2007年09月18日

沢田和夫『「神学大全」入門』

私のような凡人にはとうていあの難解で膨大な『神学大全』をきちんと読み通すことなどできない。ほんの少しの尻尾をつかむことさえ危ぶまれる。しかし、わずかなりともあのアッキーナの本心に近づきたいと願う人は少なくないはずだ。
あまたある入門書中、これほどそうした読者に寄り添い親身になって『神学大全』を解説してくれる本はない。果たしてアッキーナもこんなやさしいおじさんだったのではないかと錯覚させられかねない。まえがき冒頭から引こう。



最近、学生といっしょに読みながら、皆で「案外」におもしろい本だといっているのは、トマス・アクィナス『神学大全』(高田三郎訳、創文社刊)です。真理とは? 事実とどう違うのか、一貫性とか、全体があってはじめて真理というのではないか、というようなことを第一行から考えて行くような本です。カトリック的とは何か。一面的でないこと、全面的にキリストの救いの現実を伝えているのがカトリックということ、それではカトリック的真理とはどういうことかな。



以下、『神学大全』の勘所を、順序にそってわかりやすく教えてくれる。もちろん、それぞれが簡潔なものなので、ただしく「摘要」と呼ぶべきであろう。しかし、だからこそ、『神学大全』から長たらしく引用して、あれこれ論じてかえって要点が分からなくなるということがない。もちろん、『神学大全』以外の諸著作にも目配りして、じゅうぶん噛み砕いておられるので、上っ面の理解で終わっていない。
これで安心して『神学大全』を斜め読みできる、そんな希望を抱かしてくれる元気の出る一冊である。

(文責・金田一輝)




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2007年09月17日

ルフェーブルによる違法聖別と破門

もともとを言えば、はじめはどちらかというと弁護するつもりで、聖ピオ十世会について調査しはじめたのである。しかし、調べていくうちに、1988年6月30日のルフェーブルとマイヤーによるエコンでの司教の違法聖別についての聖ピオ十世会による正当化は、まったく説得力がないということに気づくようになった。
周知の通り、度重なる警告(教皇のものも含む)を無視して挙行された、この教皇許可なしの司教聖別により、ルフェーブルとマイヤー(共同司式者)及び、その時聖別された司教たちは、破門されている。破門の事実については、司教省長官による破門宣告("Decree of Excomunication")と当時の教皇ヨハネ・パウロ2世の自発教令("Ecclesia Dei")により確定している。いわば判決が下ったのだからこれで話は終わりそうなものなのだが(実際、ごく普通のカトリックなら疑問は生じまい)、この事実を否定してはばからない人々がいる。それが聖ピオ十世会とその支持者である(この離教グループの支持者である『護教の盾』のヨゼフ・ジェンマ氏のように、会は破門の事実は認めていると言ってはばからないひともいるが)。彼らは異義申し立てをするというよりも、破門という事実そのものを認めていないのである。
聖ピオ十世会が違法聖別などの正当化の際に使用する説のうちで、主要なものが二つある。一つは、新教会法1323条1324条に基づく必要性(緊急状態)による違法性阻却説である。これを便宜上、マレー・テーゼ(Murray's thesis)と呼ぶ。このテーゼを唱える教会法学者の一人がジェラルド・マレー(Gerald Murray)であり、実際聖ピオ十世会が利用しているからである。ただし、マレー本人はのちに、もともとの主張から立場を変えたことを明言しており、また、聖ピオ十世会に対して、会の立場の正当化のための誤用を撤回するよう求めている("Caught in The Lie")。もう一つは、違法聖別はそれ自体離教ではない(それゆえ違法聖別を離教行為としている『エクレジア・デイ』の論理は破綻している)という説である。これを便宜上、ララ・テーゼ(Lala's thesis)と呼ぶ。教会法テキストの解釈委員長であったララ枢機卿が言ったとされる説だからである。実際には、聖ピオ十世会はララ枢機卿が言ったことの一部分を文脈から切り離して、ララの意向とはまったく逆の解釈のために利用している("The Story of the Vanishing Schism: The Strange Case of Cardinal Lara","THE VANISHING SCHISM REVISITED: WILL THE REAL CARDINAL LARA PLEASE STAND UP (AGAIN)?" )。
さて、かように教会法学者や教会法の専門家の中にも異論があるのであれば、破門判決を評価する際、教会法を(例えば1323条1324条について)実際に詳しく調べてみる必要があると、あるいは思うひとがいるかも知れない。しかし心配はご無用である。そんな七面倒くさい手続きはぜんぜん必要ない。なぜならば、法学者個人個人の法に対する意見は様々でありえるが、それらはあくまで解釈でしかないからである。個人的な解釈をいくら積み上げたとしても、それは法そのものではなく、判決そのものでもなく、法的効果が生じるわけではない。
このあたりの機微を、Dave Armstrongは、「伝統主義者のシラバス(誤謬表)」で、以下のように述べている。


誤謬48 ルフェーブル大司教の行為の妥当性は教会法学者たちによって弁護された。

教会法学者への訴えはいつだってあるのではないか? しかし、それがすべて。それらは決まって互いに矛盾する。教会の権威は、教皇、公会議、司教たちの教導権にある。「伝統主義者たち」はこの点に同意しない。イエスに対する誤った証言(マルコ14:55-59)のように、それらはそれら自身で分裂し、互いに矛盾する―誤りであることの確かな印(そして分派と離教の印)。しかし、別の意味で、同様の離教精神が、すべての種類の「伝統主義」を支配し、多くの類似物を創りだしている。それらは、結局のところ、現実の教会(the actual Church)への軽蔑によって連合している。

