8)Gambero,op.cit,p.249
参考のため英語原文を載せておく。拙訳はわかりやすさのために、語を補っている。
"As a consequence of common generation, Mary would have had to contract original sin had she not been preserved by the grace of the Mediator."
(9)ジョン・ハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店、1986年)「無原罪の宿り」項は次のように説明しているが、「保護」の観点が欠けているため、非常にわかりにくい。
「スコトゥスは、マリアに原罪がなかったことと、マリアがキリスト降誕前に懐胎したことを調和させるために、キリストの功績を先取りして事前に救われたという考えをとり入れた」
『岩波 キリスト教事典』(岩波書店、2002年)「無原罪の宿り」項にいたっては、ほとんどあさっての方向に行っているように見える。
「ドゥンス・スコトゥスは「キリストの功徳の予見」という概念を導入し、神の選びによってマリアがキリストによる救いにあらかじめ参与させられたと説明した」
(10)Ott,FCD,p.202

(文責・金田一輝)



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2007年12月06日

無原罪の御宿り(3)

アクィナスは『神学大全』第三部第27問で「マリアの聖化」について取り上げている。第一項で子宮内聖別を肯定したあと、第二項主文でスコトゥス以前の「無原罪懐胎」論を否定している。

聖処女の聖化は生命活動(animatio)以前に生じたとは考えられない。理由は二つある。
一つ目は、わたしたちが言っている聖化とは原罪からの浄化を意味するからだ。デュオニシウスが言うように(『神名論』12)、聖化とは完全なる浄化である。さて、罪は恩寵によってのみ取り除かれ、恩寵の対象とは理性的被造物のみである。それゆえ、魂の注入以前において、聖処女は聖化されていない。
二つ目は、理性的被造物のみが罪の対象であるので、魂の注入以前の懐胎した胎児は罪と関係しないからだ。そしてそれゆえ、どういう仕方であれ聖処女が生命活動以前に聖化されたとしたならば、聖処女は原罪の汚れを招かなかったことになる。そうすると、聖処女はキリストによる贖罪も救済も必要としなかったことになる。しかしキリストについては「彼は人々を罪から救う」(マタイ1:21)と書かれているのだ。もし聖処女が生命活動以前に聖化されていたなら、それは「キリストはすべての人間の救世主」(第1テモテ4:10)ではないということを意味する。(しかし、それはおかしい)それゆえ、聖処女はあくまで生命活動の後に聖化されたのである。

Summa Theologica V,q27,a2(1)

ここでアクィナスは、はっきり問題の焦点を肉体への魂の注入の瞬間、のちに言うところの受動的懐胎(生命活動)の時点に絞り込んでいる。そして第一に、原罪・無原罪を云々できるのは、少なくとも理性的被造物と言いうる受動的懐胎以後であると説き、第二に、かりにダマスケヌス流の「肉体の聖化」があって、その結果魂への原罪の感染がなかったとしたら、それは「贖罪の普遍的必要性」と調和しないと説いている。
再三述べた通り、アクィナスはここで、単に原罪の浄化は受動的懐胎より以前には起こらなかった、と言っているだけだから、実は「イネファビリス・デウス」の定義の意味での「無原罪懐胎」を否定してはいない(2)。
ところでアクィナスは、「無原罪の御宿り」という教義に一貫して反対していたわけではない。二十世紀を代表する厳格トミスト・ガリグ=ラグランジュは、この教義に対するアクィナスの思想遍歴は三段階あると言う。
第一段階はこの教義に肯定的で、『命題論集註解』Tに表れている。
「純粋性はその反対物からの離脱によって増加する。それゆえ、すべての罪の感染から免れていたならば、創造上可能なかぎり最も純粋な被造物があることになる。原罪と自罪から免除された聖処女はそうした例である」(3)
第二段階は上述した『神学大全』にある通り否定的。第三段階は再び肯定的で、生涯の最後の時期に書いた「天使の挨拶について」で、「彼女(聖処女)は最も純粋で欠陥がなく、原罪も道徳的罪も自罪も招かなかった」とあるらしい(4)。
アクィナスにこうした思想の「ふらつき」があることに多少驚かれる方もいるかも知れない。ガリグ=ラグランジュはアクィナスの思考の軌跡を次のように語っている。