Dave Armstrong"Syllabus of 60 "Traditionalist" Errors, Fallacies, and False Principles"




たとえば、首相の靖国神社参拝について、法学者の間には意見の相違がある。憲法違反と言う本もあれば、合憲だと言う本もある。しかし、現在までのところ、最高裁レベルで「違憲」という判決は下されていない。これに対して、ある法解釈上の立場から、「その判決は正しくない」と言うことは可能であろう。しかし、違憲であるという解釈をしている本や論文をいくら積み重ねたところで、「その判決は無効である」、あるいはすすんで「そんな判決はそもそも下らなかった」と言うことはできない(もちろん、純粋物理的には可能だが、法的には効力がなく無意味である)。そのできないことをしているのが、聖ピオ十世会とその支持者たちなのである。
では、判決に対して法的な(再審請求のような)異義申し立ては可能であろうかというと、どうも可能ではない。教会法学者ピート・ベーレ(Pete Vere)が次のように説明している通りである。


聖座の決定に対しては、教会法上の絶対性を心にとめておかなければならない。新教会法1629条は言う、「教皇自身の裁決、あるいは聖座の名による裁決に対しては、上訴できない」。同様に新教会法1404条は言う、「第一の座は誰によっても裁かれない」。手短に言えば、教会の中で教皇を超える可視的な権威は存在しない。教会での彼の裁決は最終的なものである。教皇は教会内の他の権威によって裁かれえないし、彼の裁決に対してより高位の権威に上訴することもできない。そのような権威は存在しないからである。

Peter John Vere"Archbishop Lefebvre and Canons 1323:4° and 1324 §1:5° A Canonical Study - Second Draft Edition"




ルフェーブルらへの破門判決は教皇による裁決であり、最終的なものである。また、教皇は教会法の制定者であり、究極的な解釈者である。かりに、ヨハネ・パウロ2世が個人的に傲慢な人間であり、ルフェーブルの破門について判断を誤ってしまったのだと仮定したとしても(もちろん私はそのような仮定は真実ではない、と思っているが)、彼が教皇という職分によって下した破門判決が法的に無効になるわけではない。人格的に問題のある裁判官が下した判決でも、法的には有効であるのと同様である。一端下りた教皇の名による有効な判決を認めず、その決定に従わないならば、それは教皇の教会法上の権威を認めないことであり、破門を認めないというその行為自体が離教を構成する。
聖ピオ十世会がするべきことは、教会法解釈上のアクロバットを繰り広げてルフェーブルの破門という事実を覆い隠すことではなく、破門という事実そのものを認めて、破門の撤回を嘆願し、聖座の惻隠の情に訴える以外にはないと思う。もちろん、そのためには、少なくとも1988年5月5日にルフェーブルが教皇の名代としてのラッチンガー枢機卿と交わした協定("PROTOCOL OF AGREEMENT BETWEEN THE HOLY SEE AND THE PRIESTLY SOCIETY OF SAINT PIUS X")に戻り、ここに書かれた内容に同意することが前提となる。とはいえ、現在の聖ピオ十世会が、この協定の求める第二バチカン公会議と新ミサの全面受け入れを認める可能性は99パーセントないであろう。それは会のアイデンティティにかかわるからだ。この点で私は、「ノムさんの時事短評」2006/10/17で紹介された手紙中の「SSPXがVCIIを認めたらSSPXの存在意義が無くなります」という意見に賛成である。

(文責・金田一輝)





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2007年09月15日

目録作成

今後のためと思って目録を作っておいた。

カトリックの擁護・記事目録

HP化する予定がないので、現在休業中の他のHPの空きスペースを使用。記事が増えたらもう少し分割するつもりである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月13日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」・補足

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性について、教会文書以外の記事について幾つか見てみよう。教会文書ではないので、教義の典拠にはならないが。

まず、現在最もポピュラーと思われる総合辞典『岩波 キリスト教辞典』。


【望みの洗礼】 実際に洗礼を受けることがなかった人も、キリストや洗礼について聞く事ことがあれば洗礼を望んだに違いないと思われる人々の場合、その状態は、神の救いの意志とキリストの救いの業を考えて、実質的に洗礼を受けたに等しいものとみなされる。これを「望みの洗礼」(baptism of desire)と呼ぶ。洗礼を準備している者が迫害や他の原因で受洗前に死亡した場合、その状態をどうみなすかという問いから成立した概念である。しかし、より根本的には、神がすべての人を救いへと招いている〔Tテモテ2:4、「現代世界憲章」22参照〕とするなら、キリストも教会も知らずに神を求めている人々はどのように位置づけられるのか、そのような人々にとって、洗礼の秘跡や教会への加入、また入信式そのものがどのような意味をもつのかを問いかけている。
〔石井祥裕〕


『岩波 キリスト教辞典』「洗礼」の項、岩波書店、2002年




神の普遍救済意志から見た場合の教理教育中の未受洗者の救いの問題という教義史的前提を踏まえた上で、さらに進んで新たな神学的地平を展望している。
つづいてアメリカの著名なカテキスト、ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』(Jhon.A.Hardon "Pocket Catholic Catechism"(doubleday))から。


洗礼は救いにとって必要であるという教会の教えは、その義務は例外なく全人類に適用されるということを意味する。洗礼の恵みを通して再生するのでなければ、至福直観に達することはできない。
この洗礼の普遍的な必要性についてのキリストの教えは、緊急の場合には、望みの洗礼ないし血の洗礼が水の洗礼の代用となりうると、教会によって解釈されている。望みの洗礼とは、明示的もしくは、少なくとも暗黙的な(implicit)洗礼の秘跡への望みのことであり、自らの罪に対する完全な悲嘆、すなわち、愛徳つまり神の愛に基づく悔恨に結びついている。

ジョン・A・ハードン『携帯版カトリックの教理』、ダブルデイ、1989年、p130




「緊急の場合」という限定条件、「完全なる悔恨」という必要条件がついている。望みには「暗黙的な」ものも含めるというのもポイント。
同著者の『カトリックの教理』("Catholic Catechism"(doubleday))ではさらに詳細に解説してある。


「使徒行伝」のコルネリウスについての聖書の記述によれば、彼は洗礼していなかったが「正しく立ち、神を恐れる者」であった。それゆえ、キリスト教の囲いの外部に「神を恐れる者」がおり、なかには
自らの落度でなしにカトリックの遺産に欠く人たちがいるということが徐々に明らかになってきた。そこで、そのような人たちは、カトリックの告白をしていない、あるいは必要とされる洗礼を受けてさえいなかったとしても、救いに対して開かれていると考えるという伝統が生じた。
アンブロシウスやアウグスティヌスはそうした区別のための道をつけた。12世紀までには、洗礼や教会への参入に立ちふさがる「克服できない障害」(invincible obstacle)がある場合は、そのような人は救われる可能性があるという考えが、広く受け入れられるようになっていた。
トマス・アクィナスは、教会の一般的必要性について繰り返し教えている。しかし、彼は、特別の秘跡として望みの洗礼によって救われうるということも認めていた。つまり、教会に属したいという、少なくとも暗黙の望み(implicit desire)によって、実際上の成員であることなしに、ひとは救われうると。
しかしながら、これら二つの伝統(引用者註・教会の必要性と教会外での救いの可能性)を対立的にとらえるのは適切ではないだろう。これらは、救いの普遍的秘跡としての教会という単独の神秘を表現している。教会教導権は、一見矛盾に見えることが、実は両立する論理(paradox)であるという形で、それを表現してきた。
「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」と1215年の第四ラテラン公会議で教義決定されて以来、1302年教皇ボニファティウスによるものと、1442年のフロレンス公会議での二つの荘厳決定がある。カトリックの妥協の無さの象徴と一般に見なされているトリエント公会議で、こんにち慣れ親しんだ形での望みの洗礼の教義が荘厳に決定された。教会の実際的成員(actual membership)であることは永遠の運命に達するために必要ではない。その後のすべてのこうした認識は、このトリエントの教えによって支持されている。

ジョン・A・ハードン『カトリックの教理』、ダブルデイ、1981年、pp234-235




救いのためには必ずしも実際に教会に属する必要はない、と言い切っているところに目を引かれるが、これは「教会の普遍的必要性」と矛盾しない範囲で、慎重に理解されねばならないところでもあろう。
しかし、それにしても踏み込み過ぎではあり、これもまた第二バチカン公会議の悪影響であると勘ぐる向きもあるかと思うので、より古いルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』(Ludwig Ott "Fundamentals of the Catholic Dogma"(TAN))も見ておこう


カプ・フィルミエにおいて、第四ラテラン公会議(1215)は宣言している。「信徒の普遍的教会は一つであり、その外では誰も救われない」D430。この教えと同様のものは次の通り。フローレンス合同会議(D714)、教皇イノセント3世(D423)、ボニファティウス8世「ウナム・サンクトゥム」(D468)、クレメント6世(D570b)、ベネディクト14世(D1473)、ピウス9世(D1647,1677)、レオ13世(D1955)、ピウス12世「ミスティチ・コルポリス」(D2286,2288)。近代の宗教無差別主義に対するものとして、教皇ピオ九世は次のように宣している。「使徒より続くローマカトリック教会の外において救いはない、と固く信じられるべきである。それは唯一の救いの箱舟であり、入らないものは洪水により滅びる。にもかかわらず、等しく確かに信じられねばならないことがある。真の宗教に対する不可抗的無知(invincible ignorance)に陥っている者を、そのことで主は罪あるものとはしない、ということである。」(D1647)。後半の命題は事実として(in point of fact)教会に属していない者の救いの可能性を述べている(D1677;796参照)。
教会への所属の必要性は、単に教えの必要性であるだけでなく、手段の必要性でもある。聖書の洪水からの救いの手段である箱舟との比較で明らかなように。しかしながら、手段の必要性は絶対的な必要性ではなく、仮定的な(hypothetical)必要性である。特定の状況、すなわち、不可抗的無知や不能性の場合、実際上の教会の成員であることは、望みのそれに代えられうる。この必要性が明示的に現れておらず、神の意志を実現しようという忠実な道徳的意向の中に含まれていることもありうる。このような仕方で、事実上教会の外側にいる人々も救いに達しうる

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、p312




ここでもまた、救いにとって実質的な教会の所属は絶対的に必要なことではないことがはっきり述べられている(もちろん、ハードンがこの書を参照しているのだ)。
同著の「望みの洗礼」も念の為に見ておく。