このような教義の進展は神学者では稀なことではない。まず彼らはその難しさを知ることなしに、伝統から受け入れた理論を提示する。その後、省察によって、より慎重な態度を採用することになる。最後に彼らは最初の立場に戻る。神の贈与の豊かさは私たちが理解できるよりはるかに大きく、大した理由もなく神に制限をかけるべきではないということに気づくからだ。

The Mother of the Savior and our Interior Life(5)

先取りして言えば、スコトゥスが「無原罪の御宿り」を弁証する時に使用した重要な概念は、「概念上(本性上)の先後性」と「保護する贖罪(聖化)」であるが(6)、実は両者ともアクィナス自身がすでに使っていた考え方だった(7)。つまり、アクィナスは弁証のための道具を自ら手にしておきながら、ついにそれを使用して「無原罪の御宿り」を論証することはなかった。大神学者にしては、これはこれで不思議に見える。
しかし、アクィナスも「時代の子」である。「無原罪の御宿り」は当時はまだ不可謬の信仰箇条ではなく、名だたる神学者たちは皆反対していた(聖ベルナール、ペトロス・ロンバルドゥス、ヘールズのアレクサンドル、大アルベルトゥス、聖ボナベントゥラ)。さらに、主にイギリスで繰り広げられていた、この教義発展の新しい動きについての、たよりになる情報を得ていなかった。(8)
何よりカトリック神学者としてアクィナスもまた、当然のことながら教会の伝統に忠実だった、ということは特記されていいだろう。第一段階の、きちんとした論証抜きにこの教義を肯定する態度もある意味ではそうである。第二段階の否定についても、ガリグ=ラグランジュは他の論者の意見もふまえて「聖トマスの沈黙は、多くの他の教会とは違って、受胎の祝日を祝っていなかったローマの教会の慎重な態度に影響されたということはできる」という興味深い指摘をしている(9)。
つまり、アクィナスは、あくまでその当時のローマの裁定(というよりも裁定の保留)に忠実だったのだとも言えるのである。少なくとも、ローマの決定があった場合、「無原罪の御宿り」になお反対したとは考えにくい(10)。
見てきたように、カトリック教会を代表する神学者であるアクィナスが「無原罪の御宿り」の教義に反対した、とは単純には言えないのである。とりわけ、教会の意向に反対してまでそうしたという事実はない。カトリックにおける教義の歴史を考える上で、神学的発展と教会の態度決定の関係は、見逃してはならない重要なファクターなのだ。

(この項つづく)

(1)http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(2)ただし、幾つかの問題は残る。アクィナスは同じ項の第二異論回答において「聖処女は確かに原罪に感染した」と書いており、また、『命題論集註解』Vでは「魂の注入の瞬間でさえ、その時彼女に与えられた恩寵によって根源的欠陥を免れることはなかった。人類においてキリストのみが贖罪の必要性のない特典を有している」と言っている。
(Fr.Reginald Garrigou-Lagrange"The Mother of the Savior and our Interior Life",TAN,1993,pp60-61参照)
しかし、アクィナスの論証の根本前提は「贖罪の普遍的必要性」にあるので、彼が1854年の定義に反対しただろうという権利は確かにない。
(3)Garrigou-Lagrange,p.59
(4)ibid.,p.62
(5)ibid.,p.63
(6)Ott,FCD,pp.201-202
(7)「本性上の先後性と時間上の先後性を他の多くの場合ではそうしているのに、(『神学大全』第三部第27問第二項では)区別しなかった」
(Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.60)
「聖トマスは二つのことを主張している。@神の母は贖われた。A彼女の聖化は保護の聖化だった」
(Summa Theologica Editorial Note,Christian Classics,1981,p.2156)
(8)Summa Theologica Editorial Note,p.2156
(9)Garrigou-Lagrange,op.cit.,p.61
実際、ここで取り上げている第27問第二項の第3反対異論回答で、アクィナスは以下のように述べている。
「ローマの教会は聖処女の受胎を祝していないけれども、この祝日を保つ幾つかの教会の慣習は黙認しており、それ故、この祝日はきっぱり否認されてはいない。しかしながら、この祝日の式典によって、彼女が受胎において聖なるものであったと私たちは理解しない。いつ彼女が聖化されたかは分からないので、彼女の受胎の祝日というよりも、彼女の聖化の祝日が、彼女の懐胎の日に続けられているのだ」
Summa Theologica V,q27,a2
http://www.newadvent.org/summa/402702.htm
(10)ベルナールも、この教義と祝日に反対する手紙の中で、この問題全体に対するローマの判定には従うつもりであると留保を入れている。
「教会から受けたものを、安心して保持し、安心して他に渡してきた。教会から受けたのではないものについては、容易には受け入れないだろうと私は告白する」
(Luigi Gambero"Mary in the Middle Ages:the Blessed Virgin Mary in the Thought of Medieval Latin Theologians",Ignatius,2005,p.138)
Pelikan,"Maria",p.193も参照