緊急の場合、望みの洗礼、あるいは血の洗礼は、水の洗礼に代わりうる

a) 望みの洗礼
望みの洗礼とは、(愛徳に基づく)完全なる悔恨をともなった、明示的ないし暗黙的な洗礼の秘跡への望みである
トリエント公会議は、原罪からの義化が「再生の洗礼、もしくはその望みなしには」可能ではないということを教えている(D769、D847,388,413参照)。
聖書の教えによれば、完全な愛は義化の力を持つ。ルカ7:47「彼女の多くの罪は許された。彼女が多く愛したからである」。ヨハネ14:21「私を愛する者は、私の父に愛される。私も彼を愛し、彼に私を示すだろう」。ルカ23:43「今日、あなたは私とともに天国にいるだろう」。
伝統における主要な証人は、聖アンブロシウスと聖アウグスティヌスである。洗礼なしに亡くなったヴァレンチヌス2世の葬儀の式辞で、
聖アンブロシウスは述べている。「彼は待ち望んだ恵みを得なかったのだろうか? 望んだのだから、確かに彼はそれを得たのだ。彼の敬虔な望みは彼を赦した」(De obitu Valent.51,53)。聖アウグスティヌスは言う。「もし時間的な不足により洗礼の秘儀の儀式が許されなかったとしても、キリストの功徳によって、殉難死だけでなく、心からの信仰と回心もまた、洗礼の欠如を補いうる」(De bapt.W 22,29)。初期スコラ学の時代には、クレルヴォーの聖ベルナール(Ep.77 c.2 n 6-9)、聖ヴィクトルのフーゴー(De sacr.U 6,7)、そして命題論集(V5)が、ピーター・アベラールに反対して望みの洗礼の可能性を擁護している(神学大全V68,2参照)。

ルードヴィッヒ・オットー『カトリック教義の基礎』、タン、1952年(オリジナル版)、pp356-357




さらにさかのぼって、ドナルド・アットウォーター編『カトリック辞典』(Donald Attwater ed."A Catholic Dictionary"(TAN))でも、「望みの洗礼」(Baptism of desire)の項に次のように書いてある。


望みの洗礼

水の洗礼に代わりうるもののうちの一つ。洗礼が不可能である場合、完全な悔悛と純粋な神への愛によって洗礼の省略が認められるだろう。そのような行為は、聖化する恵みの注入を求める完全で究極的な意向であり、もしその機会が提供されたなら水の洗礼を受けたいという望みと意図を、少なくとも暗黙的に(implicitly)含む。幼児には望みの洗礼はありえない。異教徒については、混乱した仕方であったとしても、何であれ神の意志はなされるべきであり、なそうと望んでいるという仕方で、神を信じているならば、おそらく望みの洗礼を受けている。そのような仕方で、水の洗礼を受けていない多くの人々が至福直観を得ることができるようになったと想定するのは理にかなったことだろう

ドナルド・アットウォーター『カトリック辞典』、タン、1931年(オリジナル版)




最後に、ハードンとオットーがともに挙げている、真打トマス・アクィナスの『神学大全』も確認しておこう。


洗礼なしに救われることはありうるか?

(・・・)

答えて言う。洗礼の秘跡が誰かに欠けている場合には、二通りある。一つ目は、事実上も望みの上でも欠けている場合である。洗礼を受けておらず、その望みも無い人物の場合。これは自由意志を使用しうる人間とすれば、この秘跡に対する侮蔑を明らかに示している。従って、救いを得ることはできない。なぜなら彼らは、救いに至る唯一の道であるキリストに、秘跡的にも霊的にも組み込まれていないからだ。
二つ目は、実際上には欠けているが望みにおいては欠けていない場合である。例えば、洗礼を受けたいと望んでいたのに、機会なく洗礼以前に死んでしまった人の場合。そのような人物は、洗礼への望みのゆえに、実際の洗礼なしに救いを得ることができる。そのような望みは、愛の力によって動かされた信仰の果実である。神の力は可視的な秘跡に拘束されない。この場合、神は人を内的に聖化している。それゆえに、アンブロシウスは、教理教育中の未洗礼者のまま亡くなったヴァレンチヌスについてこう言っている。「再生すべき人を私は失った。しかし、彼が祈り求めた恵みを彼が失うことはなかった」と。

(・・・)

洗礼の秘跡が必要であると言われているのは、少なくとも望みの洗礼なしには人は救われえないという限りでのことである

『神学大全』第三部第68問第2項




こうして「望みの洗礼」という教義についてさぐっていくと、たしかに疑問はわく。事実上の教会の成員と望みのそれが区別されているとしても、では、厳密に言って「教会」とは何か。目に見える教会の外にも、何かしら教会があるということなのか。しかし、それは「教会の可視性」という教義と矛盾しないか。
こうした疑問を解く鍵は、おそらくハードンが述べている「救いの普遍的秘跡としての教会という神秘」という表現にかかっている。これこそまさに第二バチカン公会議が改めて明示した教会の姿だ。そのほんとうの理解はまだ端緒についたばかりである。

(文責・金田一輝)




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2007年09月12日

Richard Peddicord "The Sacred Monster of Thomism"

フランスのドミニコ会士にして神学者であるレジナルド・ガリグ=ラグランジュの生涯と思想についての本である。
裏表紙より。



『トミズムの聖なる怪物』(フランソワ・モーリヤックによるあだ名からとられた)は、二十世紀前半で最も影響力のあったドミニコ会の神学者であり、自由神学者にとってはどこにおいても災いの種であった人物の、生涯と思想についての初めての本格的な研究である。
レジナルド・ガリグ=ラグランジュは50年間アンゲリクム(教皇立聖トマス大学)で教え、教会の歴史において最初の霊性哲学の教授職をもち、二十八の著作と六百以上の記事を書いた。彼は教皇ヨハネ・パウロ2世の博士論文の指導教授でもあった。
『トミズムの聖なる怪物』は 彼の生涯とその一般的な背景を素描し、彼の生涯における最も重要な要素―説教修道会(ドミニコ会)への入会―を詳細に論じ、アンリ・ベルグソンとモーリス・ブロンデルとの哲学的議論や、ジャック・マリタンやM・ドミニク・シェヌとの神学的(かつ政治的)議論を検討し、ガリグのトミズムと彼の神学と霊性へのアプローチを吟味して章を終える。

リチャード・ペッディコードは聖ルイ大学のアクィナス神学研究所の組織神学準教授である。



ドミニコ会の学風さながら、真理の探究を通して信仰を深めたラグランジュは無類の論争好きでもあった。その最大の敵の一つがベルグソニズムだ。
二十世紀初頭のフランスで隆盛を極めたベルグソンの哲学は、いわば当時最も流行した「現代思想」であったといえる。実際、今日からは想像することも難しいが、実証主義が席巻する中で新たな思想潮流を渇望していた青年哲学徒らは、そこにながらく待ち望んでいた精神性の回復を見たのだった。ベルグソンは、ひからびた存在概念を打破し、固定的な思考法ではとらえられない生き生きとした精神の流れ(純粋持続)こそが真実在であると主張した。簡単にまとめれば「存在に対する生成の優位」を唱えた。
厳格なトミストであったラグランジュは、神学者間にも浸透しはじめたベルグソニズムを、信仰の基礎を破壊するものとして攻撃した。こうした動きは、単なる護教的な、それゆえまさしく反動的な態度にも見えよう。実際、今に至るもトミズムは、そういう中世の遺物として見られがちである。しかし、ラグランジュからすれば、カトリック信仰の基礎の破壊は、人間の真理への意志を弱めるもの、したがって人間性を破壊するものだった。ラグランジュは勇気をもって、ベルグソニズムに対して、「生成に対する存在の優位」を対置する。

「この(実念論と名目論の)ジレンマを説く鍵は、人間の能力としての知性は感覚や意識よりも優位にあるのか劣位にあるのか、という問いにあるとガリグは論じた。つまり「哲学とは感覚的の下にある知性的なものの探求なのか、それを覆い隠す誤った知性的なものの下にある感覚的なものの探求なのか」という問いだ。
単純に言えば、後者、したがってベルグソンの側を選ぶということは、人間に固有なものを否定することになる。知性の働きの理解なしには、人間と他の動物の世界を区別するものは何もなくなる。ガリグは問いかける。「人間と動物を分けるものは何だろうか? 判断力、判断する精神、「ある」という語について、いかにひとは説明するのだろうか?」」 p59

さらに、モダニズムの危機に呼応して、カトリック神学の形而上学的基礎を保守するものとして、アリストテレス哲学によって信仰と理性を総合したトミズムの姿が浮かびあがる。モダニズムの立場では、教義は時と場合に応じて人間の宗教的欲求に合わせた象徴・記号に過ぎなくなる(例えばシュライエルマッハー)。しかし、厳格トミズムすなわちラグランジュによれば、「キリスト教信仰の真理は人間の宗教的渇望を超越した現実の表現である」 p121
こうした真理の客観性の主張はもの笑いの種にされて久しいが(例えば小田垣雅也『キリスト教の歴史』はトミズムを「客観主義」と要約している!)、そもそも真理への到達の可能性を一切否定するならば、信仰と迷信の区別はもはやつかなくなってしまうし、真理の相対主義(もし、そんなものが本当にありうるとしての話)は、容易にニヒリズムにいきつく。
実際、モダニズム、それに続くポストモダニズムに、ゆり戻しが生じ初めているのではないか。ヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』は、そうした相対主義的現状をふまえて、なお「哲学」への誘いを呼びかけている点で、一種の皮肉になりえている。というのは、通常「哲学は神学の碑女」と哲学を賤下しているとのしられ、哲学の抑圧者と世間的に見なされているキリスト教、しかも伝統保守的と思われているカトリックが率先して、哲学の価値を再認し、その再興をうながしているのだから。
「ファシズム」とすら罵倒された(事実ヴィシー政権やフランコを支持したのだが)、ラグランジュのトミズムは、実際、その特殊性を超えて、カトリシズムにおける哲学的思考の擁護を象徴してもいるのだ。

「ガリグ・ラグランジュの厳格トミズムの核心は、教皇(ヨハネ・パウロ2世)によって「人間の精神的遺産の一つ」―「正しき理性」それ自体と同一視された。このことが彼をして、教会はそれ固有の哲学を持たないし、特に決まった哲学を主張しているのでもないと言わしめた。しかし、「正しき理性」を拒否する哲学は、その場合はもちろん、ひどく不完全なおのれの姿をさらすことになるだろう」 p220

それにしても、真理への意志とは、ある特定の宗教への信仰ではあるまい、という疑問は起こる。しかし、岩下壮一が『カトリックの信仰』冒頭で述べたように、もし、カトリックの信仰こそが真理の実現そのものだとしたら? 

(文責・金田一輝)






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2007年09月10日

「望みの洗礼」、あるいは「教会の外に救いあり」

「望みの洗礼」ないし教会外での救いの可能性についてまとめてみる。
問題となるのは、教会の必要性という救済の特殊性と、万人に対する神の救済意志の普遍性とのバランスであろう。この点で、2005年に教皇ベネディクト16世によって認可され公布された『カトリック教会の教理:大要』("Compendium:Catechism of the Catholic Church")は簡潔な要約をしている。

171 「教会の外に救いなし」の意味は?