(文責・金田一輝)




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2007年11月28日

無原罪の御宿り(2)

ベルナールやアクィナスのような神学者が「無原罪の御宿り」の教義に反対した、という言い方は、この教義を批判する際、ほとんど機械的に成されている。とくにアクィナスの思想は、ほとんどカトリック教会と一体と見なされているだけに、「アクィナスも反対している」という事実は、もっともらしい大義名分であり、教会が無理やりこの教義を信徒に押しつけているかのように印象づけるのにもってこいなのだろう。
しかし、ベルナールやアクィナスなどの神学者が「無原罪の御宿り」に反対したというのは、厳密に言えば、正しくない
すでに述べたように、スコトゥスがこの教義の進展に貢献したのだが、もう少し言うと、スコトゥスによって確立した「無原罪の御宿り」教義は、それ以前のものとは別物である。つまり、「無原罪の御宿り」教義については、少なくともスコトゥス以前のそれと、以後のそれを区別する必要がある。ベルナールやアクィナスなどが反対したのは、スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義であり、少なくとも1854年の「イネファビリス・デウス」による教義宣言の形での「無原罪の御宿り」に反対した事実はない(1)。「イネファビリス・デウス」によって宣言されたのは、もちろんスコトゥス流のそれである。

至聖なる処女マリアは、その懐胎の最初の瞬間に、全能の神からの唯一無比の恩恵の賜物と特典によって、人類の救い主キリストの功績を考慮に入れて、原罪のすべての汚れから守られた。


Ineffabilis Deus(DZs2803(1641))
(2)


まず理解せねばならないのは、ここでいう「懐胎」とは「受動的懐胎」(passive conception)であるということだ。その意味は、「神によって創造された魂が両親によって準備された身体状の物質に注入された瞬間」である(3)。簡単に言えば、肉体と精神が結びついた瞬間である。両者が結びついてはじめて全人格的な「人間」となる。
カトリックの教義では、原罪は人間の自然な生殖活動を介して伝達されると考えられている(4)。つまりひとは、両親の生殖行為によって形成された身体から、魂の注入の瞬間、まったく自動的に原罪に感染することになる。そこでスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」の擁護者は、聖化の時期を、この受動的懐胎以前においたわけである。
カトリック百科事典(Catholic Encyclopedia)は、ダマスケヌスの例を挙げている(5)。ダマスケヌスは、マリアの両親の生殖行為そのものが聖霊によって守られ、情欲を免れていたとしている。その結果、両親によって準備されたマリアの肉体そのものが、すでに聖化され、純化されていたことになる。スコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義は、このような「能動的懐胎」(active conception)における聖化を元に弁証されていた。
カトリック百科事典は、この頃の論争について、以下のように説明している。

13世紀において、異論が生じた原因は、大部分は議論の主題についての明るい見通しが欠けていたことにある。「懐胎」という語は様々な意味で使われており、注意深い定義によって区別されていなかった。もし聖トマスや聖ボナヴェントゥラや他の神学者たちが、1854年の定義の意味でこの教義を知っていたならば、彼らはその反対者になる代わりに、最も強力な擁護者になっていたであろう。

彼らによって議論された問題は二つの命題にまとめることができる。両方とも、1854年の教義の意味に反している。

・マリアの聖化は、魂の肉体への注入の前に生じた。その結果、魂の免罪は肉体の聖化の結果ということになり、原罪感染について、魂の側には責任がないことになる。これは、能動的懐胎の聖化に関するダマスケヌスの意見に接近することになるだろう。
・聖化は魂の注入の後に、聖化されていない肉体との結合によって魂が陥る「罪の奴隷状態」からの贖いによって、生じた。この形式の論理は「無原罪の御宿り」を排除している。