これは、すべての救いは、頭であるキリストから、その体である教会を通して来るということを意味する。したがって、教会はキリストによって建てられ、救いのために必要であると知りながら、そこに入ることを拒んだり、そこにとどまることを拒むひとは救われえない。同時に、キリストと彼の教会のおかげで、自らの落ち度によらずキリストの福音や教会について無知であるが、真摯に神を求め、恵みに動かされ、良心の命令を通して知られる神の意志を行おうとする者は、永遠の救いに達することができる

『カトリック教会の教理:大要』




262 洗礼なしに救われることは可能か?

キリストはすべてのひとの救いのために死んだのだから、信仰のために死んだ者は洗礼なしにも救われうる(血の洗礼)。教理教育中の未洗礼者や、キリストと教会を知ってさえいないが、なお(恵みにうながされて)神を真摯に求め、神の意志を行おうと奮闘する者も、洗礼なしで救われうる望みの洗礼)。教会は典礼において、洗礼なしに死んだ子供たちを神の憐れみに託している。

『カトリック教会の教理:大要』




つづいて1992年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって認可され公布された『カトリック教会の教理』("Catechism of the Catholic Church")を見てみる(文中「教会憲章」は『第二バチカン公会議公文書全集』(中央出版社)の訳文を使用している。以下第二バチカン公会議公文書関係は同様)。


「教会の外に救いなし」
846 教会教父たちによってしばしば繰り返されたこの断定的主張をいかに理解すべきか。積極的な形で再定式化するならば、これは「すべての救いは頭であるキリストから、その身体である教会を通して生ずる」ということを意味する。

「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教える。事実、キリストだけが仲介者であり救いの道であって、そのキリストは自分のからだ、すなわち教会の中で、われわれにとって現存するからである。しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばによって教え、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中にはいる教会の必要性をも同時に確認した。したがって、カトリック教会が神によってイエズス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなお教会にはいること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否すれば、このような人々は救われないであろう」(「教会憲章」14節("Lumen Gentium"14))

847 この言葉は自らの落度でなくキリストや彼の教会を知らない人々には向けられていない。

本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる」(「教会憲章」16節("Lumen Gentium"16)

『カトリック教会の教理』




1260 「キリストはすべての人のために死んだのであり、人間の究極的召命は実際にはただ一つ、すなわち神的なものである。したがって、われわれは神だけが知っている方法によって、聖霊が復活秘儀にあずかる可能性をすべての人に提供すると信じなければならない」(「現代世界憲章」22節("Gaudium et spes"22)。キリストの福音および教会を知らないが、その理解に応じて真理を探究し神の意志を行っているすべての人は、救われうる。そのような人はその必要性を知っていたならば明示的に洗礼を望んでいたであろうと想定されよう。

『カトリック教会の教理』




1281 信仰のために死んだ者、教理教育中の未洗礼者、ならびに、教会を知らないが、恩恵の息吹のもとで、神を真摯に探し求め、神の意志を実行しようと努める者は、たとえ洗礼されていないとしても、救われうる(教会憲章16節参照)。

『カトリック教会の教理』



すでに部分的には引用されているので繰り返しになるが、1964年教皇パウロ6世によって認可され公布された「教会憲章」から引く。第二バチカン公会議に基づく教義宣言であり、数々の論争や誤解・曲解を引き起こした文書でもある。


16 なお、神はすべての人に生命と息といっさいのものを与え(使徒行録17・25〜28参照)、また救い主はすべての人が救われることを望むのであるから(1テモテ2・4参照)、影と像のうちに未知の神を探し求めている他の人々からも、神はけっして遠くはない。事実、本人のがわに落度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らないが、誠実な心をもって神を探し求め、また良心の命令を通して認めれられる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動によって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができる。また本人のがわに落ち度がないままに、まだ神をはっきりと認めていないが、神の恩恵にささえられて正しい生活をしようと努力している人々にも、神はその摂理に基づいて、救いに必要な助けを拒むことはない。事実、教会は、かれらのもとに見いだされるよいもの、真実なものはすべて福音の準備であって、ついには生命を得るようにとすべての人を照らすかたから与えられたものと考えている。

「教会憲章」




非常に簡単に言ってしまえば、カトリック教会は、カトリック教徒でなくても「良心に従って生きる人は救われうる」と説いている。すなわち、教会の外にも救いがありうる、と言っている。
こういう考えは、あるいは第二バチカン公会議によって初めて発せられた、従って、カトリック教会は第二バチカン公会議を境に教義を変更したのだと思われる方もおられるかも知れない。しかし、そうではない。この教えは既に公会議前からあるのだ。
カトリックの信仰と道徳に関する重要な定義、教令、書簡などをまとめた『デンツィンガー・シェーンメッツァー カトリック教会文書資料集』(エンデルレ書店)で、公会議前の教えを確認してみよう。


3866 ・・・教会が常に教え続けてきたことの中に、「教会の外に救いは絶対にない」という不可謬の格言が含まれている。しかし、この教義は、教会自身が解釈している意味に解釈されるべきである。なぜなら、われわれの救い主は、信仰の遺産に含まれていることを、個人の判断によってではなく、教会の教導職によって説明するように定めたからである。

3869 神は無限の慈愛をもって、人々の救いの助けとして、神が制定したことだけを究極目的に達するために絶対必要なものとせず、ある特定の事情においては、願望だけで救いに達することができるようにはからったのである。トレント公会議は、再生の秘跡と告解の秘跡に関連して、この点を明らかに決議している。

3870 同じことが教会についても言われなければならない。教会は救いのための一般的な助けである。永遠の救いを得るためには、実際に教会の一員として教会に合体することが常に要求されるのではなく、少なくとも願望によって教会に所属することが要求される。この願望は、洗礼志願者の場合のように、常に明示的であることが要求されるのではなく、不可抗的無知の場合のように、暗に含まれた願望を神は認める。なぜなら、神の意志に自分の意志を合わせようと努める人間の善意の中には、永遠の救いを得たいという願望がそれとなく含まれているからである。

「ボストンの大司教にあてた検邪聖省の書簡」(1949年8月8日)『デンツィンガー資料集』



これは「教会の外には救いは絶対にない」を厳格に解して、非カトリック者を永遠の救いから除外した、フィーニー派(厳格主義者)に反対して出された書簡である。


2866 私も、あなたたちも次のことを良く知っている。すなわち、やむを得ない事情によってカトリックの聖なる宗教を知らずにいる者が、神がすべての人の心に刻みつけた自然法とその道徳律を忠実に守り、神に従う用意があり、正しく生きるならば、神の光と恩恵との働きによって、永遠の生命に達することができる。すべての人の心と魂、考えと習性を知っている神は、その大きな好意と憐みによって、意識して罪を犯さない人を永遠の苦しみによって罰することはない。

「イタリアの司教にあてた回勅」(1863年8月10日)『デンツィンガー資料集』




使徒伝来のローマ教会の外においては、誰も救われないということは信仰箇条であるが、・・・やむを得ない事情によって、真の宗教を知らないでいる者は、神の前に罪を犯していないことも、同じように確かなことである

「シングラーリ・クワダム」(1854年12月9日)『デンツィンガー資料集』 p437



上掲二編は教皇ピウス9世によるもので、「不可抗的無知」(やむをえない事情による無知)という考えを導入し、教会外の救いの可能性について明確な表現を初めて成し、以後の教会文書に大きな影響を与えた。
3869で言及されたトリエント公会議の決議文も参照しておこう。


1524(796) 以上の言葉によって罪人の義化の概略が述べられている。すなわち、義化とは、人間が第2のアダムの子として生まれた状態から、第2のアダムであるわれわれの救い主イエズス・キリストによる恩恵の状態、「神の養子」(ローマ8・15)としての状態への移行である。しかし、この移行は福音がのべ伝えられた後は「再生の水洗い」なしに、あるいはそれについての望みなしにはありえないのである(第5条、洗礼について)。聖書にも、「水と聖霊とによって新しく生まれなければ神の国にはいることはできない」(ヨハネ3・5)と書いてある。

「トリエント公会議 第6総会:義化についての教令(1547年1月13日)『デンツィンガー資料集』



「望みの洗礼」についての明示的言及は、神学的問題(すなわち神学者の個人的見解)としてはこれより前にまで遡りうるが、教会教導権によるものではこれが最初のようである。それゆえ、通常「望みの洗礼」という教義は、第一バチカン公会議とともにカトリックの伝統教義にとって最重要とされる公会議の一つである、このトリエント公会議の決議文が典拠になっている。
実際、過去の(あるいは現在でも)神学者の間では、厳格主義(教会至上説)と普遍主義(万人救済説)という両極端が見られる。しかし、教会はいつものように中庸の判断を下したのである。

(文責:金田一輝)




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2007年08月31日

教会論についての教理省の発表

知り合いの神父の方のご教示を受けて知ったが、教会論について以下のような文書が発表されていた。

教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答
「教会論のいくつかの側面に関する問いに対する回答」解説

ちょうどたまたま「カトリシズムって、結局のところ、主が建てた教会を信じることなんだよなあ」と思いはじめていた矢先のことで、これも聖霊のお導きか。
目を引いたのが(主の教会はカトリック教会に)「subusistit in」(存在する)という表現について解説しているところ。第二バチカン公会議の「教会憲章」にあるこの語は、多くの誤解を生み、リベラリストも伝統主義者も、立場は真逆といえど、これをもってカトリックは古典的(?)教会論を捨てたのだと解釈して勢いづいた。
解説のハイライト部分を引用する。


実際、キリストが望んだ教会はまさにカトリック教会のうちに存在する(subsistit in)がゆえに、この存在の連続性はキリストの教会とカトリック教会の本質的な同一性を表します。公会議が教えようと望んだのは次のことです。すなわち、わたしたちはカトリック教会において具体的な歴史的存在としてイエス・キリストの教会と出会うということです。それゆえ、「存在する(subsistit)」ものが多数あるようになるという考えは、けっして「存在する(subsistit)」という用語を選択した際にいおうと意図したものではありません。「存在する(subsistit)」ということばを選ぶことによって、公会議は、キリストの教会の独自性をいおうとしたのであって、「多数性」をいおうとしたのではありません。教会は歴史的現実の中に唯一の主体として存在するのです。
  それゆえ、根拠のない多くの解釈とは反対に、「ある(est)」から「存在する(subsistit)」への変更は、カトリック教会が自らを唯一のまことのキリストの教会であるとみなすことをやめたことを意味しません。むしろそれは、カトリック教会が、カトリック教会と完全な交わりをもたないさまざまなキリスト教共同体のうちに真の教会的性格と次元を認めたいというエキュメニカルな望みへと大きく開かれていることを表すにすぎません。これらのキリスト教共同体のうちには「数多くの成聖と真理の要素」があるからです。したがって、教会は唯一であり、唯一の歴史的主体のうちに「存在する」としても、この目に見える主体の外にも、真の意味での教会的現実が存在します。