神学者たちは、注入前の聖化と注入後の聖化の間に中間があることを忘れていた。注入の瞬間の聖化だ。

Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception(6)

実は「無原罪の御宿り」教義の反対者たちさえ、何らかの意味でマリアが「汚れなき(immaculate)」存在であることは否定していない。ベルナールもアクィナスも懐胎後の子宮内での聖化は認めている(7)。聖化の時期が(受動的)懐胎以前か以後かで、立場が二分されていたわけである。
1854年の「イネファビリス・デウス」の定義を知った目で見ると、中世の神学者たちが聖化の時期を、以前でも以後でもなく、まさに丁度「懐胎の瞬間」にあったと(スコトゥスのように)考えなかったことは、不思議に映る。
もちろん、これには理由がある。そもそもスコトゥス以前の「無原罪の御宿り」教義の欠点は、聖化を能動的懐胎の時点、すなわち受動的懐胎以前に置いたことで、「贖罪の普遍的必要性」という教義と齟齬が生じるということだった(8)。すべての人間は原罪を受け継いでいるということは、すべての人間は贖罪の必要性がある、ということだ。魂の注入以前に聖化されていたならば、原罪を受け継いでおらず、贖罪の必要性がそもそもなかったことになる。
また、贖罪は当然ながら原罪を前提にしているから、実際に贖罪が成り立つのは、魂が原罪に感染したのちにのみである。従って、子宮内で聖化された場合でも、魂の注入と贖罪(聖化)の間には、ごくわずかであっても一定の時間を要することになる。その場合はもちろん、カトリック百科事典の説明の通り、無原罪で「懐胎」したとは言えなくなってしまう。

「無原罪の御宿り」と「贖罪の普遍的必要性」が二律背反であるかぎりは、二つの立場しかありえない。

(正)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」の例外である
(反)「無原罪の御宿り」は「贖罪の普遍的必要性」に反するゆえに否定される

プロテスタントの方が「無原罪の御宿り」教義に反対するとき、上記の(正)をその内容だと誤解してしていることが非常に多い。しかし、それはまさに、歴史的にカトリック教会内で批判されてきた立場そのものなのである。スコトゥスの弁証は、この(正)と(反)を止揚したものである。

(合)「無原罪の御宿り」は最も完全な「贖罪」を意味する(9)

しかし、先に進む前にまず、トマス・アクィナスによる「無原罪の御宿り」批判を確認しておこう。

(この項つづく)

(1)スタックポール神学博士は次のように述べている。
「事実、聖トマスと聖ベルナールは、1854年教皇ピウス9世によって定義された最終形態とは実質的に異なる中世的形態の教義に反対したのである。(・・・)聖トマスと聖ベルナールが、のちになって教会によって定義された教義に反対したのだと言う権利は私たちにはない。なぜなら、この形態での教義については、聖トマスと聖ベルナールはまったく知らなかったのだから!」
(ibid,p.40)
(2)訳文はハードン編『カトリック小事典』(エンデルレ書店)「無原罪の宿り」項からとった。
CCC(Catechism of the Catholic Church)491;FCD(Ludwig Ott"Fandamentals of Cathlic Dogma"TAN,1955)p.199参照
「イネファビリス・デウス」全文は以下で読める。
http://www.papalencyclicals.net/Pius09/p9ineff.htm
http://www.newadvent.org/library/docs_pi09id.htm
(3)Ott,FCD,p199
(4)CCC404;Ott,FCD,p.111参照
(5)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(6)Catholic Encyclopedia:Immaculate Conception
http://www.newadvent.org/cathen/07674d.htm
(7)Dr.Mark I.Miravalle,S.T.D."The Immaculate Conception and The Co-Redemptrix" in Calloway ed.,op.cit.,p.173;
Summa Theologica V,q27,a1
http://www.newadvent.org/summa/4027.htm#1
(8)「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ人への手紙5:12)
(9)Ott,FCD,p.202;Jaroslav Pelikan"Mary through the Centuries",Yale Univ.,1996,pp.196-197

(文責・金田一輝)




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