「教会憲章」における教会論は、過去の教会の教えを変更せず、そこにあらかじめ含意されていた意味を開示したに過ぎない。ニューマンの言い方に習うならば、これは「教義の発展」であって、「変更」でも「発明」でも「堕落」でもない。そしてこうした含蓄的教義の明示は、教会教導権にまかされた権能であり、それを信頼することは、カトリックの信仰の一部を成す。
よく知られている通り、「教会憲章」は「教会の外に救いなし」という古くからの教義を堅く保持しつづける一方、他方で、教会外での救いの可能性について言及している。これは何も第二バチカン公会議で突然飛び出したものではなく、「望みの洗礼」という思想として胚胎していたものを、改めて明示し直したものに過ぎない。ドナティスト論争の頃から、あたかも相反するような両極への動きを調停し中庸を進んできたのが教会の歴史である。


カトリックのエキュメニズムは、一見すると逆説的なものに見えるかもしれません。第二バチカン公会議が「のうちに存在する(subsistit in)」ということばを用いたのは、二つの教理的言明を調和させようとするためでした。一方で、キリスト者の分裂にもかかわらず、キリストの教会はカトリック教会のうちにのみ完全なしかたで存在し続けます。他方で、カトリック教会の目に見える組織の外にも、すなわち、カトリック教会と完全な交わりをもたない部分教会や、教会共同体の中にも、数多くの成聖と真理の要素が存在します。


実際、理解されねばならないのは、カトリックによる「エキュメニズム」とは、「教会」という概念を弱体化させたり、ましてや廃棄したりすることを意味するのではないということだ。それどころではなく、「エキュメニズム」は徹頭徹尾「教会」論との交わりの中で理解され、展開されねばならない。この意味で、「教会憲章」で採用した「subsistit in」という教会論的表現は、実に含蓄深いものだと思われる。

(文責・金田一輝)

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2007年08月24日

Dave Armstrong "Pansees on Catholic Traditionalism

オンラインで"Biblical Evidence for Catholicism"(現在"Cor ad cor loquitur"へ移行)も運営する、著名なカトリック護教家Dave Armstrongによる、伝統主義についての書。タイトル通り339の断片的考察を集めたものだが、テーマ別に幾つかのユニットに分けられているので、特に散漫というわけではない。
目次より。


T 「伝統主義」の一般的特性
U 信仰と楽観主義 vs 悲観主義
V 教会の完全性
W いわゆる「保守カトリック」 vs 「ネオカトリック」
X 教理の発展 vs 教義の進化
Y 私的判断と「カフェテリアのカトリック」
Z 原理主義者と不完全なカトリック改宗者
[ 「公会議前の」教会の「古き良き日々」
\ エキュメニズムと宗教の自由
] 進化論とカトリック
]T 第二ヴァチカンは「近代主義」の公会議か?
]U 第二ヴァチカン文書は「曖昧」か?
]V ヴァチカン後の「リベラルな」教皇たち
]W ノブス・オルド(新しい)ミサ
]X ヨハネ・パウロU世は「近代主義者」か?
]Y 離教、離教的精神、異端


Daveは教義や教会法の専門家ではないとことわっており、詳細で具体的な論評は避けている。いわゆる「伝統主義者」(通常extreme traditionalism とか integralistと称される立場)の思考の根を撃つという態度だ。従って、時に一般論的な言述ではあるが、核心に迫った洞察が見られる。

「私は常に主張してきた。こんにちよくある類のカトリック伝統主義とは、誤った思考の問題であり、おそらくまた第一には、(カトリック的意味で)超自然的信仰の喪失の問題でもあると」p12

「伝統主義者」は一見信仰深く、時に思考が足りないように思われることがある。Daveによれば逆だ。ごちゃごちゃ考えすぎて、信仰を失ってしまっているのだ。
彼の独創ではないが、伝統主義が、実はその対極にあるとされるプロテスタントと相似であるという指摘も面白い。右翼と左翼の例を考えても分かる通り、両極が一致してしまうのはありがちなことではある。

「『伝統主義者』は、教会の教導権や不可謬の教皇を超える究極の権威を持つのは良心だと主張する。これはプロテスタントよりプロテスタント的だし、初期ルター派より初期ルター派的だ。カトリックの立場(ただしい知識を有した良心というニューマンの見方)では、良心は教会の意向と指導の内で、表明され基礎づけられていなければならない。極端な状況においてのみそれに抗することができる。「伝統主義者」による不同意と不従順はこの正統な理解を踏みにじるものであり、権威に関するプロテスタントの原理(私的判断)や、さらには近代主義者の原理(恣意的選択)を採用しているのだ」p50

第二バチカン公会議の問題についても、新ミサについても、「自分たちこそが正統な解釈者である」と主張してしまう時点で、正統なカトリック的立場ではない。]U章で著者が解説している通り、第二バチカン公会議文書を解釈する権威も、究極的には教会教導権に属する。そうでないならば、聖書すら「曖昧」な、良心によってどうとでも解釈できるテキストに過ぎなくなる。それは信仰の基盤の破壊だ。
この本を読むと、伝統主義者は自らの基礎をこそ壊しつづけているのだということが分かる。Daveは教皇権を擁護したかどで、逆に伝統主義者によって「近代主義者」のレッテルを貼られたと苦笑している。教皇権の護持は狂信なのか? そうかも知れない。しかし、Daveによれば、それは神への楽観的な信頼なのである。なぜなら、カトリックの信仰によれば、教会は主が建てたものであり、世の終わりまで崩れないものだからだ。

(文責:金田一輝)




posted by kanedaitsuki at 09:03| Comment(0) | TrackBack(0) | レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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